コロナ禍の緊急事態宣言で中断していた『横浜労働者くらぶ』が10月からようやく学習会を再開します。発行している『労働者くらぶ通信』第9号では『フランスの内乱』の学習会が始まるのと今年がパリ・コミューン150周年ということで、記事が寄せられました。
ここでは、パリ・コミューンにおける民衆運動をまとめた記事とパリ・コミューンの活動とその歴史的意義についての記事を紹介します。(一部加筆)
パリ・コミューンにおける民衆運動
《民衆の行動》
1870年9月4日、セダン降伏(プロイセンとフランスとの戦争でフランス軍が敗れた。セダンSedanは北フランスの都市名。8月30日のボモンの戦いで大打撃を受けフランス軍はセダンに向けて退却したが、9月1日セダンの近郊で捕捉され、壊滅的な打撃を受けた。ナポレオン3世はパリからセダンにきていたが、この敗北で士気を阻喪し降伏。翌2日フランスのビムプフェン将軍は、8万人以上の兵士を捕虜として引き渡すという降伏状に署名。3日にはナポレオン3世も捕虜の身としてドイツに送られた)の報にショックを受けたパリ市民は自然発生的に蜂起し、約50万の市民が立法院会議場に押し寄せ、議会共和派に帝政廃止と共和制の宣言を迫った。民衆運動の介入と圧力により議会共和派は帝政廃止を宣言した。ブルジョア共和派は革命派を排除した新政府(国防仮政府)を成立させた。
9月5日、400~500人の労働者代表はオマール街の小学校に集まり、帝政時代の官吏と治安警察官の追放または逮捕を要求、また首都の緊急防衛体制の必要を確認した。同時にパリの二十区がそれぞれ新市政機関と国防政府の行動を監視する為「監視委員会」を設置する勧告を採択し、早急に実行された。
9月13日、インターナショナルの働きかけにより各区監視委員会の代表4名、計80名で構成される「パリ二十区共和主義中央委員会」を設立した。二十区中央委はパリ市会と司法官の選挙、出版・集会・結社の自由、生活必需品の徴発とその配給制、全市民の武装、旧警察機構の解体、そして地方を立ち上がらせるための諸県への委員の派遣を要求した。
民衆の願望はパリ防衛の責任を国防仮政府から自分達の手に移したいということだった。もはやパリの防衛を政府に期待する事が出来ず、パリ市民みずからが自治権の名においてそれに当たろうという意思の表現であった。政府はプロイセン軍よりも、国民軍(武装した民衆)の方が恐ろしかった。「赤」の脅威を除くために和平の道を模索し始めた。
9月18日からパリは包囲網に陥りヴェルサイユ、ストラスブールも敵軍の手に落ちた。中部以北のフランスの国土はプロイセン軍に四方八方から蹂躙された。民衆の自主管理組織としてのコミューンの選挙を要望する声が湧きおこってきたのはこの様な情勢だった。
9月22日、二十区中央委は「パリ・コミューン」と「人民自身による直接民主政府」を要求する宣言を発した。26日「即時市会選挙を要求する声明」に呼応して140名の国民軍大隊長が市庁舎に赴きパリ選挙人の即時招集を要求、国防政府代表に選挙を約束させた。しかし政府は前言を翻して、戦局の重大化を口実にパリ市会選挙の無期延期を声明した。
政府は、17万余の兵力を擁するバゼーヌがほとんど抵抗をせずに最後のフランス正規軍の主力をメッス要塞もろともプロイセンに引き渡したと公式に発表した。民衆は政府に騙されたと知り、10月31日、市庁舎に押し寄せ国防政府の失権を宣言し、コミューンの選挙管理委員会の指名を要求したが、政府はブルジョア地区の国民衛兵を動員してこれをおさえた。「国民軍から大砲をとりあげなければ中枢部の麻痺したフランスは賠償金を支払えない」というブルジョアからの強い要請でティエールはパリ制圧を急いだ。
1871年3月18日、市内各所の大砲陣地の奇襲、奪還と同時に警視庁の手で国民軍中央委、二十区代表団、インターの指導者を一斉逮捕し、その組織を破壊する奇襲作戦に出た。しかし、自然発生的に立ち上がった民衆・国民軍兵士の抵抗と正規軍兵士のねがえりにあい、この奇襲作戦は失敗に終わり、蜂起は全パリを支配し、ティエールはヴェルサイユに逃亡した。
19日、市庁舎で行われた区長と国民軍中央委の交渉で区長のクレマンソーは「議会の権利を認め、市庁舎を区長とパリ議員に引き渡しヴァンドーム広場に退去せよ。
そうしたら、自治権の獲得を議会に認めさせることを約束する」と提案した。中央委の多くは妥協の方向に傾きかけた。これを立ち直らせたのは二十区代表団と各区監視委、クラブに集まった民衆勢力の下からの力強い介入であった。
3月20日、二十区代表団と各区監視委の合同会議では国民軍中央委の無気力と区長らの欺瞞作戦に乗っていることが痛烈に批判され、ブランキ派の強硬論が大勢を制し「状況のもたらす結果に責任のある国民中央委は市民的権力も、軍事的権力も放棄できない」との決議が成立した。
3月26日、コミューン評議員の選挙が全市で施行され、28日コミューンの成立を宣言する式典が執行された。
《コミューンとは》
パリ・コミューンは民衆革命であった。コミューン派はパリ住民大衆である。その内訳は職人的手工業労働者、学者、ジャーナリスト、文士、芸術家、学校教師などプチブル的色彩が濃厚である。
「パリ・コミューンの宣言」において共和制の承認と強化、予算編成権・コミューン官吏の任免権、個人の自由、労働の自由、その他基本的な人権の保障、国民軍の選挙制などを宣言した。
パリ・コミューンの民衆運動は労働者の固有の組織ではなく、地区を単位とする一般住民の組織を主要な基盤としていたといえるが、それには三つの系列が挙げられる。
第一は監視委員会でその中央連合機関が二十区中央委である。民衆組織と言ってもインター派、ブランキ派のほか無党派の人々からなる積極的な活動家たちの組織である。監視委員会は各区の活動の中核的存在であり、多くの民衆地域では区の行政を掌握した。
第二は国民軍連合で、愛国主義ないし共和主義で結ばれた無党派の大衆組織である。その中央機関の国民軍中央委はコミューン選挙で二十区中央委に主導権を譲ったがコミューン成立後は軍事指導の権限をめぐってコミューン議会の競争相手となった。下部組織が各区ごとの軍団評議会であり、区行政をめぐって監視委員会の対抗勢力となった。
第三は民衆クラブである。これは各地区の男女市民のコミューンに関心を持つ民衆の組織であった。国防政府成立後の集会の自由によりクラブが学校・劇場・公会堂・キャフェなどに出来た。クラブ設立の主導権を取ったのはインター派の多い監視委員会、ブランキ派、ジャコバン派などの活動家集団でそのためクラブには若干の特定の傾向があるが、クラブは特定活動家の道具ではなく、地区の自発的な民衆を主体とする大衆組織であった。
クラブはコミューンを支援する民衆的情熱の大衆的発露の場となった。各クラブでは社会問題ではブルジョア国家の財産権と特権と独占が激しく攻撃され、政治問題では、官僚的集権制の解体と官吏の粛清が叫ばれ、教育・宗教問題では無料義務教育と職業教育の必要が説かれ、また反教権主義の運動が強力に推進された。
《民衆の意識》
「血の週間」直前のパリの様子はバスティーユ広場には菓子の露店が並び、回転台がにぎやかに回り、軽業師の呼び声が高く、陽気な雰囲気がみなぎっていた。ルーブル美術館はいつもの)様に公開され、劇場は毎晩大入り満員である。パリ民衆は危機を目前にして呑気さともいうべき陽気さを保っている。
アンリ・ルフェーヴルは祭りと指摘した。「祭り」とは未来への思惑や構想、行為の実際的効果という日常的な配慮から解放された行事である。民衆は局地的・直接的な管理や生活の擁護で充足し、ヴェルサイユ側の反応やコミューンの行く末という全体問題についてあれこれ計算せず、3月18日の成功を直ちに「祭り」に転化させた。
コミューン派の戦闘に対する態度(極度の緊張と結びついた一種の呑気さ、深刻な事態を一種の即興に切り替える陽気さ)には時間的な推移や全体的な展望への欠如が認められる。このことは、民衆運動の基本的な単位が地区ごとの自律的な組織であることにより、民衆にとっては彼らが生身で感じ得る局地的な地域共同体が全てであり、彼らの現実であったことが関連している。
民衆はまずコミューンを制度的に概念化し、ついでコミューンを要求したのではない。パリの民衆にとって「共和国」とは大統領や言論の自由といった機構や制度や政体ではなく、食料統制・総動員性・バリケードといった社会的内容をもつ実践そのものであった。
《結 果》
パリ防衛を目的とした民衆の自然発生的な蜂起を指導し、社会主義革命を目指したのがブランキ派、ジャコバン派、インターナショナルだった。しかし、民衆はプチブル的色彩の強い職人、商店主等であった。彼らは社会主義革命の明確な観念を持っていなかった。また、コミューンを指導すべきグループ内に対立が起こりコミューンの運営はうまくいかなかった。コミューン議会の多数派と少数派の対立の原因は民衆運動の沸騰にどの様に対応していくかという革命路線の違いにある。
多数派(ブランキ派、ジャコバン派)は中央集権的な独裁体制を樹立し「恐怖政治」をしく方向に解決を求め、これに反発して少数派(インターナショナル)は直接民主制の本義へ回帰することにより革命のエネルギーを汲み上げようとした。寄せ集めの指導グループは民衆を指導できず無能ぶりをさらけ出した。また国民軍中央委とコミューン評議会との間にも摩擦があった。
この様なコミューンの内紛がヴェルサイユ側につけ込む余地を与えた。ティエールは5月8日にパリに最後通告を発し、13日、パリの城壁に迫った。パリの市街は連日の砲撃にさらされた。5月28日コミューン派の最後の銃声がやみ市街戦は終了し全市はヴェルサイユ軍の手に帰した。パリ・コミューンは72日間の短命に終わった未完の革命である。 (Y)
エンゲルスの怒り
―― パリ・コミューンの活動とその歴史的意義は?
エルフルト綱領草案をみたエンゲルスは、ゴータ綱領などとちがって、ラサール主義特有の伝統などの遺物がとりのぞかれていると、評価している。しかし、エンゲルスがこの草案をみて、もっとも危惧したことは、ドイツ社会民主党の日和見主義の傾向があらわれていることである。それは社会民主党の大部分の新聞雑誌をみれば明らかで、根深いととらえることができるとしている。
「だが、ドイツでは公然たる共和主義的な党綱領をかかげることさえ許されないという事実こそ、ドイツで共和制を、いや共和制ばかりか共産主義社会までも、のどかな、平和的な道によって樹立できるかのように考える幻想が、どんなに途方もないものであるかを証明するものである」と、喝破している。
共和制のことに触れることができなければ、少なくとも「全政治権力を人民代議機関の手に集中せよ」という要求を入れるべきであったと、エンゲルスは綱領草案を批判している。
エンゲルスの危惧は、的中してしまう。ドイツの著しい経済的発展とともに日和見主義の傾向の顕現化は、その後の歴史が証明している。
カール・マルクス『フランスにおける内乱』(1891年版)への序文を、マルクス亡き後、エンゲルスはかなりの筆をさいて、この文をドイツ労働者にむけてかきすすめている。
まずパリ・コミューンにいたるルイ・フィリップから二月革命、第二帝政の状況を、資本家と労働者階級との闘争という視点で、歴史的流れが簡潔に述べられている。次にパリ・コミューンの活動と歴史的意義をふりかえっている。コミューンの議員は、ブランキ主義者とプルードン主義者からなっていたが、コミューンの取った行動は、どちらにも偏らないプロレタリア的であったとエンゲルスは論じている。
組合を批判したプルードンの主張に反して協同組合の組織化をすすめ、プルードン派の社会主義の墓場ともなったとのべている。しかし、コミューンの重大な政治的誤りの一つはフランス銀行を差し押さえ、完全にコミューンの支配のもとにおかなかったことだ、もしフランス銀行がコミューンの手にあれば、それは一万人以上の人質よりも値打ちがあったのだ。
とはいえ、コミューンが行おうとしたことは、プロレタリア的であることが多く、賞賛に値するとし、その具体例をあげている。労働者階級が支配権を獲得したならば、古い国家機構を用いてはものごとを処理してゆくことはできないことを理解していた。その点は第3章でマルクスが詳しく展開しているところ。
最後に、エンゲルスは「ドイツの(社会民主党の)俗物は、近ごろプロレタリアート独裁という言葉を聞いて、またもや彼らにとって薬になる恐怖に陥っている。よろしい、諸君、この独裁がどのようなものかを知りたいのか?
パリ・コミューンを見たまえ。あれがプロレタリア―ト独裁だったのだ」と述べて、この序文を締めくくっている。(A)
横浜労働者くらぶ
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