労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

レーニン

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く! ②

政治不信が高まる中で、「金権政治も必要悪として我慢するしかない」というような“民主主義”に対して、神奈川で『資本論』などの学習活動をする『横浜労働者くらぶ』の会報で、「ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!」と題して2回目がでましたので、紹介します。(担当)

 

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!

 レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』を読もう!

 

★秩序とはブルジョア秩序である!

2章は、「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」と題されています。レーニンは続けて次のように述べています。

「いろいろな階級が存在する間は、『純粋民主主義』について語ることはできず、階級的な民主主義について語りうるだけであるのは明らかである。」「近代の代議制国家もまた、資本が賃労働を搾取する道具である」というエンゲルスの言葉を引用しながら、レーニンは続けます。「近代国家の基本法を取り上げてみたまえ。その統治ぶりを取り上げてみたまえ。『法律の前での市民の平等』を取り上げてみたまえ。― そうだとすれば、諸君は、ブルジョア民主主義の偽善を、一歩ごとに、どの国家にも見出すであろう。どんな民主主義の国家であろうと、『秩序が破壊された場合に』 ―― 実際には、被搾取階級が自分の奴隷的地位を『破壊し』、非奴隷的にふるまおうと企てた場合に、労働者に軍隊をさしむけたり、戒厳を宣告したり、等々をする可能性をブルジョアジーに保障している抜け道または但し書きが、憲法の中に設けられていないような国家は、一つもない。」

 

つまり、秩序とは、ブルジョア社会である限り、ブルジョア的秩序のことなのである。国内においてのみならず、国際関係においても秩序とは、ブルジョア国家同士の秩序である。ロシアの十月革命を、世界のブルジョア国家が寄ってたかって圧殺しようとしたことを思い出せばよい。

 

★ブルジョアはあらゆる手をつかって労働者の政治参加を排除する!

レーニンは続ける。「カウツキーは、民主主義は『少数者の保護だ』といったおとぎ話をする。」しかし、カウツキーは、「アメリカまたはスイスのもっとも民主主義的で共和主義的なブルジョアでさえ、ストライキ労働者に対して何をやっているかについては、口をつぐんでいる。…あらゆる重大な、深刻な、根本的な問題のさいにプロレタリアートに与えられるのは、『少数者の保護』ではなくて、戒厳令あるいはポグロム(注、財産の掠奪や大量殺人を伴う反動的な襲撃)であるということである。」(同、p34) 

 

カウツキーは、マルクス主義の基礎である国家の階級性を忘れているのである。「ブルジョア民主主義の下では、資本家は何千というトリックで ―― 『純粋』民主主義が発展していればいるほど、ますます巧妙で効果の確実なトリックで ―― 大衆を統治への参加から押しのけ、集会・出版などの自由から押しのける。……ブルジョア社会への参加を、勤労大衆は何千という垣でさえぎられている。そして労働者は、ブルジョア議会が、無縁な施設であり、ブルジョアジーがプロレタリアを抑圧する道具であり、敵階級である少数の搾取者の施設であることを、素晴らしくよく知っており、感じており、目で見、肌で感じている。」(同、p36)「我々を統治しているのは、ブルジョア官吏、ブルジョア代議士、ブルジョア裁判官である。これは簡単明瞭で、争う余地のない真理であって、最も民主的な国をも含む、あらゆるブルジョア国で、被抑圧階級の何千万、何億の人々が、自分の生活上の体験でこれを知っており、日々これを感じ、肌で感じ取っている。」(同、p37

 

日本の労働者も「これを肌で感じ取って」ほしいのだが。

 

★ブルジョアの平等や自由は口先だけの、形だけの平等や自由だ!

第3章は、「搾取者と被搾取者との平等はありうるか?」である。 レーニンは、そのような平等はない、という。ところが、純粋民主主義者であるカウツキーは、パリ・コンミューンについて被搾取者が多数を占めているコンミューンにどうして暴力が必要なのか、と暴力を批判するのである。彼は、コンミューンは「民主主義を廃止するためにではなく、それを保護するためにしか、暴力を行使しないであろう。……普通選挙権を廃止しようとするならば、それはまことに自殺行為であろう。」と言う。搾取者は少数者であるのだから、多数者である被搾取者に従うべきである、搾取者にも民主主義を保障すべきだ、なぜなら権力が被搾取者の多数者にあるからには、少数者を暴力的に抑圧する必要はない、というわけである。

 

見られるように、このカウツキーの反論には、搾取者、支配者と被搾取者、被支配者との階級関係は全く存在しない。あるのは、多数者と少数者という、単なる数だけである。これに対しレーニンは次のように反論する。

 

「民主主義の『純粋』さにほれ込んだカウツキーは、形式的な平等(資本主義の下では徹頭徹尾いつわりで偽善的な平等)を実際の平等と思っているのである! 全く些細なことだ! 搾取者は、被搾取者と平等ではありえない。」(同、p40) 「ごくまれな特別な場合を除けば、搾取者を一挙に絶滅することはできない。……多くの世代にわたって、教養の点でも、豊かな生活の条件の点でも、習性の点でもまさっていた搾取者と、最も進んだ、最も民主的なブルジョア共和国においてさえ、その大多数が虐げられ、無知無学で、おどしつけられ、ばらばらである被搾取者との間に、平等はあり得ない。搾取者が、変革の行われた後でも、長い間多くの点で大きな実際上の優越を保つことは、避けられない。すなわち、搾取者には、貨幣(貨幣を一挙に廃止することはできない)や、なにがしかの、時にはかなり多額の動産が残っており、手ずるや、組織と管理の技能や、管理のあらゆる『秘訣』(習慣、方法、手段、可能性)についての知識が残っており、より高い教養や、高級技術家連(ブルジョア的に生活し、ものを考える)との緊密な連絡が残っており、はるかに大きな軍事上の技能(これは非常に重要なことだ)、その他いろいろなものが残っている。」(同、p41

 

★ブルジョアジーは死に物狂いでその支配権力を守るであろう!

「こうゆう事情であるのに、いくらかでも深刻で重大な革命の際に、多数者と少数者との関係がいとも簡単に問題を決定すると予想するのは、この上ない愚鈍さであり、ありふれた自由主義者の愚劣極まる偏見である。……あらゆる深刻な革命の際には、なお幾年かの間被搾取者に対して大きな実際上の優越をもつ搾取者は、長期の、頑強な、死に物狂いの抵抗を行うのが通則だということである。甘ったるいばかものカウツキーの甘ったるい空想の中ででもなければ、搾取者が、最後の必死の戦闘、あるいは一連の戦闘で自分の優越性を試してみずに、多数者である被搾取者の決定に服従することは、決してないのである。」(同、p41) カウツキーは、民主主義と独裁を対置し、独裁は民主主義を否定するものだ、という。レーニンは、それに対して、選挙権のような民主主義を制限する問題は、独裁の民族的に特殊の問題であって、ヨーロッパの来るべきプロレタリア諸革命がみな、あるいはその大多数が、ブルジョアジーの選挙権に必ず制限を加えるだろうと、前もって断言するのは誤りであろう。そうなることもありうる。戦争とロシア革命の経験を経た後では、おそらくはそうなるであろうが、しかし、それは、独裁を実現するために必須のものではない。独裁の不可欠の標識、その必須の条件は、階級としての搾取者を暴力的に抑圧することであり、したがって、この階級に関しては『純粋民主主義』、すなわち平等と自由を侵犯することである。」(同、p43

 

★ブルジョア民主主義の幻想から目を覚まそう!

レーニンからの引用ばかりになりましたが、レーニンは労働者に、噛んで含めるように、そして火のような情熱をもって「純粋民主主義」の欺瞞性を暴いています。『背教者カウツキー』は、なお第 8 章まで続きます。皆さんには、ぜひ本書を最後まで読まれて、レーニンのプロレタリア民主主義とプロレタリア独裁の理論を学んでほしいと思います。(K)

 

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

4月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・4月24日(水)19 時~21 / 県民センター703 号室

*第9章「剰余価値の率と剰余価値の量」から、第4篇「相対的剰余価値の生産」

第12章第2節「部分労働者とその道具」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・4月10日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*第5章「流通期間」から、第2篇「資本の回転」第7章「回転期間と回転度数」まで

を読みます。

◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

4 月17日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*論文「帝国主義と社会主義の分裂」他2篇を学習します。

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!

政治不信が高まる中で、“民主主義”である日本だから、「金権政治も必要悪として我慢するしかない」というような“民主主義”について、神奈川で『資本論』などの学習活動をする『横浜労働者くらぶ』の会報で、「ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!」と題して論じていますので、紹介します。(担当)

 

ブルジョア民主主義の欺瞞を暴く!

 レーニン『プロレタリア革命と背教者カウツキー』を読もう!

 

★ 朝日の投書(1月25日朝刊)

政治パーティー券の裏金づくりに端を発した政治不信は高まっていく一方である。朝日朝刊(1月25日)の投書は次のように怒りをぶつけている。「この怒りは何だろうか。私たち市民だけでなく、公明党も野党も、もっと怒るべきだ。暴れるほどの強い行動が必要だと思う。」(見出し、「絶大な政治不信、もっと怒ろう」) この筆者の怒りは頂点に達している。その怒りは連立を組む公明党ばかりでなく、国民の怒りを内閣打倒や政権交代に結び付けることができない不甲斐ない野党にもおよび、国民に暴力的な行動まで呼びかけているのである。こうした政治と金、派閥の解消等の問題は戦後何度も繰り返されてきた。そこから生じる政治不信は、とりわけ日本では国際的にも高い水準にあるという(1月25日朝日朝刊)。「国の政策に国民の考えや意見が反映されていると思うか」という質問で、「あまり、あるいはほとんど反映されていない」と答えた割合が、現在リクルート事件が発覚した88年度の63%とほとんど同じになっている(民主党政権誕生の直前の09年1月では807%に達したという(内閣府調査))。これは驚くべき数字であり、国民が政治に期待していないという事実が浮き彫りになっている。

しかし、この政治不信、怒りを、どうすればいいのか? どう解決するのか? それについては投書の筆者も「この怒りは何だろうか?」と、政治不信について疑念を持つだけでなく、逆に「こんな政治家を選んだのは自分たちだけに、政治不信はつらく、悲しい。」と、自責の念(!)に駆られているありさまである。

★ 民主主義にも二通りある!

なぜ政治不信はくりかえされるのか? それは現在の政治が、支配階級の、金持ち階級の、資本家階級の政治であるからだ。労働者人民はそれを感づいてはいるが、社会全体が金で動いている社会なのだから(自分も金で動くか!)、妥協しあきらめているのである。したがって、政治不信をなくすためには、こうした金権社会を根本から変えなければならないのであるが、ここで障害が出てくる。それは“民主主義”である。日本には、習近平の中国とは違って、国民には選挙権も被選挙権もあるし言論や集会結社の自由もまあ保障されているから、金権政治も必要悪として我慢するしかないのではないか、というわけだ。しかし“民主主義”とはいかなるものであるか、ということを考えてみなければならない。”民主主義”にも階級性があり、したがってこの階級社会にも民主主義は2種類あるのだ。1つは資本主義社会の民主主義、つまりブルジョア民主主義であり、もう一つはプロレタリア民主主義である。本書『プロレタリア革命と背教者カウツキー』は、直接にはプロレタリアート独裁を否定するカウツキーの日和見主義を批判した著作であるが、レーニンは、「プロレタリアート独裁はプロレタリア民主主義であり、ブルジョア民主主義よりも百万倍も民主的である。」として、ブルジョア民主主義の虚偽性を暴露している。ぜひ本書を読んでブルジョア民主主義の欺瞞性を知ってほしい。本書の国民文庫版は、すでに廃刊になって手に入りにくいので(もちろん全集や 10 巻選集で読めるが)、すこし詳しく紹介したい。

純粋民主主義民主主義一般は金持ち民主主義である

まず第1章(本書には章別はなく見出しだけだが)「カウツキーはどのようにマルクスをありふれた自由主義者に変えたか」では、レーニンは、「『民主主義的方法と独裁的方法』との『根本的区別』というカウツキーの大発見」を問題にする。カウツキーに対しレーニンは、「独裁」とは支配階級の独裁であり、ブルジョア国家はブルジョアジーの独裁でありプロレタリア国家はプロレタリアートの独裁である、として次のように述べている。「プロレタリアートの独裁の問題は、ブルジョア国家に対するプロレタリア国家の関係の問題であり、ブルジョア民主主義に対するプロレタリア民主主義の関係の問題である。」(10巻選集p21)カウツキーは、「ブルジョア民主主義という正確な階級的概念を避けて、『社会主義以前の』民主主義について語ろうと努めている。」つまりカウツキーは「18 世紀に顔を向けて、絶対主義や中世的制度に対するブルジョア民主主義の関係について百遍も言われた古臭いことを、その小冊子(カウツキー著『プロレタリアートの独裁』1918)のほとんど三分の一をブルジョアジーにはなはだ気持ちの良いおしゃべりでみたしている。」(同p21)つまりカウツキーは、封建制や絶対主義の時代に進歩的であったブルジョア民主主義を、20 世紀の帝国主義の時代に叫んでいるのだ。ブルジョア民主主義の歴史性をまったく無視しているのである。そのいい例が、いまのアメリカである。トランプのような極めつけの悪党が大統領に返り咲こうというのである。これがブルジョア民主主義のなれの果てである。誰がこんな民主主義を望むであろうか?


★ 資本主義社会はブルジョア独裁である!

さらに進んでカウツキーは、「マルクスは 1875 年に一度手紙の中でやったプロレタリアートの独裁という片言を」ボルシェヴィキが思い出したのだと述べて、マルクス主義にとって重要な概念である「プロレタリアート独裁」(マルクスは著作の随所でこれについて述べているのに)を、マルクスの単なる思い付きであったかのように述べたうえさらに、「残念なことに、マルクスは、彼がこの独裁をどう考えていたか、をもっと説明することを怠った。…文字通りに取れば、”独裁“ということばは、民主主義の廃棄を意味する。」(同)と述べるのである。このカウツキーの独裁と民主主義を対立させる概念の中には、マルクス主義者としての階級性は一切なく、単なる純粋民主主義者としてのカウツキーが現れているだけである。そしてカウツキーは、独裁とは「一個人の全一的な権力を意味する。」というのであるが、レーニンは、カウツキーに反対して、独裁は一握りの人間の独裁もあれば、寡頭制の場合も、一階級の場合もあるとして、次のように定義する。「独裁とは直接に暴力をよりどころにし、どんな法律にも拘束されない権力である。」「プロレタリアートの革命的独裁とは、ブルジョアジーに対するプロレタリアートの暴力によってたたかいとられ維持され、どんな法律にも拘束されない権力である。」(同p25) レーニンは、カウツキーを次のように断罪する。「自由主義者ならば、『民主主義』一般をうんぬんするのは、当然である。マルクス主義者は、『どの階級のための?』という質問を提出することをけっして忘れないであろう。」(p24) レーニンは、カウツキーが、「マルクスが、イギリスやアメリカでは、平和的変革、すなわち民主主義的な方法による変革が可能だと考えていたことで、証明される。」と語っていることを引用し、レーニンは、カウツキーが、独裁を個人の権力を意味するというのは、プロレタリアートという階級の独裁を否定し、「平和的な変革、すなわち民主主義的な方法による変革」を考えているからであるとし、「ここに問題の眼目がある。すべての逃げ口上、詭弁、ペテン師的偽造がカウツキーに必要なのは、まさに暴力革命を拒否するためであり、自分が暴力革命を放棄したことを、自由主義的労働者の側へ、すなわちブルジョアジーの側へ移ったことを覆い隠すためなのだ。」(p28)と述べている。


資本家民主主義よ、さらば!

働く者の民主主義を実現しよう!

カウツキーは、自説を強調してパリ・コミューンをひきあいに出して次のように述べる。「パリ・コミューンは、プロレタリアートの独裁であったが、このコミューンは普通選挙によって、民主主義的に選出された。…マルクスにとっては、プロレタリアート独裁は、プロレタリアートが多数をなす場合、純粋民主主義から必然的に生まれてくる状況であった。」(p28) カウツキーは、何としてでもプロレタリアート独裁を純粋民主主義と結び付けたいのである。しかしエンゲルスは、パリ・コミューンについて次のように述べている。「革命は、たしかに、およそあらゆるもののなかで最も権威的な事柄である。革命は、住民の一部が、小銃や銃剣や大砲、つまりきわめて権威的な手段を使って、住民の他の部分に自分の意志を押し付ける行為である。…パリ・コミューンが武装した人民のこの権威をブルジョアに対して行使しなかったなら、それは、ただの一日でも持ちこたえたであろうか? それどころか、われわれはコンミューンがこの権威を行使しなさ過ぎたこと(注、ヴェルサイユへ即時進撃しなかったこと、銀行の接収を躊躇したこと等)で、責めてよいのではなかろうか?」(p29) エンゲルスは、ここで純粋民主主義など全く問題にしていない。問題は革命を成功させるか否か、ということである。1918年当時、ドイツなど西ヨーロッパ中が革命に沸き立っていた時に、カウツキーは、民主主義だ、多数決だなどとお説教を垂れるのであるが、第1次大戦の開戦直後に(1914 年8月)に、ローザ・ルクセンブルクが、ドイツ社会民主党(カウツキーはその理論的指導者の一人)は、いまや悪臭紛々たる屍である、と言ったのも当然である。

レーニンは第1章を要約して次のように述べている。「カウツキーは、プロレタリアートの独裁の概念をまったく前代未聞のやり方でゆがめ、マルクスをありふれた自由主義者に変えてしまった。すなわち『純粋民主主義』についての俗悪な文句をしゃべりたてて、ブルジョア民主主義の階級的内容を美化し、あいまいにし、被抑圧階級による革命的暴力をなによりも忌み嫌う、あの自由主義の水準に、彼自身ころがり落ちてしまった。」(p30

我々の周りには、純数民主主義者がうようよいる。純粋民主主義、一般民主主義に騙されてはいけない。労働者階級は、純粋民主主義=ブルジョア民主主義にたいし、働くものの民主主義を対置し、プロレタリア国家の実現をめざさなければならないのである。(第2章の「ブルジョア民主主義とプロレタリア民主主義」は次号に回します)(K)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

 3月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

・3月27日(水)19 時~21 / 県民センター703 号室

*第8章「労働日」第5節「14世紀から17世紀末」~第7節「イギリス工場立法」まで学習します。

◆「資本論」第2巻学習会

・3月13日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*第5章「流通期間」~第6章「流通費」まで読みます。


◆レーニン「カール・マルクス他18篇」(岩波文庫) 学習会

・3月20日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

*論文「マルクス主義と改良主義」他3篇を学習します。

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

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