労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

国家論

「パリ・コミューン」とは何であったか?

今年はパリ・コミューンの150周年に当たります。神奈川の横浜労働者くらぶ発行「労働者くらぶ第11号」の、「パリ・コミューンとは何であったか?」の論文を紹介します。

 

「パリ・コミューン」とは何であったか?

パリ・コミューンは史上初の労働者政府であった

 

マルクスは述べている、「コミューンの本当の秘密は、こうであった。それは本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級に対する生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放を成し遂げるための、ついに発見された政治形態であった」(『フランスの内乱』岩波文庫p101)。確かにパリ・コミューンは、「労働者階級の政府」であった。

 

それは、コミューン政府の選出された64名の議員の構成を見てみればわかる(20余名のブルジョア派は脱退した)。そのうち26名が労働者、30人以上が勤労者であり、その他は小企業主や知識人(教師、医師、ジャーナリスト、弁護士)であったが、これらの小ブルジョアも労働者に同情的であった。

 

しかしこの26名の労働者を近代的大工業のプロレタリアートと考えてはならない。第二帝政下の60年代半ばに産業革命を達成したとはいえ、この工業化は多くの小工業や家内工業を取り残したまま行われ、労働者の多くは植字工、彫金工、裁縫師といった伝統的な手工業労働者であり、大工業の労働者は全体の一割にも満たなかった。

 

とはいえ彼らの少なからずが、20年前の二月革命や6月蜂起を経験し、フランス革命以来の革命的伝統を共有している独立自尊の労働者であった。こうした労働者を中心としたコミューン政府は、マルクスの言うように労働者階級、生産者階級の政府であった。

 

パリ・コミューンを構成している党派

 

「コミューン」のイメージはさまざまだ。領主から自由を闘い取った中世の「自由都市としてのコミューン」、フランス革命時の「革命的コミューン」、ブランキ派の「革命的独裁コミューン」、それとは反対のプルードン的あるいはバクーニン的な「反権威主義的コンミューン」等々。

 

しかし何といってもフランス革命における祖国防衛戦争の勝利の記憶がコミューンのイメージの底流となっている。国防政府の防衛に消極的な姿勢に憤激したパリの市民が、自らの手で防衛に立ち上がってできたのが、パリ・コミューンであった。

 

当初はパリの防衛という一点で一致していたのである。

 

3月26日に行われたコミューン選挙の議員の構成を見てみよう。まずインターナショナル派と思われる人物は64人のうち17人、それに近い社会主義者が17人、その他はブランキ主義者9人、フランス革命や二月革命の流れをくむジャコバン派が4人、それ以外の独立革命家が17人である。

 

この区分けはまったく大まかなものであって、各党派はお互いに影響され入り混じっている。しかも党派としては成立していないが、プルードンの相互主義と連合主義の影響は、コミューン委員に広く影響していた。

 

インター派は、マルクスが第一インターナショナルの創立宣言を書いたとはいえ、マルクス派によって固められていたわけではない。そもそも第一インターそのものが、国際的な労働者の闘いと団結の発展のために創設されたもので、緩やかな連帯を目指したものであった。

 

したがってその会員には、さまざまな思想や行動の者が混在していた。また『資本論』(ドイツ語版)の出版も1867年であり、そのフランス語版は、パリ・コミューン後の1872年に出ている。そういうわけでインター派の多くがプルードンやブランキの影響を受けていたのである。マルクスと文通があったと言われるフランケルやヴァイヤンにしてもマルクス“主義者”とは言えない。

 

パリ・コミューンの成立

 

パリ・コミューンの出発点は、1870年9月4日の第二帝政の廃止と共和制宣言である。しかしブルジョア的議会共和派から成る臨時国防政府は、口先だけの防衛声明を出すだけで、裏では降伏を決めていた。ただ彼らは民衆の蜂起を恐れていた。

 

当初パリの民衆は、祖国防衛という愛国的熱情のみに駆られて、国防政府を信頼したが、政府の裏切りが明らかになるにつれて、社会変革を目指してコミューンの樹立を求めるようになった。その最初の民衆蜂起がブランキ派の主導によって起こされた1031日の事件であったが、これはブルジョア的な国民軍によって鎮圧された。その後プロイセン軍のパリ包囲網が縮まり、パリ民衆の生活はますます困難なものとなる。

 

年が明けて1月5日からはプロイセン軍のパリ砲撃が始まったが、国防政府の形だけの出撃は敵によって撃破された。28日にボルドーの国民議会で成立したティエール政府は、徹底的なパリ制圧に踏み切り、まず国民軍の給料支払い停止を手始めに、手形や家賃の支払い延期措置の停止など、パリ民衆の生活を徹底的に締め上げたのである。

 

ここに至ってパリ民衆の怒りは頂点に達するが、ティエールのパリ武装解除をきっかけに、318日の大砲事件が起こった。蜂起した民衆は鎮圧に来た正規軍をも交歓に巻き込み、一夜のうちに主要な政府機関を国民軍が占拠したのである。ティエール政府はヴェルサイユに逃亡した。326日にはコミューン議員の選挙が行われ、28日にコミューンの成立が宣言されたのである。

 

コミューンの事業

 

選挙されたコミューン政府は、執行委員会をはじめ10の委員会(財務、軍事、司法、食糧、公共業務、労働・工業・交換、教育、保安、外交)から成り、各委員会は数人の委員による集団指導体制を取った。

 

コミューンは、立法府であると同時に行政府の機能を併せ持った機関、マルクスが言うように「議会風の機関ではなく、同時に執行し立法する行動的機関」であった。すべての官吏には徹底的なリコール制(いつでも解任でき、直接人民に責任を負う代表制)が実施され、その俸給は労働者の通常の賃金を超えないことに定められた。

 

また常備軍(正規軍)が廃止されコミューンの国民軍が、市の治安と防衛に当たった。表現・結社・集会の自由などの基本的人権は(反革命勢力の取り締まりに支障をきたすほど)十分に保障された。

 

労働委員会には、インター派の革命的社会主義者が集まっており、労働者の生活改善のための社会政策や労働の解放をめざす社会主義的な政策が実施された。ティエールによって撤回された家賃や手形の延期措置はただちに復活され、家を失った市民には空き家が提供された。

 

また経営者が逃亡したあとの工場は、労働者の協同組合の手によって自主管理された。労働者に対する罰金制や賃金カットは禁止され、長時間労働に苦しむパン焼き労働者の夜勤も禁止された。

 

印刷所などの国営企業でも労働者の生産管理が実施された。食糧供給委員会は、ティエール政府の飢餓戦術にもかかわらずパンと肉の補給に成功し、また貧困者の救済は、政府の義務とされた。

 

大きな実績を上げたのは、インター派の議員を中心とする教育委員会である。ここでは宗教と国家の分離の原則に基づいて教育の世俗化が推進され、完全な無料義務教育の原則と並んで、職業教育所の必要が提起された。また芸術活動については、芸術を政府の監督から解放し、芸術の自由な発展を目指すことや芸術家の自主的活動の尊重が謳われた。

 

パリ・コミューンの問題点

 

①ヴェルサイユへの進撃問題

 

先に述べたように、3月18日にティエール政府は、パリの武装解除に失敗し、パリは武装蜂起をした。政府軍と政府機関は、混乱の中であたふたとヴェルサイユへと逃亡したが、その時、なぜコミューン側は、直ちに追撃に向かわなかったのか? 政府側は逃亡の中で混乱の極にあり、また兵力もコミューン側に比べてはるかに劣り四分五裂状態にあった。

 

それに反してコミューン側は士気も高く、もし国民軍中央委がその兵力の半分と数門の大砲をもって追撃すれば、容易に政府軍を壊滅に導くことができたはずであった。中央委の少数派であるブランキ派は追撃を主張したのだが、プルードンの連合主義の影響を受けている多数派によって退けられた。

 

多数派の念頭には、革命をパリだけの、コミューンの樹立だけがあった。彼らには国家権力について明確なイメージがなかったのである。

 

②コミューンの内部対立

 

ヴェルサイユへの進撃にも現れたが、さまざまな党派の寄り合い世帯であるコミューンでは、ことあるごとに党派間の対立が表面化した。コミューン成立時からコミューン軍事委員会と国民軍中央委員会とは軍事的指導権を争ったが、これは後々まで尾を引いた。また戦局が厳しくなってからは、急浮上した公安委員会の設置を巡って、コミューンは分裂した。

 

これらの対立の底流にあるのは、コミューンを中央集権的政府にしようとするブランキ派やジャコバン派の多数派と、分権的なコミューンをめざすインター派を中心とする少数派との対立である。その上に複雑なのは、ブランキ派内部でも過激派とインター派に与する穏健派があり、またインター派内でもブランキ派に共感する者もあった。

 

特に5月に入ってからの公安委員会の設置を巡っては、少数派のインター派は、公安委を過去の遺物と批判し、プルードン派の人民主権と直接民主主義の立場からその設置に反対した。少数派は「少数派宣言」を発表し、ボイコット戦術に出たが、それは一層多数派の独走を許す結果になった。

 

こうした事態にインター派の連合組織や多くの民主クラブから批判が寄せられたのは当然である。ヴェルサイユ軍の猛攻の中に合ってコミューンは分裂している時ではなく、一丸となって防衛に当たらなければならなかったのである。

 

③フランス銀行の接収問題

 

コミューン政府の大きな失策の一つとしてフランス銀行の接収をしなかったことがある。その任務を担ったのは財務委員会であったが、その代表はプルードン主義の合法主義者で、接収は、貨幣流通や信用を破壊し物価騰貴を招くとして、接収に応じなかったのである。

 

エンゲルスは、フランス銀行がコミューンのものになれば、1万人の敵捕虜の値打ちがあり、フランスブルジョアジー全体がヴェルサイユ政府にコミューンとの和解を勧告しただろうと述べている(『内乱』三版への序文、岩波文庫p166)。

 

コミューン政府は、フランス銀行から、4回に分けて、わずか2000万フランを引き出したに過ぎないが、フランス銀行は、ヴェルサイユ側にコミューン攻撃の資金に2億6千万フランを融資しているのである。

 

パリ・コミューンの本質

 

パリ・コミューンの評価や分析にはいろいろある。ティエールやその仲間のブルジョアどもにとっては、コミューンは火付け、強盗のブルジョア秩序を破壊する暴動に過ぎない。こうしたブルジョアたちの評価は論外としても、コミューンを愛国主義から出た祖国防衛の闘いとみるもの、あるいはフランス革命以来の民衆運動の延長線上にしかコミューンをみないもの、またバクーニンに現れたような一切の国家権力を否定する無政府的な解釈も行われている。

 

フランスの人民は、1789年のフランス革命以来、1830年の7月革命、1848年の2月革命を経験してきたが、ブルジョアジーの背後には必ずプロレタリアートの闘争があった。プロレタリアートは、自らの要求がブルジョアジーと違ったものであることを、プロレタリアート自身の成長発展とともに自覚するようになったが、それが明確な形をとったのが、二月革命であった。

 

しかし当時の労働者が目指した「社会」共和国は、まだ労働者自身にとっても、ぼんやりしたものであって、結局、ルイ・ブランの国営作業所などによって誤魔化され、革命の成果はブルジョアジーに簒奪されたのである。

 

1871年のパリ・コミューンは、労働者が搾取の廃止と労働の解放を自覚的に掲げた最初の労働者革命であった。労働者は、パリ・コミューンを、愛国主義の祖国防衛とも、無政府的な国家破壊とも解釈しない。労働者は、歴史を階級闘争と見る立場から、大革命以来の革命を労働者の解放、階級の廃絶の社会主義的な観点から評価する。

 

次に国民軍中央委員会の宣言(ヴェルサイユへの総攻撃が敗北に終わった直後の)の一部を引用する。

 

「労働者諸君、決してそれを間違わないように――それは偉大な闘争である、寄生と労働とが、搾取と生産とが、格闘しつつあるのだ。もし諸君にして、無知のうちに日を送り貧困のうちに月を暮らすことが嫌になったなら、もし諸君の子供たちが自分の労働の利益を受ける人間となることを欲するならば、もし諸君の子供たちが工場ないし戦闘向きに一種の動物となって、その汗で搾取者の財産を増やしたり、専制君主のためにその血を流したりしなくなることを欲するならば、……これを要するに、もし諸君にして、正義の支配を欲するならば、労働者諸君よ、聡明であれ、奮起せよ! そうすれば諸君の強い手は、汚らわしい反動を、諸君の踵の下にうち倒してしまうであろう。」(岩波文庫p268

 

ここにあるのは労働の解放、社会主義に向けた宣言である。コミューンはこうした方針に基づいて先に挙げた事業を次々に布告し行ったのである。エンゲルスはこのコミューンの事業を次のように評している。

 

「この従来のあらゆる国家において不可避的であった社会の下僕から社会の主人への、国家及び国家機関の転化に対して、コミューンは、2つの誤りのない手段を差し向けた。第一に、それは行政上・教育上のあらゆる地位を、関係者の一般投票による――しかも同じ関係者の随時的召喚権に基づく選挙によって、任命した。そして第二に、それは、その高いと低いとを問わず、あらゆる勤務に対して、ただ他の労働者が受け取る賃金のみを支払ったのである。……この、従来の国家権力の破壊と、新しい真に民主的なものによるそれの代替とは、『内乱』第3章の中に逐一叙述されている。……ドイツの俗物は、近頃またまたプロレタリアートの独裁という言葉についてためになる恐怖のうちにある。さて、諸君よ、この独裁がいかなるものであるかを知りたいのであるか? パリ・コミューンを見よ。それこそは、プロレタリアートの独裁だったのだ。」(「序文」上掲p171

 

マルクスは、コミューンが「労働の経済的解放を達成し得べき、ついに発見された政治形態であった」ことを次のように説明している。

 

「この最後の条件(労働の経済的解放)の下でなければ、コミューン憲法は一個の不可能事であり、一個の欺瞞であっただろう。生産者の政治的支配は、生産者の社会的隷属の永続と併存しえない。コミューンは、だから階級の存在が、したがって階級支配が、よって立つその経済的基礎を根こそぎにするための槓桿として役立つべきであった。一度び労働が解放されれば、各人は労働者となり、そして生産的労働は階級的属性であることを止めるのである。」(前掲p102) 「コミューンは――と、彼ら(現社会の代弁者ども)は叫ぶ――あらゆる文明の基礎である所有権を廃止しようとするのだ! しかり、諸君よ、コミューンは、多数者の労働を少数者の富とするところの階級的所有権を廃止しようとしたのである。それは、収奪者の収奪を目指したのである。それは、いまでは主として労働を奴隷化しこれを搾取する手段となっているところの生産手段、すなわち土地と資本とを、単なる自由で且つ(かつ)協力的な労働の用具に転化することに依って、個人的所有を一個の真実とすることを欲したのである。」(前掲p102

 

コミューン政府の崩壊

 

1848年の二月革命において漠然とイメージされていた「社会」共和国は、パリ・コミューンにおいて明確なイメージとなって実施された。祖国防衛の愛国主義から出発したコミューンの運動は、ヴェルサイユ政府とプロイセン同盟軍との闘いのなかで労働の解放を目指す社会革命へと転化したのである。

 

もちろんコミューンのこの社会主義的変革は、その緒に就いただけだ。しかしマルクスはその萌芽の中から社会主義的変革の本質を見抜いたのである。コミューン政府の目指す改革は、わずか72日間という短い生命の中で、その基礎をつくったままで潰え去ったが、しかしそのことは、コミューンが史上初めて実現された労働者権力、社会主義政府であったことは明らかである。

 

コミューン政府の72日間は、ヴェルサイユ政府軍とプロシャ軍の同盟軍との死闘であった。 マルクスは次のように述べている。

 

「(ティエールの「私は無慈悲であるであろう!」という言葉を受けて)(まったく)その通りであった。ブルジョア的秩序の文明と正義とは、その秩序の奴隷と苦役者とが彼らの主人たちに対して反逆するときは、いつもその凄惨な光のうちに姿を現すものである。所有者と生産者との間における階級闘争の新しい危機は、それぞれ、この事実をよりはっきりと表している。1848年6月におけるブルジョアどもの残虐行為でさえ、1871年の言語道断な破廉恥行為の前には三舎を避ける(おじけづく)。」(前掲p130

 

ヴェルサイユ軍は、約3万人のパリ市民が野獣化した暴兵に殺され、約4万5千人が逮捕され、そのうち多くが後に処刑され、数千人が懲役や流刑に送られたのである。エンゲルスの言う「プロレタリアートの独裁」は、この70日余りの反革命との死闘を現している。コミューンは、労働者権力が目指す階級の廃絶や社会主義の建設に着手する以前に、ブルジョアジーの圧倒的な軍事力の前に崩壊してしまった。

 

反革命に対する暴力は必然であった(それさえもコミューン政府は、その合法主義や議会主義に禍いされて反革命に甘かったと後に非難されたが)。現代のような高度に発展した資本主義国家においては、樹立された労働者権力は、その使命である社会主義社会の建設に向かって進むであろうが、パリ・コミューンは反革命との闘いで力尽きたのである。革命政府の暴力的独裁の契機のみが残ったのである。

 

パリ・コミューンから何を学ぶか

 

エンゲルスは、次のように述べている。

「革命とは政治の最高の行為である。革命を欲するものは、その手段をも欲しなければならない。すなわち、革命を準備し、革命のために労働者を教育する政治活動をも欲しなければならない。それがない限り、労働者は闘いの翌日に、必ずファーブル(国防政府の外務大臣)やピア(口先だけの急進派)のような手合いにたぶらかされてしまうだろう。だが、我われが携わらなければならない政治は、労働者の政治である。労働者党は、何らかのブルジョア政党の尻尾としてではなく、独自の目標と政策を持つ独自の政党として建設されねばならない。」(第一インターでの演説)

 

レーニンもまた、パリ・コミューンを総括して次のように述べている。

「社会革命の勝利のためには、少なくとも2つの条件のあることが必要である。すなわち生産力の高度の発展と、プロレタリアートの準備ができていることである。しかし1871年(コミューンの年)には、この条件は2つとも欠けていた。フランスの資本主義はまだ大して発展していなかったし、フランスは当時、主として小ブルジョアジー(手工業者、農民、小商人など)の国であった。他方、労働者党はなかった。労働者階級の準備と長い期間の訓練とはなかった。労働者階級の大部分はまだ、自分の任務とその実現の方法とについて十分に明らかな認識を持っていなかった。プロレタリアートの本格的な政治組織も、広範な労働組合も、協同組合もなかった。」(「パリ・コミューンの思い出」全集17巻)

 

今年はパリ・コミューンの150周年に当たる。世界は、150年前にこうした大闘争があったことを忘れているのだ。私自身も恥ずかしい話だが、横浜の大佛次郎記念館で「パリ燃える」展をやっていると知らされて気付いた次第である。しかしこのような英雄的な闘争とそれを残虐に圧殺したブルジョア階級があったことは、厳然たる事実である。

 

現代は、コミューンの時代とは違って、マルクス主義のみが労働者階級の唯一の思想であることがはっきりした。今こそ、マルクス主義に基づいた労働者党を建設し、資本の支配の廃絶と労働の解放を目指して、労働者の階級闘争を発展させていかねばならない。 (菊池)

パリ・コミューン150周年ーー『労働者くらぶ通信』紹介

コロナ禍の緊急事態宣言で中断していた『横浜労働者くらぶ』が10月からようやく学習会を再開します。発行している『労働者くらぶ通信』第9号では『フランスの内乱』の学習会が始まるのと今年がパリ・コミューン150周年ということで、記事が寄せられました。

ここでは、パリ・コミューンにおける民衆運動をまとめた記事とパリ・コミューンの活動とその歴史的意義についての記事を紹介します。(一部加筆)

 

 

パリ・コミューンにおける民衆運動

 

《民衆の行動》

 

187094日、セダン降伏(プロイセンとフランスとの戦争でフランス軍が敗れた。セダンSedanは北フランスの都市名。830日のボモンの戦いで大打撃を受けフランス軍はセダンに向けて退却したが、91日セダンの近郊で捕捉され、壊滅的な打撃を受けた。ナポレオン3世はパリからセダンにきていたが、この敗北で士気を阻喪し降伏。翌2日フランスのビムプフェン将軍は、8万人以上の兵士を捕虜として引き渡すという降伏状に署名。3日にはナポレオン3世も捕虜の身としてドイツに送られた)の報にショックを受けたパリ市民は自然発生的に蜂起し、約50万の市民が立法院会議場に押し寄せ、議会共和派に帝政廃止と共和制の宣言を迫った。民衆運動の介入と圧力により議会共和派は帝政廃止を宣言した。ブルジョア共和派は革命派を排除した新政府(国防仮政府)を成立させた。

 

95日、400500人の労働者代表はオマール街の小学校に集まり、帝政時代の官吏と治安警察官の追放または逮捕を要求、また首都の緊急防衛体制の必要を確認した。同時にパリの二十区がそれぞれ新市政機関と国防政府の行動を監視する為「監視委員会」を設置する勧告を採択し、早急に実行された。

 

913日、インターナショナルの働きかけにより各区監視委員会の代表4名、計80名で構成される「パリ二十区共和主義中央委員会」を設立した。二十区中央委はパリ市会と司法官の選挙、出版・集会・結社の自由、生活必需品の徴発とその配給制、全市民の武装、旧警察機構の解体、そして地方を立ち上がらせるための諸県への委員の派遣を要求した。

 

民衆の願望はパリ防衛の責任を国防仮政府から自分達の手に移したいということだった。もはやパリの防衛を政府に期待する事が出来ず、パリ市民みずからが自治権の名においてそれに当たろうという意思の表現であった。政府はプロイセン軍よりも、国民軍(武装した民衆)の方が恐ろしかった。「赤」の脅威を除くために和平の道を模索し始めた。

 

918日からパリは包囲網に陥りヴェルサイユ、ストラスブールも敵軍の手に落ちた。中部以北のフランスの国土はプロイセン軍に四方八方から蹂躙された。民衆の自主管理組織としてのコミューンの選挙を要望する声が湧きおこってきたのはこの様な情勢だった。

 

922日、二十区中央委は「パリ・コミューン」と「人民自身による直接民主政府」を要求する宣言を発した。26日「即時市会選挙を要求する声明」に呼応して140名の国民軍大隊長が市庁舎に赴きパリ選挙人の即時招集を要求、国防政府代表に選挙を約束させた。しかし政府は前言を翻して、戦局の重大化を口実にパリ市会選挙の無期延期を声明した。

 

政府は、17万余の兵力を擁するバゼーヌがほとんど抵抗をせずに最後のフランス正規軍の主力をメッス要塞もろともプロイセンに引き渡したと公式に発表した。民衆は政府に騙されたと知り、1031日、市庁舎に押し寄せ国防政府の失権を宣言し、コミューンの選挙管理委員会の指名を要求したが、政府はブルジョア地区の国民衛兵を動員してこれをおさえた。「国民軍から大砲をとりあげなければ中枢部の麻痺したフランスは賠償金を支払えない」というブルジョアからの強い要請でティエールはパリ制圧を急いだ。

 

1871318日、市内各所の大砲陣地の奇襲、奪還と同時に警視庁の手で国民軍中央委、二十区代表団、インターの指導者を一斉逮捕し、その組織を破壊する奇襲作戦に出た。しかし、自然発生的に立ち上がった民衆・国民軍兵士の抵抗と正規軍兵士のねがえりにあい、この奇襲作戦は失敗に終わり、蜂起は全パリを支配し、ティエールはヴェルサイユに逃亡した。

 

19日、市庁舎で行われた区長と国民軍中央委の交渉で区長のクレマンソーは「議会の権利を認め、市庁舎を区長とパリ議員に引き渡しヴァンドーム広場に退去せよ。 そうしたら、自治権の獲得を議会に認めさせることを約束する」と提案した。中央委の多くは妥協の方向に傾きかけた。これを立ち直らせたのは二十区代表団と各区監視委、クラブに集まった民衆勢力の下からの力強い介入であった。

 

320日、二十区代表団と各区監視委の合同会議では国民軍中央委の無気力と区長らの欺瞞作戦に乗っていることが痛烈に批判され、ブランキ派の強硬論が大勢を制し「状況のもたらす結果に責任のある国民中央委は市民的権力も、軍事的権力も放棄できない」との決議が成立した。

 

326日、コミューン評議員の選挙が全市で施行され、28日コミューンの成立を宣言する式典が執行された。

 

《コミューンとは》

 

パリ・コミューンは民衆革命であった。コミューン派はパリ住民大衆である。その内訳は職人的手工業労働者、学者、ジャーナリスト、文士、芸術家、学校教師などプチブル的色彩が濃厚である。

 

「パリ・コミューンの宣言」において共和制の承認と強化、予算編成権・コミューン官吏の任免権、個人の自由、労働の自由、その他基本的な人権の保障、国民軍の選挙制などを宣言した。

 

パリ・コミューンの民衆運動は労働者の固有の組織ではなく、地区を単位とする一般住民の組織を主要な基盤としていたといえるが、それには三つの系列が挙げられる。

 

第一は監視委員会でその中央連合機関が二十区中央委である。民衆組織と言ってもインター派、ブランキ派のほか無党派の人々からなる積極的な活動家たちの組織である。監視委員会は各区の活動の中核的存在であり、多くの民衆地域では区の行政を掌握した。

 

第二は国民軍連合で、愛国主義ないし共和主義で結ばれた無党派の大衆組織である。その中央機関の国民軍中央委はコミューン選挙で二十区中央委に主導権を譲ったがコミューン成立後は軍事指導の権限をめぐってコミューン議会の競争相手となった。下部組織が各区ごとの軍団評議会であり、区行政をめぐって監視委員会の対抗勢力となった。

 

第三は民衆クラブである。これは各地区の男女市民のコミューンに関心を持つ民衆の組織であった。国防政府成立後の集会の自由によりクラブが学校・劇場・公会堂・キャフェなどに出来た。クラブ設立の主導権を取ったのはインター派の多い監視委員会、ブランキ派、ジャコバン派などの活動家集団でそのためクラブには若干の特定の傾向があるが、クラブは特定活動家の道具ではなく、地区の自発的な民衆を主体とする大衆組織であった。

 

クラブはコミューンを支援する民衆的情熱の大衆的発露の場となった。各クラブでは社会問題ではブルジョア国家の財産権と特権と独占が激しく攻撃され、政治問題では、官僚的集権制の解体と官吏の粛清が叫ばれ、教育・宗教問題では無料義務教育と職業教育の必要が説かれ、また反教権主義の運動が強力に推進された。

 

《民衆の意識》

 

「血の週間」直前のパリの様子はバスティーユ広場には菓子の露店が並び、回転台がにぎやかに回り、軽業師の呼び声が高く、陽気な雰囲気がみなぎっていた。ルーブル美術館はいつもの)様に公開され、劇場は毎晩大入り満員である。パリ民衆は危機を目前にして呑気さともいうべき陽気さを保っている。

 

アンリ・ルフェーヴルは祭りと指摘した。「祭り」とは未来への思惑や構想、行為の実際的効果という日常的な配慮から解放された行事である。民衆は局地的・直接的な管理や生活の擁護で充足し、ヴェルサイユ側の反応やコミューンの行く末という全体問題についてあれこれ計算せず、318日の成功を直ちに「祭り」に転化させた。

 

コミューン派の戦闘に対する態度(極度の緊張と結びついた一種の呑気さ、深刻な事態を一種の即興に切り替える陽気さ)には時間的な推移や全体的な展望への欠如が認められる。このことは、民衆運動の基本的な単位が地区ごとの自律的な組織であることにより、民衆にとっては彼らが生身で感じ得る局地的な地域共同体が全てであり、彼らの現実であったことが関連している。

 

民衆はまずコミューンを制度的に概念化し、ついでコミューンを要求したのではない。パリの民衆にとって「共和国」とは大統領や言論の自由といった機構や制度や政体ではなく、食料統制・総動員性・バリケードといった社会的内容をもつ実践そのものであった。

 

《結 果》

 

パリ防衛を目的とした民衆の自然発生的な蜂起を指導し、社会主義革命を目指したのがブランキ派、ジャコバン派、インターナショナルだった。しかし、民衆はプチブル的色彩の強い職人、商店主等であった。彼らは社会主義革命の明確な観念を持っていなかった。また、コミューンを指導すべきグループ内に対立が起こりコミューンの運営はうまくいかなかった。コミューン議会の多数派と少数派の対立の原因は民衆運動の沸騰にどの様に対応していくかという革命路線の違いにある。

 

多数派(ブランキ派、ジャコバン派)は中央集権的な独裁体制を樹立し「恐怖政治」をしく方向に解決を求め、これに反発して少数派(インターナショナル)は直接民主制の本義へ回帰することにより革命のエネルギーを汲み上げようとした。寄せ集めの指導グループは民衆を指導できず無能ぶりをさらけ出した。また国民軍中央委とコミューン評議会との間にも摩擦があった。

 

この様なコミューンの内紛がヴェルサイユ側につけ込む余地を与えた。ティエールは58日にパリに最後通告を発し、13日、パリの城壁に迫った。パリの市街は連日の砲撃にさらされた。528日コミューン派の最後の銃声がやみ市街戦は終了し全市はヴェルサイユ軍の手に帰した。パリ・コミューンは72日間の短命に終わった未完の革命である。  (Y

 

 

 

エンゲルスの怒り

―― パリ・コミューンの活動とその歴史的意義は?

 

エルフルト綱領草案をみたエンゲルスは、ゴータ綱領などとちがって、ラサール主義特有の伝統などの遺物がとりのぞかれていると、評価している。しかし、エンゲルスがこの草案をみて、もっとも危惧したことは、ドイツ社会民主党の日和見主義の傾向があらわれていることである。それは社会民主党の大部分の新聞雑誌をみれば明らかで、根深いととらえることができるとしている。

 

「だが、ドイツでは公然たる共和主義的な党綱領をかかげることさえ許されないという事実こそ、ドイツで共和制を、いや共和制ばかりか共産主義社会までも、のどかな、平和的な道によって樹立できるかのように考える幻想が、どんなに途方もないものであるかを証明するものである」と、喝破している。

 

共和制のことに触れることができなければ、少なくとも「全政治権力を人民代議機関の手に集中せよ」という要求を入れるべきであったと、エンゲルスは綱領草案を批判している。

 

エンゲルスの危惧は、的中してしまう。ドイツの著しい経済的発展とともに日和見主義の傾向の顕現化は、その後の歴史が証明している。

 

カール・マルクス『フランスにおける内乱』(1891年版)への序文を、マルクス亡き後、エンゲルスはかなりの筆をさいて、この文をドイツ労働者にむけてかきすすめている。

 

まずパリ・コミューンにいたるルイ・フィリップから二月革命、第二帝政の状況を、資本家と労働者階級との闘争という視点で、歴史的流れが簡潔に述べられている。次にパリ・コミューンの活動と歴史的意義をふりかえっている。コミューンの議員は、ブランキ主義者とプルードン主義者からなっていたが、コミューンの取った行動は、どちらにも偏らないプロレタリア的であったとエンゲルスは論じている。

 

組合を批判したプルードンの主張に反して協同組合の組織化をすすめ、プルードン派の社会主義の墓場ともなったとのべている。しかし、コミューンの重大な政治的誤りの一つはフランス銀行を差し押さえ、完全にコミューンの支配のもとにおかなかったことだ、もしフランス銀行がコミューンの手にあれば、それは一万人以上の人質よりも値打ちがあったのだ。

 

とはいえ、コミューンが行おうとしたことは、プロレタリア的であることが多く、賞賛に値するとし、その具体例をあげている。労働者階級が支配権を獲得したならば、古い国家機構を用いてはものごとを処理してゆくことはできないことを理解していた。その点は第3章でマルクスが詳しく展開しているところ。

 

最後に、エンゲルスは「ドイツの(社会民主党の)俗物は、近ごろプロレタリアート独裁という言葉を聞いて、またもや彼らにとって薬になる恐怖に陥っている。よろしい、諸君、この独裁がどのようなものかを知りたいのか? パリ・コミューンを見たまえ。あれがプロレタリアト独裁だったのだ」と述べて、この序文を締めくくっている。(A

 

横浜労働者くらぶ

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