労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

上野千鶴子

上野千鶴子のセックスワーク論にとらわれた人生相談

上野千鶴子のセックスワーク論にとらわれた人生相談

 

朝日新聞などの「リベラル派」の腐敗、頽廃、堕落も顕わにーーAV、「風俗」にみる

 

朝日新聞、土曜日に別刷「Be」がある。ここに「悩みのるつぼ」なる人生相談のコーナがある。朝日、10月1日、ここで「フェミニスト」、「女性学の泰斗」(朝日、10月3日、夕刊での言葉)の上野千鶴子が、相談者の夫が女子大生もいる「風俗」に通うことの妻の悩みに回答している。上野は「世の中」にはAVなどの「ヌクためのおかず」があふれていると言ったうえで相談に乗っている。果たして上野は「風俗」やAVについて正しく評価しているであろうか。

 

暴力拷問AVを「表現の自由」として是認してきた上野千鶴子

――AV新法をめぐって

 

AV(アダルトビデオ)は女性を蔑視的に、物扱いにし、性的対象としてのみ取り扱い、差別的、被虐的に扱っているものが多い。まさしく性暴力の世界である。そこには女性の人格の尊重などはない。実際に行えば犯罪かセクハラである。

 

上野が指摘しているAVなどのポルノ、エロコンテンツの社会への蔓延は、ネットの普及とあいまって、女性の性的安全性を脅かし、性的不平等の深刻化、女性の社会的地位の低下をもたらしている。AVによるポルノ被害は、ますます低年齢化、深刻化し、現在インターネットによって「性暴力の商品化」が世界規模の産業となり被害がとどまることなく拡散している。

 

2022年6月15日に国会で可決されたAV新法についてウルトラ右派反動派の月刊誌「Will」安倍国葬特集号11月号に月島さくらが「女性の権利を侵害するAV新法」と題して書いている。

 

このAV法案に対してはColabo代表の仁藤夢乃氏は、この法案はAV購買者、AV業界に有利で「契約に基づいて性交を金銭取引の対象とすることを合法化し、性売買を合法化する」として反対してきた。この法案は「日本で初めて金銭取引による性交を合法化する」法律になるとして仁藤氏は批判している。

 

月島は「Will」の中での文で、「ぱっぷす」などのAV出演被害者支援団体への憎しみ、敵対心を隠していない。月島は、AVは「成人した女性が自らの意思で活動している」。AV業界の規制が強まれば、「経済的困窮している女性たちは地下売春に逃げたりする」、「AV女優は若い子も多く、政治に疎い女優も多い」、このままでは「世界に誇る日本のAV業界は」、外国に乗っ取られる。こう語り、「保守的な自民党」に支援を求めている。

 

この月島の「自らの意思」などの言葉は、上野が語ってきた「セックスというお仕事」が「選択の結果」だとする言葉と瓜二つである。月島にあってはAVには女性の「経済的困窮」、世情に疎い「若い子」は前提されている。

 

仁藤夢乃氏はAV業者が女性に「自由意志」だと言わせるのは容易だと語っている。仁藤氏の最近の編著『当たり前の日常を手にいれるためにー性搾取社会を生きる私たちの闘い』(影書房)で言う。

 

「『自由意思に基づいている』と業者が主張するのは簡単だからです。アイドルや役者や配信者になってみたいという女性の夢を利用して、AV撮影へと誘導する」。

 

月島が言うように背景に女性の「経済的困窮」も潜んでいる。月島、上野が語る「自由意思」とは現実にはこのようなものである。

 

朝日新聞は、週刊誌「AERA」、月刊誌「論座」を含めて、昔から、「風俗」、暴力ポルノを含むAVなどに対しても、きわめて寛容で、「セックスワーク論」に囚われてきた。上野を含むフェミニストは1990年代の暴力拷問レイプポルノAVの被害女性に対してきわめて冷淡であった。

 

この暴力拷問ポルノに対して、「フェミニストの反応も冷ややかで、上野千鶴子氏は『私は日本のフェミニズムに珍しい表現の自由派』として『女犯』をはじめAVに関しては表現の自由の問題として距離を置」いてきた。上野はこの暴力拷問AVを是認してきたのである(「ぱっぷす」編『ポルノ被害の声を聞く』岩波書店刊による)。

 

この本の中で、上野は2017年のAV強要問題では、AV出演者の人権を守ることを称してAV業界を守るための団体を設立したとして告発されている。

 

女性を性的搾取の「風俗」「売春」へ誘う朝日

 

性的搾取業者を擁護し、「風俗」、「売春」を「セックスワーク」「セックスワーカー」と美化して女性を勧誘する朝日新聞は、10月7日、全一面、紙面を使っての「耕論」欄で、「『不健全』の理屈」と題して、裁判で性風俗事業者がコロナ対策の持続化給付金の支給対象外とされたことへ三人の論者を使って批判、反論している。

 

朝日新聞は7月1日に、この裁判の訴訟の報道でこの判決に批判的で、性風俗業者、「セックスワーカー」を擁護し「判決で差別が広がる」との記事を掲載していた。朝日は「耕論」欄の前文で言う。「コロナ対策の給付金をめぐる裁判で、国は性風俗業について『本質的に不健全』と主張した。健全か不健全かは、公が決めることなのか。なぜ社会に『不健全』は存在するのか」。

 

だが、そもそもこの訴訟を起こしたのは当該女性ではなく、昔は「ポン引き」「女衒」と呼ばれたピンプ、性的搾取業者であり、今回の訴訟はデリバリーヘルス、派遣型風俗店の運営会社がおこしている。「風俗」においては女性は性的なモノ、性的な商品として取り扱われている。

 

三人の論者とも「性」が「カネ」でやりとりされることへの批判は一切ない。むしろ擁護してる。この記事の中で「ジェンダー史研究者」という田中亜衣子は、「性風俗を合法としつつ、職業として尊重する事もなく『不健全』と烙印を押す国の姿勢」を批判している。田中には、「国」がデリバリーヘルスなど「売春」「性風俗」を半ば合法化していることへの批判、問題意識すら全くない。

 

性を買うのはカネを持っている男性である。三人の論者は「反差別」「人権論」「反国家主義」「反権力」の体裁をとって、「左翼的」なレトリックを使って「学問的」に昇華し、何か高尚な言葉でもっともらしく、なにか正しいことを語っているかのようであるが、「売春」や「風俗」の肥大化、横行などの資本主義の頽廃現象を擁護し、人身売買、人身取引ともいえる人権侵害の性売買を容認しており、その語っている内容は反動的である。

 

この朝日新聞の紙面、全一面を使っての記事は、今の社会でますます進む「性」の「商品化」を賛美しており、「風俗」は「不健全」ではない、つまり「健全」だとして、他の職業と同じく「職業として尊重」(田中亜衣子)という、普通の「健全」な職業として女性の「風俗」への勧誘、勧めでもあり「風俗」の参入を促すものにさえなっている。

 

事実、近年、加速する女性の貧困なども背景に「一般女性」、「普通の女の子」が「風俗」市場へ参入することが増えており、「性」の価格は値崩れして「売春」しても、上野が言ってきた「選択の結果」として「セックスワーク」「性労働」を自由意思でしても、多くの収入は得られなくなっている。

 

そして女性が「風俗」、「性産業」に入っても、上野が言うとおり女性が「自由な意思」で「売春」、「風俗」を選択したとしても、本当の意味で貧困から抜け出せることはほとんどないという現実、事実がある(森田成也『マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論―搾取と暴力に抗うために』慶応義塾大学出版会刊参照)

 

「売春」を「性労働」、「風俗」、AVを「セックスワーク」とする上野千鶴子――AVポルノ産業、「風俗」性的搾取業者の理論的代弁者としてのフェミニスト

 

上野は「セックスワーク論」を唱え、ポルノ産業、AV業者の理論的代弁者でもあったが、「ジェンダー史研究者」という田中亜衣子も上野と同じく、「風俗」、「売春」の性的搾取業者の理論的代弁者としてあらわれている。女性を性産業に導く最大の理由は貧困である。現在の「風俗」の横行も資本主義の矛盾、頽廃と深く結びついているのである。

 

Colabo代表の仁藤夢乃氏は。「性売買が女性に対する暴力で性搾取である」、「性売買に行き着く女性たちの背景には、生活に困ったり、生きづらさを感じたりするときに、頼れる場所が社会にないことがあります」と言う(『当たり前の日常を手に入れるために』)

 

また、仁藤氏のツイッターの中で性売買の経験当事者の声が紹介されている。「安全に働けるようにすることが、暴力をなくす道だというフェミニストも多くいますが、現実を全くわかっていません」、「起こっているのは暴力です」。「性売買」の現場、現実は上野が夢想するような生やさしいものではない。

 

だが、上野は「性労働を労働として認めなければならない」、「性労働者はマッサージ師とかわらない一専門職」といい、「売春」を「セックスワーク」と語り、擁護してきた。また、上野は「セックスワークは女性にとっての経済行為です」とも語ってきた。そもそも、上野は「売春」を「性労動」というが、「売春」が経営者に利潤をもたらすとは言え、本源的な「生産的労働」でないことはあまりに明らかである。

 

朝日新聞、上野もそうだが、近年、女性のシングルマザーなどのますます加速する貧困の拡大、学費の高騰、家庭が仕送り余力を無くしたことなどによる収入減の女子大生、こうしたシングルマザー、女子大生などを食い物にして、その性的搾取によって肥大化した「風俗」など対しては批判的な言説はほとんどなく、「セックスワーク」、「セックスワーカー」として擁護、美化すらしてきた。

 

性的搾取の被害にあう若い女性、少女の多くは虐待、貧困などで、家など、どこにも居場所がない。「性」を売らされた若い女性、少女に問題があるのではなく、若い女性、少女を孤立に追いやる社会、そして買春者、性的搾取業者、買う側の存在と性暴力にこそ問題がある。(『当たり前の日常を手に入れるために』参照)

 

AV被害者、性売買の当事者が「被害の声をあげれば『表現の自由だ』『職業差別だ』『女性の自由意志だ』『自己決定だ』『男の文化だ』などと個を離れた大きな言葉で口を塞がれてきた。」(『ポルノ被害を聞く』)。これは、性的搾取業者、そして、「リベラル派」、フェミニストも語ってきた言葉でもある。これらの言葉を発するのは当事者の女性ではなく、多くは性的搾取業者である。

 

上野らのフェミニスト、朝日新聞などの「リベラル派」は業者、買春者の方が問題であるのに、女性のみを問題にして「セックスワーク」とかして語り、「風俗」の経営者、性的搾取業者、そして買春者の方の問題が語られることはほとんどなく、「風俗」などの性的搾取業者を擁護、美化しこそすれ、買春者を問題ともせず、咎めることは全くない。

 

「風俗」や「売春」はカネを持っている男性によるカネの権力、カネの力による女性の性支配であり、性暴力である。ここには対等な関係などはない。これを上野、田中などのフェミニストは、「性労働」、「セックスワーク」、「健全」だとか言って擁護し、美化さえしている。そして、朝日新聞などの「リベラル派」もこれに追随、同調、賛意すら表しているのである。現在の「風俗」蔓延の一端の責任は彼女、彼らにもある。

 

朝日新聞、上野らは、今、世界での運動、「性売買」において、女性を処罰せず、非犯罪化して支援の対象とし、他方で性購買者や業者を処罰し取締まる、「北欧モデル」と呼ばれる大きな流れがあることをほとんど伝えていない。(スウェーデン、ノルウェー、アイスランド、カナダ、北アイルランド、フランス、アイルランド共和国など)

 

安倍の国葬には、大阪の売春地の「飛田新地」、業者の「飛田新地料理組合」が、国葬の27日に休業し、「安倍晋三元首相追悼記帳所」を設けている。女子大生も多くいる昔のオランダの「飾り窓」のような「飛田新地」。ここでは性的搾取業者による安倍への謝意が示されていた。

 

慰安婦問題を「虚構」とする月刊誌「Will」などのウルトラ右派反動派はAVに親近感を持ち、「飛田新地」の業者にとっても若い女性の性的搾取を放置してきた安倍は、悼み称えられる存在であったのである。

 

性の問題を商業化し、卑俗に低俗に扱う

――資本主義の頽廃を示す「風俗」、AVの横行

 

元労働者党代表の亡き林紘義さんはその著「レーニンの言葉」の中で書いている(「栗木伸一」筆名、1969年)。「このブルジョア社会が,『性の解放』という名のもとに、性の問題を一面的に誇張してとりあげていること、性の問題を本当に健全な水準でとりあげるのではなくて、それをますます神秘化して、もったいぶってこそこそと論じていること、そして、もっと悪いことには、性の問題を商業化し、卑俗に低俗に扱うことによって、特に青少年の健全な精神をゆがめ、むしばみ、異常な、かたよったものにつくりかえていることーーこれらのことは、すべて、われわれが日々見ていることである。レーニンは、このようなゆがめられた形での性の一面的誇張が、ブルジョワジーの支配と不可分に結びついていること、ブルジョア社会の利益となっていることを認めていた。」

 

性の問題の商業化、卑俗化・低俗化は現在「風俗」やAVなどとしてあらわれている。これはブルジョア支配、資本主義の矛盾と深く結びついている。そして、これらを持ち上げる、朝日新聞、上野などに(ブルジョア右派反動派も含まれる)このブルジョア社会は事欠かないのである。

 

朝日新聞などの「リベラル派」、上野千鶴子ら「フェミニスト」のますます深まる頽廃、腐敗、堕落はまた再び明らかになっている。(M)

 

*上野千鶴子へのより詳しい批判はこの労働者党プログ2022年5月21日の「上野千鶴子著『これからの時代を生きるあなたへ』」を参照してください。ネットで「これからの時代を生きるあなたへ セックスワーク論 上野千鶴子」で検索すればでてきます。

上野千鶴子著『これからの時代を生きるあなたへ』

上野千鶴子の反動的な「マルクス主義フェミニズム」


「家事労働」の正当化、「売春」を「性労働」として擁護


――元労働者党代表の亡き林紘義さんの論考を軸に


今やマスコミの寵児で「社会学者」で東大名誉教授の肩書を持つ上野千鶴子、「マルクス主義フェミニズム」を説く上野千鶴子がマルクス主義への批判、懐疑、不信、反感、また、敵意さえもっていることは前から明らかでしたが、それをまた確認できる上野の最近の著に『これからの時代を生きるあなたへ』(主婦の友社)があります。


上野の主張を見てみましょう。「わたしは『マルクス主義フェミニスト』と名乗っています。そういうと、すぐにマルクス大好きなんだと思われがちですが、ちょっと待ってください。マルクス主義フェミニストというひとびとは『マルクスに忠実なフェミニスト』のことでなくて、『マルクスに挑戦したフェミニスト』のことです」、「理論が経験を説明できないなら、理論が間違っている」「家事がなくてはならない必要労働であることを、認めてあげてもいいけれど、でもそれは価値を生まない不生産的労働です」、なぜなら「マルクスがそういっているから」。(37~39ページ)


「マルクス主義フェミニズムの理論的発見とは、市場には家族という外部があることでした」(49ページ)「女性学は、女の経験の言語化・理論化をやってきた学問です。日本の女性学に対するわたしの貢献は、家事は不払い労働だという定義を持ち込んだことです。~不払い労働にはふたつの合意があります。第一は『家事も労働だ』というものです。第二は、しかも、『不当に支払われない労働だ』というものです」(32ページ)「マルクス理論だけでは女の問題は解けません~それが家父長制の理論です」(40ページ)「ひとつの社会が存続可能であるためには、モノの生産とイノチの生産・再生産の両方をやらなければなりません」(53ページ)「家事の大半は労働になります。しかも市場の外にあって対価が支払われない労働です」(34ページ)。


上に見られる上野の主張は批判されるべきものです。家事労働が価値を生まないのは、「マルクスがそういっているから」からではなく、「家事」は、生産的労働ではないからです。「家事」は消費にかかわることであって生産にかかわることでないことほど明らかなことはありません。上野は個人的な「消費」(賃金を生活資料として用いる)の過程を「家事も労働だ」とか、「不払労働」だと言うことで、あたかも「生産」過程であるかのごとく言っています。「生産」と「消費」を明確に区別することなしには、資本主義社会はもちろんのこと、どんな社会経済の科学的の解明、合理的理解は不可能です。


上野は、「理論」つまり、マルクス主義は間違っていると言い、マルクスを否定しています。それなら「マルクス主義フェミニズム」とあたかもマルクス主義に従ったかのようなややこしい紛らわしい呼び方をするべきではない。上野は卑怯にもマルクスの名前だけを利用しているのです。上野は「マルクス主義」という言葉を使うことにより、「マルクス主義フェミニズム」が「家事労働」「性労働」を美化し擁護する頽廃的反動的な理論ではなく、あたかも先進的な、進歩的な、「左翼」的な理論であるかのように装い、社会を欺いているのです。


上野は世間をたぶらかしてはいけないのです。上野の主張はマルクスと正反対です。上野はマルクスを見下しているのですが、上野が語ってきたことの方が支離滅裂です。そして、我々の行ってきたように「理論」つまりマルクス主義によってのみ「経験」つまり現実を正しく理解し、説明することができるのです。間違っているのはマルクスではなく上野の方なのです。


生産的労働とは、商品を生産する労働、価値として商品に対象化されている社会的な人間労働のことです。「価値」は社会的な実体であって、自然的素材(「使用価値」は価値の担い手である)そのものではありません。それは、対象化された社会的な抽象的人間労働として「価値」なのです。価値規定において、私的な活動をもちだすなら、価値概念に限界がなくなり、客観的な内容が抜けおちてしまいます。


上野は『これからの時代を生きるあなたへ』で、「家事も労働だ」「不当に支払われない労働だ」と「主婦労働」を評価しています。上野は鈴木涼美との往復書簡『限界から始まる』(幻冬舎)の中で、「セックスワークは女性にとっての経済行為です」と実質的にセックスワーク論を擁護しています。


『限界から始まる』では、「賢い母親」から生まれた娘の不幸を言っていました。母親が賢くなく無知である方が娘は幸せであったかのような書かれ方でした。上野は昔には、「学歴の高い女房」は「質の良い再生産労働を子供に与えることができる」との意味を説き、この当時も上野はエリート意識を丸出しにしていました。


亡くなられた元労働党代表の林さんが「科学的共産主義研究」65号、「フェミニズムはいかにマルクス主義と闘っているか、そしてそれはいかに反動的であるか(1986年)」の中で上野の批判を行っています。


資本による労働者の搾取を隠蔽する「家事労働」論


「家事労働」について「上野の理論は、『追いつめられた』主婦の最後の自己正当化の試みだと、いえなくもない」(76ページ)と書かかれている通りです。林さんは、“家事労働”を「出産・育児」に一面化する上野の批判をしています。林さんのここでの上野への批判は今でも当たっていいます。


上野の主張。「市場の限界がイコールマルクス主義の限界であったわけです」(資本制と家事労働』9ページ)。「マルクス主義は、実は社会の領域の中で、生産に支配される領域だけを解明する社会理論であった。ところが生産に支配される領域の外に再生産という領域があったのです~生産はモノの生産、再生産はヒトの生産というように定義して使います。~伝統的マルクス主義の中では、労働の再生産と労働力の再生産の両方を『再生産』と呼んできたわけですけれど、最近の用法では、人間の再生産、マルクスのいう『他人の再生産』だけを再生産と呼んでいます。」(『資本制と家事労働』13~14ページ)


「科学的共産主義研究」65号(1986年)での林さんのこの上野の主張への批判。「みられるように、上野の概念は全くめちゃくちゃである。彼女は『生産』とか『再生産』というマルクス主義的用語を用いているが、その意味を少しも理解していない。彼女は、現代においては『モノ』の生産はまた同時に再生産であることさえ分かっていない。もし分かっているなら『モノの生産は生産』で『ヒトの生産は再生産』などと言ったたわごとがどこから出てくるようであろうか⁈そもそも『ヒト』は“生産”されたり“再生産”されたりするものではない」「上野は、そのものとしての労働力の再生産を『労働の再生産』とよび、子供の(次世代の?)労働力の育成を『労働力の再生産』と呼んで区別し、『再生産』という言葉はただ後者に対してのみ用いられると言うのであるが、ここにはどんなに多くの混乱があるだろう。一体労働者が、一日の労働のあと『家に帰って糞をして、寝て、ご飯を食べて、次の朝起きる』ということがなぜ『労働の再生産』なのか。マルクスはまさに、これは『労働』にかかわることでなくて『労働力』の再生産にかかわることだと明確に述べている、ところがマルクスが古典派経済学を越えてなしとげた一つの大きな前進(労働と労働力の区別)を上野は全然理解していない!」


「上野が積極的に言いたいことは~家事労働=主婦労働の本質、そのエッセンスは自分の夫としての労働力の再生産する“労働”ではなくて、次世代の労働力(というより“ヒト”を育てる“労働”だということである」、「上野は『ヒトの再生産』こそ家事労働のエッセンスであり、家事労働を家事労働たらしめるものである、これはただ女性(妻もしくは主婦)によってのみ担われるのであって、『他人に委ねることのできない』ものである、と叫ぶ」、「上野は、出産=子育てを『再生産労働』とよび、それは女性のみが行うものだ」と主張する。(73~75ページ)。


「マルクス主義が『生産労働だけしか扱いませんでしたから、家事使用人の再生産労働を概念化しえなかった』などと上野は思い上がって断言している。だがはたしてそうか?実際にはマルクスは『資本論』の中でも、『剰余価値学説史』の中でも、生産的労働と不生産的労働の概念を明確に提起し、収入と交換される労働、『家事使用人の行う』労働の性格をはっきり語っているのである。」(79ページ)。


「女性が家庭におしこめられ、男性に従属するのはーそしてこのことこそ、『生殖と性』に対する男性支配と同義語なのだがー現在ではヨリいっそう資本主義的生産の結果であろう。資本はいっそう有利な、効率的な搾取材料を求めるのであって、妊娠=出産=育児の機能持つ女性は、この限り、ヨリ劣った不十分な搾取材料である。この一点だけからしても、女性の地位は、資本主義的生産の本性にかかわっているのであって、何千年前からつづいている『生殖と性に関する男性支配』といった問題ではない」(86ページ)。


上野の最近の著『こらからの時代を生きるあなたへ』で、「主婦の労働の値打ち」を語っています。上野の言う「家事は労働」、ただし「見えない労働」であり「不払労働」と言う。だが、「家事」は「『労働』にかかわることでなくて『労働力』の再生産にかかわること」(前出林論文)であり、消費にかかわることであって価値を生む生産的労働ではないことは明確です。


労働力の再生産に関する活動は消費に関係しています。生産と消費の区別を明確にしなければなりません。商品としての「労働力の再生産」にとって本質的なものは、それに必要な生活資料の価値、社会的な労働であって、「家事労働」ではありません。「家事労働」は私的な行為であって、社会的な労働ではありません。資本主義社会では「子育て」も一つの私的行為であって、直接に社会的なものではありません。


労働者の個人的消費の過程を、「生産」の過程として描くことは、消費を生産というための理論的ごまかしかありません。繰り返しますが、商品としての「労働力」の再生産にとって本質的なものは、それに必要な生活資料の価値、つまり社会的な労働であって、「家事労働」ではありません。


料理するなどの「家事労働」はたしかに存在しますが、しかしこれは生活資料を消費するには私的な過程が必ずあるということであって、こうした過程がどんな形で行われるかは、生活資料の価値とはなんの関係もありません。「家事労働」は本質的に私的な活動であって社会的な労働ではなく、労働力の価値には入らないのです。


労働力の価値というのは、それを生産するのに必要な生活手段の価値、これを生産するのに必要な労働時間によって規定されます。主婦の「家事労働」は、本質的に私的な活動であって、「夫の賃金」つまりその労働力の価値には入りません。「家事も労働だ」とするなら、今の資本主義社会での基本的事実である貨幣、剰余価値などについてのどんな科学的理解も不可能です。


資本主義にとって本質的なものが生産における労働の搾取ではなく、「不払労働」である「家事労働」であるかのように上野は言っています。上野にとって、資本主義に本質的で必要不可欠なことは、労働の搾取ではなく「不払労働」である「家事労働」なのです。上野の理屈は、資本による労働者の搾取を覆い隠す反動的な理論にほかなりません。


上野はどうしても“主婦”の存在を正当化したかったのです。現在、家事労働は生活用品の電化等々のため、妻としての「家事労働」は大幅に軽減され、半ば失業状態です。それを何とか正当化するための最後の試みが上野の「マルクス主義フェミニズム」というわけです。


「『マルクス主義フェミニズム』をとたいそうな名をふりまわし、大言壮語する上野が、実際には『家庭を大事にしろ!』という古くからのモラリズムを何か学問的な、言葉使いであることを見てきた。彼女の視野は狭く、“家庭”の限界を超えて広がることはほとんどない」(「科学的共産主義研究」65号、84ページ)。


上野の堕落、退廃は、林さんがこの批判を書かれた、1986年よりも一層、今、深まっています。


「売春」を「性労働」と正当化

―性的搾取業者、ポルノ産業の理論的代弁者として現れる


林さんは林紘義著作集第5巻「女性解放と労働者」の中で、上野が“売春”を“性労働”といいその「自由化」というスローガンを掲げてきたことを批判しています。


上野。「性労働者はマッサージ師とかわらない一専門職になるだろう」、「『セックスというお仕事』があまたある労働の一つとみなされ、その労働に従事する労働者の人格が問題になってきたのは、性労働が強制ではなく、選択の結果と考えられるようになってきたからである」(朝日、1994年6月22日)。


上野が「主婦労働」「家事労働」をあたかも社会的生産的な労働であるかのごとく語ったように、「性労働」も社会的生産的な労働のように語っているのです。


林さんの批判。「ここに立派な理論家が現れて、『性』もまたサービス労働や主婦労働と同様に“生産的労働”であり、堂々と売られるべきだ」と言う。「上野が問題にするのは、女性が『性を売る』ことの資本主義社会の矛盾、もしくは退廃現象ではない(もし女性が『強制』によってではなく、カネもうけのために『性を売る』ならそれは退廃現象ではないのだ)、それはある意味で正当な女性の権利であり、女性が自らの所有する“商品”を売っているにすぎない。」(45~49ページ)。


上野と鈴木涼美との往復書簡『限界から始まる』(幻冬舎)の中でも、この上野の退廃・堕落は一層深化しています。


現在の「風俗」での売春の横行は、現在の資本主義の矛盾、経済的苦境、格差の拡大、失業、貧困、生活苦、シングルマザーの貧困の拡大などと深くかかわっています。金銭提供を前提とした、「大人の関係」(肉体関係)もある「パパ活」の蔓延もそうです。相手はお金を持っている年上男性です。大阪のオランダの飾り窓のような「飛田新地」、そして「信太山新地」、ここで売春に携わるその多くは女子大生です。ネットでは「飛田新地」、「信太山新地」と検索すれば若い女性の求人広告が溢れています。若い女性の風俗は非正規、低賃金、失業、無職、アルバイトの報酬減、学費の高騰、高額の利子をとる日本学生支援機構の「奨学金」、そして親世帯の収入減、貧困の加速で親が仕送りする余力がないこと、そして現実としての風俗、ポルノ産業が存在しその肥大化、旺盛があります。そもそも、この社会で風俗、ポルノ産業自体がなければ女性がこれに携わることはありえません。


風俗、「パパ活」はカネの取り引き、やり取りのある性です。多く女性がますます加速する貧困の中にあるという現実の中で、あたかも「自由な意思」で「風俗」「パパ活」を選択したかにみえても、「経済学外的強制」でなくても「経済的強制」が働いているのです。上野がいうとおり「性労働が強制ではなく、選択の結果」だったとしても、そこには貧困などの社会的問題が潜んでいるのです。


そして業者はこうした女性の弱みに巧妙につけこんでいるのです。このことは現在の資本主義の矛盾と深くかかわっているのです。しかし、上野が最近の著『限界からはじまる』でも、『これからの時代を生きるあなたへ』でもこうした視点から問題提起もなく、社会的問題として語られることはほとんどなく、問題意識すらありません。上野はこうした資本主義の退廃を擁護すらしているのです。


NHKテレビの「チコちゃんに叱られる!」にでているお笑いコンビ・ナインティナイン岡村隆史がラジオ番組で「コロナが明けたら可愛い人が風俗嬢やります」の発言、この発言は一定の現実を反映しているが、今ではこの岡村の醜悪な発言が咎められることはほとんどありません。“売春”を“性労働”として擁護する上野にこの岡村発言を批判する資格はないのです。


風俗批判が「職業差別」と声を上げている者の多くは“売春”している、あるいはせざるをえない、させられている女性自身ではなく、昔は「ポン引き」と言われたピンプ、女衒、性的搾取の業者です。上野の言うことは昔からの女衒や売春者の言い分そのままです。そして「セックスワーク論」にとらわれた「リベラル」派が彼らの理論的代弁者として、「人権論」「反差別」の体裁をとって「人権侵害」の性的搾取を擁護しているわけです。


「セックスワーク」という美しい言葉、「パパ活」などの軽い言葉は、女性の“性産業”への心理的障壁を払いのけ、女性の「風俗」「パパ活」の参入を促しているのです。上野もこれに加担しています。


上野らは高尚な言葉で性的搾取業者、ポルノ産業の業者の言い分を、「セックスワークは女性にとっての経済行為です」などと言い「学問的」な“立派”な“うつくしい”言葉で粉飾、昇華させてきただけなのです。上野が実質的に擁護するアダルトビデオなどのポルノの社会への蔓延は女性の社会的地位の低下をもたらし、女性の性的な安全性の侵害をもたらしています。『限界から始まる』の中では上野はアダルトビデオを扱いながらも、今問題になり若い女性に多くの犠牲をしいているAV強要問題については全く触れられていません。


森田成也氏はその著、「マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論―搾取と暴力に抗うために」(慶応義塾大学出版会)の中で売買春での北欧モデルを紹介しています。(この本はいろんな限界、ある意味で本質的な限界がありますが一読に値します)。「このアプローチは~一方で、売り手である被買春女性を非犯罪化して、保護・支援の対象とし、他方で、売買者、ピンプ、業者などを処罰の対象にするというものである。これはスウェーデン、ノルウェー」から初ま」った(137,138ページ)。


そして、森田氏はこの著でアダルトビデオの女性の被害も語っています。一方、上野は『限界から始まる』でアダルトビデオを語っても、それによる女性の被害を語ることはありません。


森田氏の著でアダルトビデオでの女性虐待の紹介の事例。「バクシー山下というAV監督による暴力AVシリーズ『女犯』(1990~91年)である。


『女犯』シリーズは、出演者である女性に筋書についてほとんど事前に説明せず。その上で女優にありとあらゆる暴力や屈辱的行為を強い、それに対して女性が示す『本物』の恐怖や反応をおもしろがるというパターンを売りにしたアダルトビデオだ。」「このおぞましい拷問ポルノをリベラル派の知識人や、朝日新聞系の週刊誌『AERA』」などが当時、『前衛的』『革命的』と絶賛したのである(212ページ)。


この暴力・拷問ポルノについて上野は宮台真司と対談している。「バクシー山下の一連の暴力レイプ・ビデオをそのカタルシス効果のゆえに賛美している宮台真司氏」(121ページ)。


この本文への注。「上野千鶴子、宮台真司『メディア・セックス・家族』、『論座』1998年8月号での宮台発言。この対談に対する批判として、拙稿『上野・宮台対談に見る性的リベラリズムの隘路』、『論座』1998年8月号」(129ページ)。


こうした発言をした宮台と『往復書簡 限界から始まる』刊行記念のトークイベントで2021年8月26日、上野は鈴木涼美と三人で対談しています。女性虐待の拷問・暴力ポルノを絶賛していた宮台と上野は最近でも対談していたのです。後でも、同様の拷問・暴力ポルノは続々と制作販売され、バッキ―事件という戦後最大のポルノ暴力事件にまで発展します。こうした拷問・暴力ポルノの制作販売を上野は知りながらもこうしたことに必ずしも批判的ではなかったのです。今でも上野は『限界から始まる』の中でもアダルトビデオには肯定的です。


上野が若い頃に参加していたという「新左翼」運動、学生運動、バリケードの中でも「性差別」があったと語っています。「露骨な性的役割分担」、「性解放」の名のもとに、性的に自由な女の子を、陰では男たちが「公衆便所」と呼んでいた。このことは「新左翼」、急進主義運動の限界、空虚さ、無内容、退廃を示す一例です。


上野が“性労働”として擁護してきた“売春”、このカネのため「性を売る」、あるいは売らざるをえない社会をなくすことこそが課題です。「マルクス主義フェミニズム」を説く上野は、女性を貶める存在でもあるのです。


「セックスワークは女性にとっての経済行為です」とうつくしい言葉で説く上野は、風俗などの性的搾取産業、ポルノ産業の理論的代弁者と言ってもよいような醜悪な存在になり果てています。つまるところ上野はフェミニストですらないのです。


上野のような主張は女性の真実の解放、社会主義的理想をめざす労働者の闘いとは縁もゆかりもありません。


女性差別一掃、女性の真実の解放のために

―東大入学式での上野の挨拶の欺瞞性


最後に、2019年の参議院選挙において、我々、労働の解放をめざす労働者党(労働者党)の立候補者、伊藤恵子のパンフレットの中で、林さんから伊藤さんへの励ましの言葉があり、その中の林さんの上野批判の部分を紹介してまとめにかえます。


「女性の地位改善や女性の解放――解放にも色々あって、どんな解放かが問題ですが――『男と女の対立』という図式から出発して、女性の解放を論じるフェミニスト――彼らはみなブルジョアやエリートの出です――を取り上げつつ、我々の女性解放の理論や闘いを語りたいと思います。


今年の東大の入学式にかってのマルクス主義フェミニズムなる理論を携えて、“経済学”とりわけマルクス主義経済学を援用して、主婦労働と主婦の階級的な立場を擁護する論陣を張って、ブルジョアやプチブルから喝采を浴び、出世の階段をかけあがるための令名ときっかけを手にした上野千鶴子が登壇して、次のように喝破しました。


『あなたたちのがんばりをどうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれない人々を貶めるためではなく、そういう人々を助けるために使ってください』


その言や良しですが、しかし今や彼女はエリートとして、弱い人々や貧しい人たちの対極にいる人間で、こんな挨拶できる人でしょうか。上野はかって“主婦”の地位を擁護し、正当化するフェミニストの雄でした。彼女は従来の“正統派”マルクス主義は主婦労働を正当に評価せず、非生産的労働として卑しめてきた、しかしこうした理論は主婦労働の意義を否定し、女性を軽蔑し、愚弄するものであって、マルクス主義の理論を正しく援用するなら、主婦労働の、したがってまた主婦労働者の正当な意義と役割を評価すべきものであるといったものでした。


しかし主婦労働は“主人”としての家族の関係においてのみ主婦労働であって、私的で狭隘な関係の中でのみ意義を持つにすぎず、したがって、社会的で、客観的な評価を持ちえません。別の形で言うなら、主婦労働の担い手としての女性は、自らの“労働”に対して社会的に評価された支払(賃金)を受けとりません。


つまり主婦と夫の関係は社会的なものでなく私的なものです。主婦と夫との関係は女性の男性への依存と従属の関係、奉仕の受容者と奉仕者の提供者の関係、人格的な優位と従属の関係、平たく言うなら一種の奴隷主と奴隷の関係です。つまり主婦が“家庭奴隷”である所以です。こうした関係の本性は、夫婦の間の関係で愛情や相互信頼がなくなった場合や、離婚の場合などに端的に現れます。


そして上野の“えせ”マルクス主義の破綻は、性風俗に従事する“労働者”や性を売る女性(“売春婦”等々)の存在やその(生産的)労働を擁護し、正当化する“理論”において、その究極的で、卑しく、反動的な観点に行きついてしまいました。


上野はかって1990年代“性労働(売春等々)”を主婦労働や個人的サービスと同じ、生産的労働であり、堂々売られるべきであり、それが非難されるのは強制で売られるからだ、“自由化”されれば「マッサージ師と変わらない一専門職になる」などと論じて、当時流行となり、繁盛し始めた“風俗産業”を美化し、擁護して世のブルジョアたちや男性諸君たちから喝采を浴びたのですが、上野の「あなたたちのがんばりを恵まれないひとびとを助けるために使ってください」といった貧しい人々とは「性を売る」女性たちのことでしょうか。余りにバカげています」(伊藤恵子さんとフェミニスト、比例区予定候補・林からの励まし、伊藤恵子さんを国会へ、2019年)。 (M)

※上野の『これからの時代を生きるあなたへ』の書名を一部『これからの時代を生き抜くあなたへ』と間違って表記していたのを校正しました。(2022/5/26)

頽廃・堕落深める上野千鶴子

『資本論』学習会を行っているMさんから、上野千鶴子の論説について批判する投稿がありました。紹介します。

 

頽廃・堕落深める上野千鶴子

 ―セックスワーク論を実質的に擁護

 

資本論研究会の前、終了後、参加者と多々のテーマで雑談、論議することがあります。前回、上野千鶴子が何かのきっかけで話題になりました。上野千鶴子を評価する参加者がいましたが、彼女は、社会問題、階級対立などすべての問題をジェンダー、男対女、性の問題に還元していることなど説明しました。


 最近の著に鈴木涼美との往復書簡「限界から始まる」(幻冬舎)があります。この本を読んでいて胸が悪くなりました。

 

彼女らはセックスワーク論に囚われ、性以外の問題はまるでこの世にないかのようです、シングルマザーの貧困問題など語られることはありません。社会問題にはほとんど触れられていません。

 

上野はポルノ産業、風俗産業を実質的に擁護しさえしています。上野「妻のセックスは正当に支払われない『不払労働』なのです」「セックスワークは女性にとっての経済行為です」。上野に生産的労働の概念は一切ありません。上野は「マルクス主義フェミニズム」とか言っていますが、上野の主張にはマルクス主義とは縁もいかりもありません。

 

労働者党元代表亡き林さんの上野への批判は「科学的共産主義研究」65号、72頁以下、林著作集第5巻「女性解放と教育改革」45頁にありますが、鈴木涼美から「日本女性の碩学」と評され、東大名誉教授の肩書を持ちマスコミの寵児になっている今、上野の堕落はより深まっています。

 

亡くなられた林さんの「レーニンの言葉」43頁以下に「性的なことをあさりまわる風潮」、性の「水一杯の理論」などの批判があります。日本はアダルトビデオの生産では世界で一位か二位です。ネットの普及で幼児・子どもでも簡単にアダルトサイトに行きつくようになっています。

 

ポルノ、セックスワーク論を批判した最近の著に「マルクス主義、フェミニズム、セックスワーク論――搾取と暴力に抗うために」(森田成也、慶応義塾大学出版会)があります。藤田孝典氏は、この本を「日常化した女性差別に抗う理論を必要とする人たちへ。日本における売買春の決定版の書」と評しています。

 

ポルノ、セックスワーク論が現実、さまざまな角度から批判されています。売買春合法化国では、合法性の看板のもとで強制的、搾取的な合法店の売買春が横行し、数倍の違法店が存在している、ポルノの蔓延は女性を社会的地位低下、性的不平等の深刻化、性的安全性の侵害に影響を及ぼしている、など。ブルジョア民主主義、憲法などの観点から論じるなどの限界はあり、資本論研究会参加者から、この本は性の問題を特別視し、性の問題から社会問題を論じすぎているとの批判もありますが、ほとんどの「リベラル派」がセックスワーク論に囚われ、風俗批判は「職業差別」という声だけが聞こえ、セックスワーク論に全くといいってよいほど批判がみられない今、一定の限界を自覚の上読めば、私は一読の価値はあると思っています。 (M)

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
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