【書評】人新世の「資本論」斎藤幸平著 集英社新書)

 ーー温暖化の危機に「脱成長コミュニズム」を対置するが?

 

 菅が所信表明演説中ではほとんど唯一ともいえる“将来ビジョン”として2050年までのカーボンニュートラルを打ち出す中、斎藤幸平の表題の本が話題を呼んでいる。新MEGA等で明らかになった草稿やノートをもとに(特に「資本論」以後の晩期の)マルクスを新解釈し、「脱成長コミュニズム」といった“新しい”マルクス像を提示しているからである。

 西欧諸国等ではこぞって「グリーン・ニューディール」に舵を切る中で、菅の打ち出すカーボンニュートラルは「原子力も安全優先で進める」といった電力資本に配慮した陳腐なものである。それに対して斎藤は、「グリーン・ニューディール」でさえ気候変動を止めることはできない、資本主義がそもそも環境破壊的なのだから資本を廃絶した「脱成長コミュニズム」以外に解決の道はないと極めてラディカルな主張をし、19世紀の“遺物”としてか旧ソ連等によって“手垢にまみれた”マルクス思想の真の姿を提示していると言うのである。

 

◆グリーン・ニューディールではなぜ気候変動を止められないか

 

 まず「人新世」(ひとしんせい)という耳慣れない言葉であるが、これはノーベル化学賞を受賞したオランダのパウエル・クルッツェンが人類が地球に与えた影響があまりに大きいために地質学的に見て新たな年代に突入したとして命名したものである。

 斎藤はさまざまな観点から上記の「グリーン・ニューディール」(気候ケインズ主義)等について論じているが、一つの中心的な観念はイギリスの政治経済学者ケイト・ラワーズの「ドーナツ経済論」である。これは経済発展水準を、地球の環境的上限(プラネタリー・バウンダリー)と衣食住や健康・教育などの最低限の社会的閾値の間に納めなければならないという構想である。しかし、実際には現在の先進国経済は前者の環境的上限をはるかに超える水準にあり、他方、途上国では多くが後者の下限を下回っている。これでは持続可能性もなければグローバルに考えた社会的公平性も確保されないと言うのだ。

 斎藤のもう一つの論拠は、先進国は労働の搾取(収奪)においても環境負荷においてもその矛盾の多くを周辺であるグローバル・サウスに転化し「外部化」してきたということである。先進国の「帝国的生活様式」は、実際にはグローバル・サウスの犠牲の上に成り立っているのだ。だから、例えば「グリーン・ニューディール」等で一見カーボン・ニュートラルが実現したように見えたとしても、「カーボンフットプリント」(原料の生産や廃棄物の行方なども考慮に入れた、CO2の足跡)を見れば、先進国について見ても決して本当のニュートラルではないということである。また、再生可能エネルギーの比率が高まったとしても、その多くは新たな経済成長のためのエネルギーとして使われ、従来の化石燃料の使用量は減少していないとも言う。

 

◆マルクスの新解釈?

 

 斎藤は、マルクスは1867年の『資本論』(第一巻)の出版後にその思想を大きく変えたと言っている。彼によれば、従来のマルクス解釈ではマルクスは「生産力至上主義」であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」をもっていた、マルクスは資本論の中でも、人間の労働は自然と人間との「物質代謝」を媒介することによって人類の生存を可能としている、しかし、資本主義は利潤優先でその場かぎりの「略奪的」生産を行うことによって「物質代謝を撹乱」し「修復不可能な亀裂」を生み出すとも言っている。しかし、晩年のマルクスはロシアのミールやドイツのマルク共同体の研究を通じて、あるいはメソポタミアやエジプト、インドの古代文明滅亡の研究(当時のドイツの農学者フラーツはこうした古代文明が森林の過伐採によって滅亡したと論じていた)を通じて、脱成長的(持続可能な定常型経済)で複線的な歴史観に大きく変化したと言うのだ。

彼は、その証拠としてロシアのナロードニキであった「ザスーリッチへの手紙」や「ゴータ綱領批判」の記述、さらには上掲フラーツの「研究ノート」等々を上げている。しかし、そもそもマルクスが「生産力至上主義」的であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」を持っていた等々の解釈は、旧ソ連のスターリン派の解釈(その意味で世界の“正統”マルクス主義の解釈)でしかないのではないか。マルクスが晩年その関心をより広げ深めていったのは事実であるとしても、上記文献等についての斎藤の解釈はいかにも牽強付会の観を否めない。

 

◆「コモン」という観念

 

 斎藤の「脱成長コミュニズム」で中心的な観念を占めているのは「コモン」という観念である。「コモン」とは「社会的に人々によって共有され、管理されるべき富」であり、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『帝国』で提起した概念であるという。彼は、この観念を用いて「収奪者が収奪される」という『資本論』の有名な個所(第1巻第23章の末尾)を解釈し直しているのであるが、要は「土地と生産手段の共有」のことなのである。これを「コモン」と言い換えたところで、所詮は物事を曖昧化し、我々がなすべきことをぼかす効果しかないと言うべきであろう。『帝国』は世の識者が好んで言及する本であり、先にあげた「帝国的生活様式」とか「周辺と中核」、「外部化」等々もそうであるが欧米の学者や識者が使う言葉をありがたがって無批判に使うのは日本の学者の悪い癖である(あるいは、世界の学者や識者のそれ自身疎外された狭い世界のネットワークではそんなことでしか独自性を誇示できないということか)。

 

◆本源的蓄積とは「コモンの解体と希少性の増大」?

 

  斎藤はマルクスのいう本源的蓄積を解釈して、「本当は、この囲い込みの過程を『潤沢さと『希少性という視点からとらえ返したのが、マルクスの『本源的蓄積論なのである。」(p.237)「コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての『価値を増やすのである。」(p.251)などと言っている。土地や水、等々の場合は確かにそうだ。しかし、それは(本来は価値をもたないものの)擬制的価値(地代、等)であって、(彼がそれを理解していないわけではないとは思うが)本来的な価値の増大は労働の搾取によっているのだ。また、「私的所有になる」のはマルクスの言う土地(大地)だけではなく、既に人間によって作り出された生産手段(とりわけ労働手段)でもあり、しかもそれらは単なる私的所有ではなく資本の所有であり資本そのものとなるのだ。だから、それは単なる希少性ではない。彼が「価値」というものを本当に理解しているのか大いに疑問を持たざるを得ないのであるが、同時に、彼の言うコミュニズムにおいてはそもそも「価値」とか商品交換等々はなくなるのか、なくならないのか、彼の本を読む限りでははなはだ心もとないのである。

 

◆アソシエーションや生産手段の「自律的・水平的管理」の強調

 

  彼もまた多くの識者と同様にアソシエーション論を強調し、生産手段の「自律的・水平的管理」の強調している。しかし、それはよく考えてみると、彼の旧ソ連等の“社会主義”への否定的評価からきているのだということがわかる。

彼は次のように言っている。「従来のマルクス主義が成長の論理にとらわれ続けてきた…実際、ソ連の場合は、官僚が国営企業を管理しようとして、結果的には、『国家資本主義と呼ぶべき代物になってしまった。」(p.351-52)ここで彼はある種の「国家資本主義」といったものを持ち出しているが、その経済的内容を理解しているかどうかは不分明だ。しかし、「官僚が国営企業を管理」することによって権力主義的・独裁的になり「参加型民主主義」が実現していないことを言っているのである。そうした「垂直的」管理ではなく「自律的・水平的管理」が必要だと言いたいのである。

しかし、細部の管理は地方や個々の生産体に任されるとしても国民経済的規模での共同管理(計画化、等)の側面は少なからず必要である。また、「労働に応じて分配」するためには個々の製品がどれだけの労働によって作られているのかを算出しなければならず、そのためには全国規模の集計と計算も必要となる。だから、もちろん「参加型民主主義」が最大限保障されるような仕組みは考えられなければならないとしても、分散した協同組合のようなものだけでコミュニズムが成立することはあり得ないのである。

(長野、YS