《神奈川から学習会の報告》

 

マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の学者インテリの解説(解釈?)について 

 

 先月、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の学習会が、最終日13名の参加者を得て終わった。『ブリュメール18日』は、1848年の二月革命からルイ・ボナパルトの独裁に至るまでの4年間を、唯物史観と階級闘争の理論でもって見事に分析したマルクスの傑作である。労働者が唯物史観を我がものとし、生の現実を階級闘争の視点から分析するのに必読の書物である。

 

その際、私は平凡社ライブラリーの新訳(私以外にも使用していた)を使ってみたのであるが、そこに柄谷行人の解説(あるいは新解釈、『表象と反復』)が収録されているので読んでみた。しかし驚いた、到底これは働く者には読ませられない、とんでもない解説(解釈)だと思った。それは解説と呼べたものではなく、マルクスの意図とは関係なく自分の新説(珍説?もちろん新説も納得できるものなら、いいのだが)を披露したものであった。

 

解説というなら岩波文庫や国民文庫の方が、はるかに(スターリニズムの影響が少なからずあるが)マルクスの意図に忠実であると思った。ここでは到底柄谷の論文の内容を詳しく紹介する余裕もないが(その必要もないであろう)、気の付いた点をいくつか挙げて、全体を推測してもらいたい。

 

 まず「反復」である。マルクスは『ブリュメール18日』の第1章の冒頭でヘーゲルを引用しながら「歴史は繰り返す、一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と述べている。柄谷はこれを重大視して、「反復」と言う概念を『ブリュメール』分析のキーワードとするのである。しかし、ここでの問題は、果たして「歴史は繰り返す」はマルクスにとってそれほど重大な概念であっただろうか、ということである。

 

マルクスは、単に1789年から始まるフランス革命と1848年から始まる二月革命の経過との類似を指摘しただけなのであって、革命と言う形式や階級構成は多少似たものであったにしても、その内容は歴史的社会的状況からして、全く違うことを指摘しているのである。それはマルクスがカエサルの帝政とナポレオンの帝政とは同じ帝政でも、ローマ時代と18世紀のフランスとでは経済的社会的条件、階級構成などが全く異なることを指摘していることからも明らかである。

 

マルクスにとって重要なのは、「人間は自分自身の歴史を作る。だが、与えられ、持ち越されてきた環境の下で作るのである。」(第1章)と述べているように「与えられた環境」、つまり革命を取り巻く経済的社会的環境と、そこで行われる、生産諸関係に規定された諸階級間の隠然公然たる階級闘争の分析なのである。

 

マルクスにとっては「反復」という表面的な現象はさして意味を持っていないのである。しかし、柄谷は、冒頭の「反復」からヒントを得たのか(ヘーゲルとマルクスが言ったからか)、「反復」を過大評価して歴史を解釈(観念論だ)しようとしているのだ。

 

ここで柄谷の典型的な議論を挙げてみよう。彼は「反復」を経済危機、景気循環にも発見するのである。彼は、1870年代、1930年代、1990年代の反復性を上げて次のように述べる、「われわれが見るべき反復は、反復強迫である。フロイトが言ったように、それは決して想起されないような『抑圧されたもの』の回帰である。想起される代わりに、それは現在において反復される。われわれが想起できるのは単なる出来事でしかない。それゆえ、1870年代、1930年代、1990年代を出来事において比較することは、そこに存する『抑圧されたものの回帰』を見失わせるだろう。それを見るためにわれわれは『資本論』と、とりわけ『ブリュメール18日』を必要とする。そもそも、マルクスはこの書物において冒頭から歴史における反復性の問題を扱っているからである。」(p269)

 

これは相当難解な文章である。ここで彼は何を言おうとしているのか、論文全体からの部分的抽出で分かりにくいことを考慮しても、彼の言わんとしていることを理解するには困難である。しかし、いったい単なる「反復」ではなく「反復強迫」とは何なのか、また「抑圧されたもの」とは何なのか、そしてその「回帰」とは何をさすのか?彼の言う「抑圧されたものの回帰」と『ブリュメール18日』との関連は、何も説明されていないのである。

 

続けて、彼の説明を聞こう、「この場合、『抑圧されたもの』とは何か。それは冒頭に述べた事柄、つまり議会制と資本主義経済におけるrepresentationの問題にかかわっている。確かにそれらのシステムは抑圧的である。しかし、反復強迫を形成するのはそのような抑圧ではない。決して表象されないような『抑圧されたもの』とは、そのような表象のシステムそのものを可能にしている『穴』である。ところが、この穴はべつに不可視ではない、それどころか、至る所に存在している。ところが、まさにそのゆえに、それが『穴』であることは隠されている。/ 例えば、資本制経済においては、貨幣がそのような「穴」であるといってよい。『資本論』のマルクスは、貨幣が、その担い手としての人間の意志を超えて,無窮動の自己増殖運動を強いられている存在、というよりも『存在と無』(サルトル)であるということを明らかにした。」(p270)

 

議会制と資本主義経済が「抑圧的である」とはどういう意味か。「確かに抑圧的である」と言われても、少しも「確か」ではないのだ。また「反復強迫」(とは何だ?)の「穴」が「至る所に存在する」が「隠されている」とは、どういうことか?また英語の「representation」には二つの意味、つまり表象と代議制の意味があるが、ここではそのどちらを意味しているのか、あるいは共通する「representation」といったものがあるのかも全く説明がないのである(そもそもここで英語を使う意味があるのか)。

 

一般に社会科学では、詩や物語と違って、よほどのことでない限り、隠喩は使うべきではない(やむを得ない場合は、その意味が分からなければならない)。彼は珍しく具体的な例を挙げて、「自己増殖運動を強いられる」貨幣がその「穴」だと言っているが、貨幣は流通手段として運動はするが、自己増殖運動はしない。自己増殖するのは、貨幣が資本に転化するからである(柄谷の貨幣理解はこの程度)。彼はサルトルまで引合いに出して、「穴」を説明しようとするが、混乱は増すばかりだ。

 

さらに柄谷は、議会制について、次のように述べる、「近代において人類が獲得した議会制(代表制)は、現実の可視的な王や大統領や皇帝といった存在者とは別に、けっして埋めようのない穴を持っており、それが「抑圧されたものの回帰」として反復されるということなのである。」(p271)「一方、『ブリュメール18日』は、もう一つの表象システム、すなわち代表制が不可避的に持つ危機を取り上げている。『資本論』が経済を表象の問題としてとらえたとすれば、『ブリュメール18日』は政治をそのようにとらえている。『資本論』が近代経済学の批判であるならば、同様に、『ブリュメール18日』は近代政治学の批判である。」(p272)

 

議会制の危機が反復されるのは、議会制を実現したブルジョア支配そのものから生じるのである。議会制の危機を、意味不明の「決して埋めようのない穴」といった隠喩で説明しようとするのは、柄谷が、近代議会制の本質を何も分かっていないからである。マルクスは,『ブリュメール18日』によって、二月革命によって獲得された議会制が、なぜわずか4年で崩壊せねばならなかったのかを、事件の経過を綿密に跡づけて明らかにしたのであった。

 

そのためにマルクスは、ブルジョア民主主義が持つ矛盾―すなわち封建制打倒のためのブルジョア議会がブルジョア支配の確立以後、そのブルジョア民主主義を徹底できず逆に制限しなければならなくなるというジレンマ―を徹底的に分析したのである。

 

柄谷が、近代代議制が持つ危機や近代政治学の批判を問題にするなら、マルクスが『ブリュメール18日』で力説したブルジョア議会主義(その現れとしての議会主義的クレチン病)とブルジョア民主主義の階級制とその限界を明らかにしなければならないのである。柄谷はマルクスのこうした分析には一言も触れずに、「抑圧されたもの」やその回帰、あるいは「穴」といった訳のわからない言辞を振りまくだけなのだ。

 

もう止めよう。これまで紹介したところからも柄谷の論文の無意味な内容が分かって頂けたと思う。せっかくマルクスが、この『ブリュメール18日』でブルジョア議会制の歴史性とその本質や限界を明らかにし、しかもそのブルジョア議会制を利用しないでは、労働者階級の解放も実現しないこと、またその際、労働者階級は、議会主義的クレチン病(ブルジョア議会だけを闘争手段とする)に陥ってはならず、労働者の階級闘争の発展を目指さねばならないことを(まさに現代への教訓だ)、情熱をこめて説いているにもかかわらず、柄谷は、この『ブリュメール18日』から何事も学んではいないのだ。

 

それもそのはずである。柄谷などインテリ学者先生は、このブルジョア社会で“名誉ある地位”を与えられ、生活を保障された小ブル階級である。マルクスは、『ブリュメール』の中で述べている、「同様に民主派の議員たち(小ブルインテリと読め)は、その教養と知的状態からすれば、商店主たちとは雲泥の差があり得る。彼らを小市民の代表とした事情とは、小市民が実生活において超えない限界を、彼らの頭の中で越えない、ということであり、だから物質的利害と社会的状態が小市民を[実践的に]駆り立てて向かわせるのと同じ課題と解決に、民主派議員たち(小ブルインテリと読め)が理論的に駆り立てられる、と言うことである。」(p67)

 

柄谷らは、決して賃金奴隷制の廃止や資本の支配の打倒を口にしない。彼らはブルジョア社会に寄生する存在であり、労働者の階級闘争や労働の開放とは無縁の存在なのである。

 

柄谷の論文の中には、フロイトをはじめ、ラカン、アルチュセール、カール・シュミットなど著名な学者やその引用がちりばめられている。驚いたことに、柄谷がそうした思想や引用に同意しているのかどうかさえもさっぱり分からないことだ。自分の博覧強記を誇示して、読者を煙に巻くためなのだ。

 

労働者は、こうした学者インテリの“難解な”文章に恐れ入ったり、惑わされたりしてはならない。近年、資本主義の危機と共に、マルクスへの関心が高まっているのに乗じて、柄谷の”衣鉢“を受け継ぐ若手インテリ(白井聡や斎藤幸平など)続々と現れている(柄谷はその親玉といったところか)。

 

彼らは、マルクスの革命的部分を骨抜きにし、マルクスを単なる改良主義者やエコロジストに貶(おとし)めようとしている。こうした学者インテリは、唯物史観も階級闘争も剰余価値の搾取も、いわんや賃金奴隷制の廃止や労働の開放も関係ないのだ。

 

彼らの関心は、ブルジョア社会における名声であり、安定した地位である。”彼らの行くに任せよ“。唯物史観と階級闘争の真理を握っているわれわれ労働者階級こそ、人類の未来を切り開くのである。 (神奈川 S)