労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

資本論

柄谷“理論”は正しいか?――「“交換”こそが『資本論』の中心」?

神奈川で『資本論』などの学習活動をしている『横浜労働者くらぶ』の会報で、宇野弘蔵を高く評価する柄谷行人氏について、その非マルクス主義を指摘する論評が掲載されています。『資本論』の理解の一助になると考え、紹介します。(担当)―—会報での文章を一部校正しています。——

 

「“交換”こそが『資本論』の中心」!?

― 柄谷“理論”は正しいか?―

 

先月の『資本論第2巻』学習会で、Hさんが、朝日新聞(3 13 日朝刊)で、柄谷行人氏が「“交換”こそが『資本論』の中心」だ、と述べていると紹介された。私はそれを読んでいなかったが、マルクスの経済学は、生産こそ経済の土台であり生産関係によって流通の在り方も決まる、交換が中心というのはおかしい、と意見を述べた。家に帰って早速当日の新聞に載っていた柄谷氏の「私の謎 マルクスの可能性 上」を読んだ。これまで私は、柄谷氏の著作を読んだことがなく、以前週刊文春(2023.1.512 合併号)で池上彰との対談とこの朝日の連載記事でしか氏の理論を知らなかったが、それでも氏の理論は非常に問題があると感じていた。柄谷氏の著作も読まないで氏の理論を論評するのは、無責任のそしり

を免れないが、文春と朝日の対談で知ることができる限りで氏の理論を見てみたいと思う。

 

★宇野派に無批判に追随!

 

氏は昨年の同じ連載の「マルクスの本領 上」(23.8.9)で次のように述べている。「一番よく読んでいたのは、マルクス経済学者の宇野弘蔵です。『経済原論』など、入学して早速買いましたね。」「この本(鈴木鴻一郎(宇野派)の『経済学原理』)は、宇野の考えをさらに進めて見事にまとめている、『資本論』のことが初めてよく分かった」。

 

これを見てもわかるように柄谷氏は、あまりにも無邪気に宇野派の資本論理解を正しいものとしている。しかし当時においても宇野派の資本論理解には多くの批判があった。柄谷氏はそれらを検討したのだろうか? 宇野派に対する批判には触れておらず、到底そのようには思えないのである。

 

★史的唯物論はマルクスのものではない?

 

「マルクス主義の主流派は、『資本論』は大事だと言うけれども、あくまで<史的唯物論>が基礎にある。 <史的唯物論>は、元来エンゲルスが考えたようなもので、マルクスの思想とは言えない。一方、宇野派は『資本論』を緻密に再構成したのです。」

 

ここで氏は、何の根拠もなく突然、マルクスと史的唯物論(唯物史観)を切り離し、史的唯物論をエンゲルスの創始であるかに(一部のインテリも言っているが)語っている。

 

しかし史的唯物論は、エンゲルス自身が、「唯物論的な歴史観は、私ではなくてマルクスが発見したもの」(『ドイツ農民戦争』序文)と述べ、またマルクス自身も、唯物史観を“導きの糸”にしたと語っている(『経済学批判』序文)ように、唯物史観はマルクス主義の剰余価値論と並ぶマルクスの二大発見である(『空想から科学へ』)。しかし史的唯物論については、ここでは問題から外れるので問題にしないでおこう。

 

柄谷は「宇野派は『資本論』を緻密に再構成した」というが、これは宇野が、ウェーバー流に資本主義の理想型、つまり、資本主義が永遠に自己運動するという、いわゆる“純粋資本主義”なるものを考えたことを指している。こうして宇野は、『資本論』から、資本主義の生成、発展、没落を説く史的唯物論を余計な物、単なるイデオロギーとして排除したのである。柄谷の理論はあまりにも無批判に宇野派に追随しているのだ。

 

★「交換の謎」「交換の物神の力」など

―― “交換”を呪物化!

 

柄谷理論の中心は“交換”である。柄谷は次のように述べている。「『資本論』において着目すべきなのは、物の交換がもたらす観念的な力(物神)だということです。しかし、従来のマルクス主義では、”中心”は史的唯物論、つまり生産様式にあると考えられていて、”交換”の問題は”周辺”に追いやられてほぼ無視されていた。僕はそれを前面に出したんです。」(23.8.9)「<物神>という考えは、マルクスの冗談だと受け取られていました。…しかし、僕は、マルクスは本気で物神のことを考えた人だと思った。マルクスこそ、交換の謎を見ていた、と。

 

柄谷はここで、交換を何か生産様式と対立する別個の存在として考えているようだが、エンゲルスが「唯物史観は、次の命題から出発する。すなわち、生産が、そして生産の次にはその生産物の交換が、あらゆる社会制度の基礎であるということ」(『空想から科学へ』)あるいはマルクスが「生産者たちが相互に取り結ぶ社会的関係、そのもとで彼らがその諸活動を交換しあうことによってのみ、生産する」(『賃労働と資本』)等と述べていることから明らかなように、決して交換は生産と切り離されたものではなく生産様式の一部であり、生産関係そのものなのである。

 

柄谷は、「マルクスも労働価値説を引き継ぎましたが、彼の独自性は、商品と商品との交換様式から価値を考えたところにある。宇野や宇野派はこのことをつかんでいたと思います。この交換にはマルクスの言うところの<物神>(フェティッシュ)の力が関わっている。」(23.8.9) 柄谷は、「マルクスの独自性は、商品と商品の交換様式から価値を考えたところにある、宇野や宇野派はこのことをつかんでいた」というが、いったいどうゆう意味か?

 

マルクスは、交換様式から価値など考えたりしていない。彼は、単純な商品において、人間の欲望や使用価値を捨象して、抽象によって価値の実体を把握したのである。また、宇野や宇野派が「交換様式から価値をつかんでいた」というのは、宇野が、物々交換から始まって資本主義的商品の交換に至るまでの商品経済の発展が価値の実体を明らかにした、などといって宇野が抽象を否定したことを指しているのか?

 

柄谷の宇野への追随は限りがない。さらに柄谷は、ここで「交換の謎」とか、「交換のもたらす観念的な力」、「物神の力」などと述べているが、それが何であるか一向にはっきりしない。商品の物神性とは、生産物が商品になることによって抽象的人間労働が価値として現れ、その価値を、商品があたかも自然的属性のように持っているように見えることを言うのである。

 

「交換の謎」とか「交換の物神の力」などと交換に何か呪物性があるかに語っているが、マルクスが商品の物神性に似たものとして宗教を例示していることに暗示を受け、柄谷がこじつけたのだろうか?

 

★商品には価値が内在しない!?

 

さらに柄谷は次のように述べる。「いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”をはらんでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから」と。

 

しかし、商品が「価値をはらんでいない」、「価値が内在していない」としたら、価値が交換価値として現象することはないし、商品交換も生じない。柄谷は、物神性の”錯覚“がどこから来るのか分かっていないのだ。

 

マルクスは、次のように述べている。「労働生産物が、商品形態をとるや否や生ずる、その謎に満ちた性質はどこから発生するのか? 明らかにこの形態自身からである。」(岩波第1分冊p131)つまり抽象的人間労働は、生産物の歴史的形態である商品形態において価値として現象するのである。

 

★価値は「異なる価値体系間の交換から生まれる」!?

 

では、商品に価値が内在することを否定した柄谷は、どこに価値の創造を求めるのか? 柄谷は、価値は異なる価値体系との交換から生じるなどと、とんでもないことを言い出す。彼は、対談者が、「たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますよね。」ということばに答えて、次のように言う。「産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆に言うと、交換が成立しなければ、商品に価値がない」(24.3.13)と言う。

 

これは大変な商品価値の理解である! 柄谷は「交換が成立しなければ、商品に価値がない。」というが、そもそも商品は他の商品の存在とその交換を前提にしているのだ。柄谷にとって、価値とは抽象的人間労働が対象化されたものではなく、単なる“利益”にすぎない。柄谷のいう価値体系は、「場所や時代によって変わる」“値段”体系に過ぎず、「異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む」というものなのだ。

 

ここでは、価値と利益は同じものとされ、産業資本(商人資本はともかく)は、「異なる価値体系間の交換から価値を生み出す」と言うのである。産業資本は商人資本と同列に置かれ、剰余価値を労働者から搾取し利潤を生みだすのではないかに言う。商人資本と同じく「詐欺、瞞着、略奪」から利益を生み出すかに言うのである。

 

もう沢山である。初めに断ったように私は柄谷氏の著作を読んでいないが、朝日新聞の対談だけで以上の感想を持った。氏は、珍奇な宇野理論を正しいと思い込み、自分に都合の良い部分をとっているだけである。改めて氏の著作を読む気も失せてしまった。(K)

 

『労働者くらぶ』通算第40号2024424日『横浜労働者くらぶ』発行

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

 5月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・5月22日(水)18 30 分~20 30   / 県民センター703 号室

*第12章第3節「工場制手工業の二つの基本形態」から第13章第1節「機械装置の 発達」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・5月8日(水)18 30 分~20 30 県民センター703 号室

*第 8 章「固定資本と流動資本」から第10章「固定資本と流動資本にかんする諸理 論」まで学習します。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

・5月15日(水)18 30 分~20 30 / 県民センター703 号室 *論文「青年同盟の任務」他2篇を読みます。

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

大谷禎之介氏の「一般的利潤率」の形成の「説明」について

資本論学習会を行う仲間からの投稿を紹介します。資本論第3巻第2篇「利潤の平均利潤への転化」10章「競争による一般的利潤率の平均化」について、大谷禎之介氏の「一般的利潤率」の形成の「説明」を検討しています。

 

恣意的な表式で「一般的利潤率」の形成を「説明」する大谷氏

 

 『資本論』でのマルクスの分析・考察は、価値通りの交換から出発して、価値概念と剰余価値、したがって価値法則を科学的に論証してきた。しかし、価値通りの交換によれば、諸資本は資本の構成の相違によって違った利潤(剰余価値)を取得することになるが、現実の資本主義的生産社会では、どの生産部門の資本も同じ大きさの利潤(率)をあげている。この現実を価値法則と矛盾することなく科学的に解明することが『資本論』第3巻の主要な課題ともなっていた(第3巻「序文」参照)。

 

 筆者が参加する『資本論』学習会は、まさにこの課題に応える第2篇「利潤の平均利潤への転化」の10章「競争による一般的利潤率の平均化」の検討が最後の数段落を残すのみとなった。次回で10章を終える締め括りとして、報告を担当していたMさんから、大谷禎之介氏の『図解・社会経済学』からの《一回の資本の移動で平均利潤が形成される表式》のコピーが参考資料として配布され、検討することになった。

 

 この表式は煩雑で、読み下すのも大変なこともあり、ここでは簡略化して紹介する。

 

 有機的構成が高い生産部門Ⅰ(大工業部門)から最も低いⅤ部門(零細軽工業部門)まで五つの生産部門の費用価格(c+v)=投下資本は同じ100でも、価値通りでの利潤率はⅠの5%からⅤの35%と違いがあるが、それぞれの生産部門の需給が一致している所から出発している。

 

 ここから大谷氏は利潤率の高い部門へ資本が移動すると(Ⅰから20、Ⅱから10の30がⅣへ10、Ⅴへ20移動する)、需給関係が変化して移動元では「ⅠおよびⅡの商品にたいする需要がそれぞれ9.11および7.08だけ減退し、〔移動先の〕およびの商品にたいする需要がそれぞれで7.08および9.11だけ増大したとしよう」と突然任意だとする数字を出し、実現利潤率が全部門で21.4%になるという表式なのだ。実は、この需給関係の小数点以下2桁の増減は、任意の数字ではなく移動先で需給を一致させる作為的な数字だったのだ!?

 

 3巻9章では、平均利潤率と生産価格の概念が、需給関係が商品価格に作用しない均衡状態において導き出された。10章ではその現実のメカニズムが追究され、市場における生産者の商品価格=市場価格を巡る競争として現出するが、競争は「一つの平均水準に落ち着かせる」がこの「平均水準を規定するための要素は競争には絶対にない」と、剰余価値の限界、価値法則の支配という限界の中で需要供給などの影響という具体的な事情も視野に入れ、資本は利潤率の低い生産部門から利潤率のより高い部門に移動する。この資本の不断の移動による諸商品価格の変動を通じて、一般的利潤率を獲得できる生産価格に諸商品の価格を導いていくというのがマルクスの見解なのだ。

 

 大谷氏も、資本の移動による需給関係の変動が諸商品の価格を「一般的利潤率を獲得できる生産価格へと導く」と述べるが、資本の移動には、より大きな剰余価値を社会的総剰余価値から分け前として獲得できる限りで移動するのである。大谷氏の出発点の表式で有機的構成の低いⅤの(零細軽工業部門だが利潤率は35%)の部門に、有機的構成は高いが5%の利潤率しかない大工業部門であるⅠ部門の資本が移動すると「想定する」!? また100の資本で需要を満たしていた部門で20の資本が流出すれば、残った80の資本では需要が増えて商品価格は騰貴するはずだが、大谷氏は需要は-9.11%、商品価格も下がると「想定する」!? 移動先のの零細軽工業部門でも、競争相手が20も増えて供給過多となり商品価格は暴落するはずだが、表式では逆に騰貴すると「想定する」!? 実はそれは、大谷氏が設定した一般的利潤率と生産価格という「結果」から逆算して操作したからである!?

 

 マルクスは、需給関係の作用を排除して導き出すという方法(下向の道)による一般的利潤率と生産価格の最も抽象的で一般的な概念規定から、資本主義の現実の具体的な諸契機の問題へと分析と認識を深めていく方法(上向の道)によって科学的に正しい分析をおこなっている。しかし大谷氏は、資本の移動による需給関係と商品価格の変動という「上向の道」から出発するものの、利潤獲得を至上命題とする資本の運動からはおよそあり得ない「想定」と、「結果」から逆算した恣意的な数字で一般的利潤率と生産価格へと導かれると述べているのだ。

 

 こうした指摘にM氏は、「大谷氏の表式を絶対化するつもりはない。資本主義の現実のメカニズムを分析する手法の試論として紹介した」と弁解するしかなかった。後日のメールでは、「マルクスの記述に直接対応しようとして、かなり強引な辻褄合わせになっているような気がします」と書いてきた。

 

 『資本論』を曲解する多くの本を出してきた不破哲三に、資料提供で協力してきた共産党系学者の大谷氏の「説明」に対するマルクスの、〝厳しい批判〟を紹介する。

 

 「諸商品の価値どおりの交換または販売は、合理的なものであり、諸商品の均衡の自然的法則である。この法則から出発して偏差を説明するべきであって、逆に偏差から法則そのものを説明してはならないのである」(『資本論』3巻10章、原頁197)  (Y)

斎藤幸平「人新世」ブームに思う

斎藤幸平「人新世」ブームに思う

――既存〝左翼〟への不信とマンモス資本主義への抵抗と――

 

 斎藤幸平の『人新世の「資本論」』については『海つばめ』1391号(20201122日)でも書評が掲載されたが、この本はその後も好調に売れているようで、書店には山積みで置かれ、中央公論社の2020年新書大賞にも輝いたという。多くの新聞その他で書評や対談等が組まれ、今年1月にはNHK-Eテレ「100de名著」でも斎藤の解説によるマルクスの『資本論』が取り上げられた。

 

NHK-Eテレでは2010年にも『資本論』が取り上げられた(解説者、的場昭弘)。10年前は2008年のリーマンショックから始まる世界金融危機の影響があったのだろうが、今回は格差の一層の拡大や気候変動などの地球環境問題、新型コロナのパンデミック、等々が影響しているのだろう。一種の閉塞状況の中でマルクスの〝新解釈〟(!?)が歓迎されている面もあるかもしれない。

 

 『人新世の「資本論」』では主に気候変動の問題を扱いながらマルクスの(かなり牽強付会な)〝新解釈〟が述べられているが、Eテレの「100de名著」では一応『資本論』(第一巻)の概説をしながら、最後の第4回目に〝新解釈〟や具体的な展望に触れられている。

 

〝新解釈〟については『海つばめ』の書評で既に触れているので、ここでは「100de名著」のテキストに添って、主に斎藤の上げている「具体的な展望」について論じてみたい。

 

 NHKの「100de名著」は一回25分の番組で、一か月(4回)でワンシリーズとなっている。斎藤の『資本論』は、一回目が「商品による物象化」、二回目は「資本と剰余価値、過労死問題」、三回目は「相対的剰余価値の生産(イノベーション)、ブルシェット・ジョブ」等が取り上げられ、資本による土地や“公共物”の「囲い込み」を強調している点が特徴的で、この点が第4回目の「商品化の力を弱めて、人々が参加できる民主主義の領域を経済の領域にも広げよう」、コモン(公共領域)を広げていく抵抗、等々の改良主義的抵抗の美化と結びついている。

 

4回目は上述のように、マルクスの〝新解釈〟や具体的な〝展望〟が述べられていて、ここに斎藤の独りよがりや学者としての立場上の限界、NHKの〝公共〟放送としての限界、等々が特徴的に見られるのである。

 

斎藤があげている具体的な展望例は、電気を地産地消する「市民電力」の取り組み、協同で事業を運営する「ワーカーズコープ」、インターネットアプリを介してスキルやモノをシェアする「シェアリング・エコノミー」、スペインのバルセロナの呼びかけで始まった「ミュニシパリズム」(地域自治主義)、「ドーナツ経済」の考えを導入して公営住宅を拡充したりレアメタル等を生産するアフリカ・コンゴとの連帯を進めるアムステルダム市、等々である。

 

彼はこれらの例を実在する「アソシエーション」への動きとして持ち上げ、何か大きな希望であるかのように言及しているのである(同様の例は、『人新世の「資本論」』でもより詳しく取り上げられている)。

 

これらの例に共通して見られるのは、既存の〝共産主義運動〟や〝社会主義運動〟の枠を破ってグローバル資本主義や独占的大企業の横暴に抵抗する地方的・市民的な運動である。

 

ここには既存〝左翼〟に対する不信とマンモス化する資本主義に対する抵抗が共存しており、斎藤が心惹かれるのもそこにあるのだろう。

 

しかし、「市民電力」のような地域的で小規模な取り組みだけでは巨大電力会社の足元にも及ばないし、バルセロナやアムステルダムの例は日本にもかつてあった革新自治体の現代版にすぎないであろう。

 

日本でも昨年ワーカーズ・コープ法(労働者協同組合法)が成立し、何か労働者の自主的参加による事業が可能になったかに持ち上げられているが、労働者協同組合といっても実際は主としてサービス業の中の隙間的な部門や資本力のない地方での労働力活用策程度のものでしかなく、体のいい派遣会社(最も低賃金の)のようなものでしかないのだ。

 

したがって、このような運動が広がっていったとしても、それで自動的にコミュニズムが成立するわけでは全くない。

 

資本主義のあらゆる矛盾の現れを捉えて幅広く連帯し、協同組合的な運動等により問題の現実的な解決を図っていくことも場合によっては必要であろう。しかし、もっとも重要なのは最終的な権力奪取であり、それによる社会全体の改造である。

 

斎藤は、彼の言う〝コミュニズム〟を本気で実現したいと思うのならば上記のような運動の限界をこそ指摘するべきであり、また、体制内化してもはや〝コミュニズム〟の〝コ〟の字も忘れてしまった既存労働運動や既存〝左翼〟運動の批判的な吟味こそが必要ではなかろうか。

 

斎藤の著書やNHKの番組を見て痛快に感じた人も多いだろうが、それだけではせいぜい単なる〝ガス抜き〟程度にしかならない。

 

また、『資本論』や「コミュニズム」に対する関心が高まることは大いに歓迎すべきことではある。しかし、実際に運動を進めていくことは決してそう簡単ではないし、日本や世界の運動の現状は必ずしも楽観できる状況ではないことも冷静に考える必要がある。

 

我が労働者党は各地で資本論読書会や学習会も進めている。斎藤の著書などを通じて『資本論』や「コミュニズム」に関心を持たれた労働者・働く皆さんには是非とも我々の読書会・学習会にも顔を出していただき共に闘いの方途について学習していきたいものだ。

 

(長野・YS) 

佐々木隆治著「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)を論ず

《書評》佐々木隆治著「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)を論ず

 

マルクスを改良主義者に仕立てる学者の一人

――職種別・産業別労働組合の賃金闘争は資本の「物象の力」を削ぐ力と

 

『海つばめ』1395号の「ジョブ型雇用に転換急ぐ企業――『ジョブ型労働社会』論では闘えない」にて、佐々木隆治氏が職種別・産業別労働組合の闘いがあたかも「私的労働としての性格を緩和させる」ことができるかに論じたことを批判した。

 

佐々木氏はマルクス主義経済学者であり『資本論』解説本も出しているが、労働者のために真に労働の解放を目指して闘うのではなく、結局は、マルクスを改良主義者に仕立て上げる学者たちの一人になっているようだ。

 

◎マルクスの改良主義的主張とは?

 

今回、ここで敢えて佐々木氏の理屈を取り上げるのは、彼が職種的・産業別労働組合を正しく導くのではなく、賃金闘争を祭り上げ、結局は労働組合運動を改良的闘いに切り縮めていると判断できるからである――ここで取り上げる佐々木氏の「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)は、大分前になるが、ある地域の『資本論』学習会にて佐々木氏と懇意にしている方から是非読んでくれと紹介され、読後感として「佐々木氏は構造改革論者なのか、労働者として受け入れがたい」と疑問を表明したことがあった。この私の感想が彼に伝えられたとも聞いていた、そういう関わりのあった本である。

 

佐々木氏は次のように言う。

「現存の資本主義社会のもとで、できるかぎり物象の力を弱め、労働の自由を実現しようとする実践に取り組むことである。なぜなら、そのような実践によってこそ、アソーシエイトした諸個人の力量を高め、資本主義的生産様式のラディカルな変革のための条件を形成することができるからである」として、マルクスも言っていることだとしながらその実践方法を3つ挙げている。

 

その第一は「労働時間の規制による自由時間の拡大」である。その理由は自由時間の拡大は「資本への直接的従属から解き放たれ、必ずしも物象の論理に包摂されない、あるいはそれに対抗するための社会的活動に従事する可能性が生まれるからというものだ(178~179頁)。

 

第二は、「物象の力を生み出す根源となっている私的労働という労働の社会的形態を変容させることである。つまり、それをアソーシエイトした諸個人による共同的労働への置き換えていくことである。マルクスは共同的労働においてこそ、物象化を抑制し、自由が可能になることを見抜いていた」、「もちろん、共同労働は資本主義的生産関係の内部では部分的にしか実現できない。例えば生産者協同組合はある意味では生産者はアソシエーション(諸個人のアソーシエイトにもとづく結社)だということができ、マルクスも高く評価するが、それが一つの企業であり、他の資本との競争にさらされている限り、それは依然として私的労働にとどまっている。しかしながら、労働者たちが生産的協同組合や労働組合の活動を通じて結合していくことは、アソシエーションの基礎を作り出す。とりわけ、労働組合は企業を越えて職種別・産業別に組織され、労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させるとともに、職種的ないし産業的規制を要求し、私的労働としての性格を緩和させることのできる力をもっている」(179~181頁)。

 

第三は、「労働者の生産手段にたいする従属的な関わり方を変容させていくことである。…賃労働においては、このような生産者と生産手段の自由な結合の可能性は剥奪されているが、部分的に取り戻すことは可能である。それは、現代では労働組合による経営権への関与というかたちで実際に実現されている」(182~184頁)。

 

◎「生産者協同組合」は貨幣や資本の力を弱めているか

 

マルクスを改良主義者に仕立て上げるのはとりわけ第二と第三である。

まず、第二で佐々木氏が主張するのは、資本の「物象の力」を弱める方法についてである。彼のいう「物象の力」とは、はっきりした定義をしていないので分かりにくいが、「貨幣や資本など」のことのようだ。佐々木氏は「共同労働においてこそ物象化を抑制」すると言い、資本主義においても「共同労働」が部分的に成立する場合がある、それは「生産者協同組合」であり、これは「生産者によるアソシエーション」であると言う。「生産者協同組合」では「共同労働」が部分的に成立している、それゆえに「生産者協同組合」は「貨幣や資本」の力を、資本主義そのものを弱めていると佐々木氏は主張する。

 

それでは「生産者協同組合」とはどんなものかを見て行こう。生産者協同組合は決してめずらしいものではなく、現在では色々な職種別の協同組合が設立されている。農業協同組合や漁業協同組合や各種工業協同組合などがあり、全国で多数が組織されている(児童保育や小売りや信用などの協同組合も含めるなら全国津々浦々にある)。

 

これらの生産者協同組合では、生産手段の共同管理や貸出や共同市場の開催・販売などが行われている。いずれも目的を一緒にする中小企業の経営者・個人経営者が組合に出資して組合員資格を得、組合の諸手段の共同利用や相互扶助を受けることができるようになっている。

 

こうした生産者協同組合もまた一種の企業体であり、「私的労働を廃棄しない」と佐々木氏も認識するのであるが、それにもかかわらず、敢えて資本の「物象化」と闘う「生産者によるアソシエーション」だと美化する必要性があるのか。協同組合に参加する生産者は生産手段を持ち、中には多数の労働者を雇う生産者も無数に生まれている。生産者協同組合に参加する生産者は、最初は個人的でも次第に労働者を雇い搾取する生産者、立派な資本の体現者になっていくのだ。

 

中小零細企業主の彼らが生産者協同組合に参加するのは、大企業からの厳しいコストダウンや品質管理や絶対的な納期対応を迫られる中で、また市場での価格競争にさらされ、常に危機意識を持っているからである。彼らは、こうした荒波を少しでも防ぐために組織している。

 

生産者協同組合に参加する小生産者の意識は佐々木氏が期待するほど〝革新的・革命的〟ではない。資本の「物象化」と闘うという意識がこの中で育っているとはお世辞にも言い難い。漁業や農業や工業の中小零細企業の経営者は、全てではないが、基本的に自分達の小生産や遅れた産業の保護を要求するという保守的な立場にたつ。これは、彼らの個人的な問題ではなく、小規模生産者の置かれた地位から必然的に生まれてくる自己防衛的な観念なのである。それゆえに、生産者協同組合は政治的な圧力団体としても表に登場してくるのである。彼らは政権政党や民族主義政党(共産党など)や地域政党に〝圧力〟をかけ、それと引き替えに支持・支援する。

 

企業が破産し労働者自身が工場を占拠し自主管理で生産を継続するような例もある。この場合は、正式には生産者協同組合とは言えないが、労働者の自主管理生産というくくりで見ることができよう。

 

例えば、かつて名を成した「ペトリカメラ」(カメラメーカー)では、労働者が資本の倒産・破産に抗して闘い、生活のために自主生産を始めた。だがカネ・部品の調達や品質管理・生産管理においてうまく軌道に乗らず、労働者の賃金は「倒産時の6割」にまで下がってしまった。だが、その後に別会社として再建された「ペトリ工業」は、新たに雇用したパート労働者に依存する経営となった。このように、ペトリの労働者自身の自主生産の場合でも、結局は組合幹部が社長=経営者になり、資本間の競争に打ち勝つために労働者に長時間労働や低賃金を強いる結果にならざるをえなかった。こういう例が多いということだ。

 

以上、生産者協同組合を具体的に見てきた。

佐々木氏は生産者協同組合を「アソシエーション」(社会主義的?)と規定する。なぜなら、生産者協同組合は「共同生産」が一定程度成立しているから資本主義と闘っている、つまり資本主義の「物象の力」を弱めていると言う。佐々木氏がそう思うのは自由だが、現実を分析すれば分かるように、佐々木氏の観念は途方もないものである。それゆえに、読者にとりわけ労働者に対して誤った観念を与えるという意味で極めて反動的である。

 

◎マルクスは生産者協同組合を「高く評価」したのか

 

佐々木氏に言わせると、マルクスは生産者協同組合を「高く評価」していたとのことだが本当か。むしろマルクスは生産者協同組合運動に対して全面的に賛成したのではなく、一定の条件の中で支持したのではなかったのか。マルクスは1864年9月28日に行われた「国際労働者協会創立宣言」の中で次の様に述べていた。

 

協同組合運動が「原則においてどんなにすぐれていようとも、また実践においてどんなに有益であろうとも、協同組合運動は、もしそれが個々の労働者のときたまの努力の狭い範囲内にとどめられるなら、独占の幾何級数的成長を阻止することも、大衆の不幸の重荷を目にみえて軽くすることさえも、けっしてできないであろう」(国民文庫=15、大月書店刊、22頁)。

 

要するにマルクスは社会変革の道具となる限りで、協同組合的生産を支持していたのは明らかであろう。先に紹介したペトリの自主管理生産の例でも明らかなように、この闘いは一時的な労働者の利益につながったが、社会的な広がりと大きな協賛とその後に続く動きはなかった。つまり、ペトリの闘いもまた、マルクスの「国際労働者協会創立宣言」で述べた評価と重なるのである。

 

マルクスからいくら引用してもいいが、間違った引用をするのは良くないし、労働者を惑わすもとになる。マルクスの発言を一部切り取り、しかも現実の諸条件を分析しないならば、生産者協同組合が資本主義の「物象の力」を弱めるといくら唱えても、それは空念仏のたぐいなのだ。

 

◎労働組合活動は「私的労働としての性格を緩和」するのか?

  ――私的労働の廃止による共同体社会とは何か

 

また、佐々木氏は生産者協同組合もさることながら、労働組合の活動についても独特の位置づけをする。彼は次の様に言う。

 

「とりわけ労働組合は企業を越えて職種別・産業別に組織され、労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させるとともに、職種的ないし産業的規制を要求し、私的労働としての性格を緩和させることのできる力を持っている」。

 

そこで、以下では労働組合とは何かを考え、さらにそこに止まらずに労働者の進むべき方向を問う。その上で佐々木氏の労働組合論を論じたいと思う。

 

労働者は資本に雇われている間だけ働き、賃金を得て生きていくことができる存在である。このことはどんな労働者も知っていることである。労働者は、資本に労働力を売る「賃金奴隷」であるゆえに、労働組合に結集し、労働者自らの生活と権利を守ろうとすることも周知の事実である。

 

従って、労働者が労働組合に団結し賃金闘争を闘うのも、自らの生活維持費を得るためであり、物価が上がれば労働者はその後追いを迫られるのである。賃金闘争は資本と賃労働の関係が続く限り永遠について回るものであり、その意味で階級闘争の一断面である。

 

しかし労働者は賃金闘争(労働組合運動)に止まることはできない。

「賃金奴隷」のくびきから解放する思想と闘いの必要を自覚した労働者は、労働組合運動の意義を認めつつも、労働者自らが労働の解放を求める政治的・思想的闘いに、すなわち「労働者党」に参加するようになるし、そうして階級闘争を発展させて現実を変革するのである。

 

労働の解放とは、資本と賃金労働の社会関係の廃絶であり、資本主義の基礎である商品関係の廃止でもある。資本主義では、労働力(労働能力)もまた商品となる。この労働力商品の価値とは、労働力を再生産するための労働者の衣食住の費用と規定される。労働力の価値規定に従えば、教育費や専門的修業費がこの中に含まれるのであるから、専門的技術者(医者も)や研究者などの「複雑労働」者の労働力商品の価値は当然に大きく、これが賃金差別の基礎となり、ブルジョアでさえこれを利用する。

 

しかし、労働者がめざす高度な共同体社会(生産手段は社会的共有)では、今まで各人各家庭が背負っていた子供の保育・教育、技術的育成、医療や親の介護などは社会化される。従って、資本主義における賃金は、労働力の価値に基づき、各人各家庭の生活の違いがそのまま労働力の価値規定として反映されていたが、共同体ではこうした違いは無くなっていく。

 

従って、共同体社会では、全ての労働可能な共同体成員は生産(生産的労働)に参加する「労働時間」に基づいて消費財を受取ることができるようになる。つまり各人が生産へ参加し消費財の分配を受け取る関係は透明となり、「単純労働」とか「複雑労働」の概念は不要となり、職種や男女差や人種の違いなどによる一切の差別はない。

 

さらに、この共同体は資本主義と違って、人々が福祉を広く享受できる社会である。高度な生産力を利用して(より数多く生産すると言う意味ではない)、さらに格段と短い労働時間で必要な生活手段を得ることができるようになり、それだけ「自由な」時間も拡大する。

 

それにつれて、今まで社会的生産に参加した「労働時間」に規制されて消費財の分配を受けていた関係は緩和されていき、各人は「能力に応じて喜びをもって働き必要に応じて分配される」ようになる。また、労働不能の人々には「共同体原理」において、共同体の一員として、社会的生産からの控除によって生活が保障される。

 

各人の社会的生産への参加は自主的で創造的であるが、他方で社会的である。社会的であるのは、各生産の場で自主的にかってに生産するなら、たちまち過剰生産または過少生産をもたらすからである。全社会的な生産と分配を合理的に計画しなければならないのである。また各生産の持ち場においても、各人は共同的・民主的な運営を行うのはもちろんである。

 

それゆえ、資本主義では雇用される限りで生きていけるにすぎず、雇用されても非正規労働であれば明日の仕事があるのか絶えず不安であり、安息日は無かったが、共同体ではこうした不安は皆無となり、全ての人々による共同労働と互助に支えられて、資本主義では発揮できなかった人々の限りない能力が発揮されるようになる。

 

労働時間の大幅な短縮は各成員の自由な時間を保証するが、そのためにも、一定の高度な生産力は必要とされるのである。斎藤幸平氏が言うような「スローダウン」の生産と消費を強いるならば、決して高度な共同体社会(共産主義社会)を実現することはできない。もちろん、この共同体社会は利潤追求のためではない、従って、環境に最も配慮した社会になるのであり、それを前提とした社会的総再生産を実行していくのである。

 

回り道をしたが、それでは佐々木氏の労働組合論に戻ることにする。

佐々木氏は職種的・産業別に組織された労働組合が「労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させ」、「私的労働としての性格を緩和させることのできる力を持っている」と言う。まるで労働組合の賃金闘争は、資本の力を弱め資本主義の廃絶に接近させるかである。高賃金によって個人消費を拡大し国民経済を回復するという共産党系学者は多いが、佐々木氏のように、労働組合の賃金闘争を革命闘争のように持ち上げる組合主義者はいてもマルクス主義経済学者はそういない。

 

佐々木氏の労働組合論は、結局次のような結論になるしかない。

労働者は職種別・産業別労働組合を組織し、そのもとで高い賃金を得る闘争に専念していれば、資本主義を弱める運動になるというものであり、結局は労働者を労働組合運動に専念させ、埋没させて、改良主義を強いるのだ。それでいいのか、佐々木氏よ。

 

◎経営参加をも美化し、構造改革派の本性を暴露する

 

 第三で、佐々木氏が推奨することは、労働者の経営参加についてである。

労働者は生産手段から切り離されているから、「経営権に関与」し、つまり経営参加をかちとることができれば、労働者が剥奪されている「生産手段との結合」を取り戻すことが出来ると言う。

 

ここにも佐々木氏の構造改革派としの本領が発揮されている。

労働組合の幹部が経営に参加し、企業経営に影響を与えるとしても、それは強力な労働者たちの闘いがあってこそ諸要求が実現できるのではないのか。しかも現実に労働者の闘いが発展する場合には、経営参加などという牧歌的な構想はどこかにすっ飛んでしまうのが普通である。こんなことは労働組合運動の歴史を紐解けば、直ぐに分かることである。

 

そもそも労働者側と経営者側の要求や思惑が最初から一致するのは、労働者側の賃金アップや労働条件改善要求ではありえず、経営者側の要求するラインのスピードアップや作業効率改善や品質改善運動でもありえない。

 

利潤を追求し他社との競争に勝つために、労使が一丸となるのは、経営者側の要求を労働者が受け入れた場合が多い。その限りにおいて、労使は一体となり、経営参加が上手く機能するのである。戦後の右派労働運動が労使協調路線の上で労働組合幹部が経営協議に参加し、その結果を労働者に押し付けてきた。それゆえに経営参加に積極的な組合幹部は「第二労務部」と労働者に比喩されて来たのではなかったのか。

 

佐々木氏は生コンの労働組合が環境規制を実現させた例をあげているが、その場合でも労働者側が強い要求を突き付けたからであって、経営参加という仲良しクラブの会合の成果ではなかったはずだ。ここでも、佐々木氏は経営参加に「生産者と生産手段の結合」を見出すのであるが、結局は、労使協調路線を賛美する結果になってしまっている。こうした結果を招くからこそ、安易にマルクスの言葉をちりばめるのは止めた方がいいのである。

 

最後に、佐々木氏のような構造改革論(白井聡氏や斎藤幸平氏らの主張もそうであり、別の機会に取り上げたい)を労働者は乗り越え、労働の解放をめざす理論的組織的な闘いに立ち上がるよう訴える。   (W)


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