宮本 博著『「25年農業センサス結果の概要(概数値)」を読んで
――日本農業の現状と我々労働者の立場』の紹介
「25年農業センサス結果の概要(概数値)」を読んで、日本農業の現状と我々労働者の立場を考察した、宮本 博氏の論文が労働者党ホームページに掲載されました。ぜひお読みください。「日本農業の現状と我々労働者の立場」では、2025年に実施された農林業センサスの結果をもとに、日本農業の変化について労働者の視点からの分析が行われています。主なポイントは以下の通りです。
◎農業経営体の減少と大規模化:農業経営体数は前回調査から約24.7万減少し、初めて100万を下回る82.8万に。特に家族経営の個人経営体が大きく減少し、法人経営体の割合が増加しています。
◎基幹的農業従事者の減少と高齢化:農業の中心を担う人々が34.2万人減少し、平均年齢は67.6歳。65歳以上の割合が高く、若年層の割合はわずかに増加したものの、全体としては高齢化が進行中です。
◎米作農業の危機:「令和の米騒動」と呼ばれる事態を背景に、米作農業の構造的問題や経営体の脆弱性が浮き彫りになっています。
◎こうした分析を通じて、筆者は農業の資本主義的再編と労働者階級への影響を批判的に捉え、労働者の立場から農業問題の解決を考察しています。ぜひ参考にしてください。
ここでは、筆者が強調したいと述べている箇所を紹介します。
――引用開始――
最後に、この小論を終えるにあたって強調したいことがある。
以前から、山間地や中山間地が多くて平場が少なくしかも国土も狭隘であるという理由で、日本の農業はいくら規模を拡大しても広大な平原のある米国やオーストラリアそしてEUなどの農業にはとうてい太刀打ちできない、といった主張がなされてきた。こうした主張は保護主義を正当化するために、そして、小規模農業を擁護するために大手を振って通説としてまかり通ってきたし、現在でもかなりの説得力を持ってまかり通っている。
たとえば一部の農業経済学者たちのなかには、世界の農業を規模別に3類型に区別する者がいる。1農業経営体当たりの平均経営規模別に、まず日本の25年3.7 ha(稲作では20年1.8ha)・中国:0.59ha・韓国:1.46haなどを挙げて、この規模が1類型の東アジア型だとされる。2類型としては、イギリス:81 ha(20年)・フランス:69ha・ドイツ:59haなどの旧大陸のヨーロッパ型が、そして3類型では未開の大地を開拓したと言われる―――勿論、実際には先住民(ネイティブアメリカンやアボリジニ)から土地を奪い彼らを追い出してからの開拓だったが―――米国:442ha(稲作では16年160ha)・オーストラリア:412ha(19年)などの新大陸型が挙げられる。
彼らは、こうした現にあるがままの状態を不変なものとして捉えたうえで、水田耕作中心の日本農業の規模の零細性は夏季に高温多雨の特性をもつアジアモンスーン気候に絶対的に制約されている、この事情は太古の昔から変えることのできない自然的歴史的必然からする運命的な宿痾だ、零細分散錯圃下にある小規模な家族農業という日本農業の脆弱性は我々の努力では如何ともし難い人知を越えた日本列島特有の地理的自然的条件によるものだ、等々と言う。
要するに、〝だからこそ〟国家の自存自衛の食料安全保障上からも小規模な家族農業を生産者と消費者が手を携えて国民全体で手厚く保護していく必要がある、といった馬鹿話をまき散らしたいのである。
如何にも尤もらしいこうした話しは、はたして本当のことなのであろうか。
上で述べたように、農地中間管理機構(農地バンク)による集積面積がここ数年伸び悩んでおり、農地の利用集積(面的集積)が計画通りに進まず、さらなる規模拡大の障害になっている。しかしその理由は米国やオーストラリアのような広大な平野が存在しないからではなくて、土地所有が個々人の私的所有によって細分されているからである。一般的に広大な土地が農業に必要であるかどうかの問題では決してない。
この狭い日本においても大規模で生産性の高い方法で農業生産を行うことのできる広大な平野や土地は数多くある。問題は地理的自然的条件にあるのではなくて、それらが地権者の小規模土地によって細分されて所有されていること、つまりこれらの土地が戦後の農地解放や農地法――それらの真の狙いは彼ら小土地所有者になった農民たちが当時高揚していた労働者の運動に加わって日本が「赤化(共産主義化)」されることを防ぐための防塁にすることにあった――によって、細かい小土地所有へとバラバラに裁断されているという社会的な要因にこそ問題があるのである。
そしてこの問題の核心は、現在のブルジョア的な生産関係の法的表現でしかない「私的所有権」という権利、地球表面の1地片を家産として排他的に私的に所有できるという権利であって、この権利がもはや日本農業の発展にとって桎梏になってしまったということなのである。
この「私的所有権」は長い人類歴史において永遠に変わらない神聖不可侵なものではない。それが個々人の基本的権利(「基本的人権」と同義だ)として確立されたのは、たかだか18~19世紀来の近代市民社会(資本主義社会)の始動を待ってのことであった。その意味からも、「私的所有権」とはまさに歴史的なカテゴリーなのだということ、このことをこの拙文を終えるに当たって強調しておきたい。
――引用完了――