今のご時世、外出すると言えば、スーパーに買い物に行くぐらいであるという人が増えている。その際、いわゆる「三密」を避けるようにと云われ、換気が悪く、多くの人が密集し、近距離で話すことを避けることが必要であると言われている。これに関連し、大阪の松井市長が「男が云われた物だけ買って帰るなら早いが、女の人が行くと、いろいろ商品とか見ながらするので時間がかかる」と発言した。記者からは「女性や男性に限った話ではない気がする、「違和感がある」と云われ、それは「我が家での話」と補足した。

 

これに対し「ド直球の性差別」という非難が起きている。買い物という日常的な行為をする際に、計画と言えば大げさかもしれないが、事前に準備をして行くか否かの違いによって、使う時間に差が出て来るということはある。その意味で、男性であるか女性であるかにはかかわらない、と云うのはその通りである。これに対して、松井市長は「我が家での話」と限定されているが、誰にも我が家があるとするなら、自らを反省し、買い物に行く際、事前準備として、欲しいものは何か、幾らそれは欲しいのか、予算は幾らかなどをメモして出かけるようにした。私は、これはこれで好かったのであるが、問題はこうした日常的な生活態度にこそ、人の政治姿勢が現れてはいないのか、という疑念である。

 

誰か人から言われ、行き当たりばったりの政治をしているのではないか。維新の政治姿勢はそこにこそ現れているのではないか。大阪都構想に始まる、維新の政治であるが、それはいかにも東京に対抗するかのものであり、大阪府民の心情に組みしたものではないだろうか。かつて大正末期から昭和初期にかけ、東京をもしのぐ大大阪を誇ったという関一市長であるが、まるでその夢を追わんとするかのようである。それに「維新」と言えば、明治維新を彷彿とさせ、如何にも封建社会をぶっ潰し、明治維新を成し遂げたかのイメージを抱かせるに、もっともな名前である。さらには盛んに官民格差を持ち出し、公務員を批判するかであるが、現場の公務員を批判するばかりで、上級公務員はそのままで、むしろ上手く使いさえしているのである。

 

確かに商売に身を投じ、中小零細とは言え、社会を底辺で支えている人は多い。そして、資本の社会が発展すればするほど、労働者だけでなく、そうした立場の人達にさえ困難が降りかかっていることは事実である。維新がその代弁者として登場するにしても、それは歴史的に見るなら、正に行き当たりばったりの政治をしているのではないか。如何にも弱者の味方面をし、それによって、計画性のない、その場しのぎの政治をしているとするなら、むしろその点こそ改めるべきではないのだろうか。

 

欲しいものを欲しいとし、計画的にそれを達成するために、何がどれだけ必要か、そうしたことを観念することなく、政治をしているなら、あれこれと時間が経過するだけで、何時まで経っても問題解決には進めない。こうしたことは、買い物に行く時でさえ、分かるのであるから、正にそれを政治の場で生かすべきではないだろうか。

 

維新に対し、こんなことをいくら言っても時間の無駄だとするなら、普通に働いて社会を実際に支えている人々こそ、この意を汲んで頂き、労働者党に結集してほしいものである。

 

ついでながら、三密は仏教用語でもあり、それは身密、口密、そして意密というそうだ。人にとって、身体、口、そして意思の大事さを説くものである。身体が健康で、口で上手におしゃべりができ、強い意志を持っていることは、人間にとって大事である。もちろん、具体的にはどんな階級的な意思があり、労働者に対し真実を語れるのか、命の限り活動できるのかが問われている。

 

大阪・杉