不毛な論争に終止符を打つべき


有用労働による生産手段の「価値移転」論について

 

 我々の党にとって「価値移転」論はすでに2、30年ほども執拗に続いている、一つの論争問題、今なお最終的に、したがってまた組織的に解決しない係争問題である。この問題で、代表委員会が価値移転論に反対の立場を堅持したことに反発し、大谷派もしくは共産党に接近したり、党から離れたりした人々も少なからずいたほどである。論争の根柢は、資本の運動の中で、生産手段の価値が生産過程の中で、生産された商品の価値に移り、再現するという現象に依拠した見解であり、しかもマルクス自身もその「移動」を明言しているということもあって、この理論はスターリン主義の全時代を通してマルクス主義経済学の当然の〝公式〟=ドグマとして承認され、百年にもわたって牢固たる真実として受け入れられ、通用してきた。

 

「価値移転」論は、そもそもマルクス主義の価値概念に第一歩から、根底から矛盾している

 

 いくらかでも真剣に反省してみると、商品価値の「有用労働による価値移転」という観念は、商品とは価値でもあり、使用価値でもあるという商品の概念に抵触する、根本問題を含んでおり、そうした無反省なスターリン主義〝経済学〟に対する反発と批判は、現実的に、そして歴史的に一つの必然でもあった。

 我々はここでは問題の本質的な点について、ごく簡単に論ずるに留めたいと思う。

 私が主張したい論拠の核心は、マルクスの価値論は基本的に「単純商品」の概念として与えられており、その規定が資本主義的に生産された商品(商品資本)に適用されず、労働価値説に矛盾する概念規定が与えられていいのか、ということである。

もちろん資本主義的商品が、その価値(の実体)が、その商品を生産されるために支出された、現実の生きた(抽象的な)人間労働でなく、生きた労働とともに、「過去の労働」――生産手段=生産財(資本価値)のために支出された「過去の労働」――でもあるというなら、労働価値説は根底から否定され、崩壊するし、するしかない。というのは一定の期間――例えば1――の総労働時間の結果ではなくて――、使用価値としては、その結果であるとしても――、「価値」としては、つまり抽象的労働としては、つまりその年々に支出された価値形成的労働の結果ではないという背理に行きつくしかないからである。

 この場合、有用労働は二重の働きをすると説明される。つまり新しい使用価値を生産するとともに、新しい「生きた労働」――消費財を生産する労働――に加えて、「過去の労働」も新商品に移転し、かくして全体として新商品の価値を形成するというのである。

 1年間に支出される総労働は、その年の使用価値の全体を生産するが、価値形成的労働としては、つまり「生きた労働」として消費財を生産する労働の価値だけである。原材料や機械などの生産財の価値は使用価値を生産する有用労働のもう一つの機能によって、過去の生産手段(つまり資本価値)から「移転」されてくるからである。年間の総商品資本を生み出すべき労働は、使用価値の総体は生み出すが、価値としてはただ消費財だけの「価値」を形成するだけだというのである。というのはその価値は年々の労働の結果ではなく、単に資本価値(「過去の労働」)の「移転」されてきたものだからというからである。

おそるべきドグマであり、こうした見解が百年にもわたってスターリン主義〝経済学〟として、「科学」としてもてはやされ、そんな空文句が珍重されてきたことは、スターリン主義とは何であったかを示唆して余りある。

 

冒頭の単純商品と資本論第二編の(総)商品資本

 

資本論冒頭の単純商品に規定されている素朴な労働価値説を、資本家的商品に適用するのは間違いなのか。

当然に、価値移転論者はみな無理であると口をそろえるだろう。

しかし資本家的商品も、資本家的に生産されたということを捨象すれば、それが単純商品と同じ価値規定性を、価値概念を受け取るということは、マルクスもつとに強調している真実であって、価値法則は資本主義の全体を、その根底を規定する法則であるからこそ価値法則である。

単純商品もまたある意味では、資本主義的商品と同様に、「過去の労働」でもある、あるいは「生きた労働」と「過去の労働」の合計でもあるといえる。というのは、ここでは生産者はまず生産財を作ってから、消費財を作るからである。例えば魚を取って市場にもっていこうとする漁師は、まず釣り針を作ってから、魚を取るだろうからである。彼は同時に釣り針を作りながら、魚を取ろうとはしないし、そんなことは不可能だからである。

しかし原始的な社会をロビンソン・クルーソーのような一人の社会として考えるのではなく、複数人の社会として考えることもできる。

 この場合、漁師の労働を「過去の労働」と、「生きた労働」と区別して、魚の「価値」を、そんな二つの労働の和として労働価値説を説明しようとすることに、一体どんな意義があるというのか。何もないということは自明で、そんなつまらない説明しようとすることに一体どんな意義があるのか。そんな無意味な試みは、せいぜいブルジョアたちの「費用学説」といった俗説――商品の価値もしくは価格は、資本(不変資本)の価値、賃金(可変資本の価値)、そして利潤とか地代とかの諸所得等々の総和である云々――といった俗論に行き着くしかないのは明らかではないのか。

 原始的社会を、ロビンソン・クルーソーのような一人の人間によってではなく、複数の人間(例えばもう一人フライデーという人物を加えよう)によって代表させることもできる。そしてその場合、二人が分業して、ロビンソンが魚取りし、フライデーが生産手段、つまり釣り針等々作りにもっぱら従事するとするなら、二人は時系列ではなくて同時進行的な形で生産財と消費財のすべてを作り出し、手にすることができるだろう。

我々は「過去の労働」や「価値移転論」のお世話になることなく、極めて合理的に一定の期間における、社会的なすべての生産物と、その生産のために支出される労働との関係を理解することができるのである。

 我々は発展した資本主義社会における総商品資本の価値規定の場合も、個別資本の運動に幻惑された「価値論」(価値移転論)によってではなく、むしろ広汎で全面的な、同時並行的に行われる労働者全体の生産的労働による分業関係を想定することによって解決され得るのである。

資本論の「端緒としての」商品も、資本主義的生産の結果としての商品(商品資本)も、「商品」の規定性としては同じあり、抽象的労働と具体的有用労働の結果としての、つまり「価値」と使用価値の統一としての商品である。

両者の違いは、前者が孤立した個々の生産者の労働によるものであるのに対して、資本主義的商品が無数の労働者の社会的分業による労働の結果であるということだけであって、前者は「生きた労働」による商品であるが、後者は「過去の労働」と「生きた労働」の和によるものだといったところにあるのではない。

 ある意味では単純商品もまた、一人の労働分割である限り、前の労働――生産財のための労働は、それに続く生産においては――いわんや最終の生産にとっては「過去の労働」として現象する。そして資本主義的商品にあっては、生産財のための労働は一般に「過去の労働」として現象するが――とりわけ個別資本(とりわけ貨幣資本、生産資本)の運動の場合には――、しかし広汎で、全面的な社会的分業の下では同時進行的であるし、また消費財を生産する労働の方が生産財を生産する労働に対して「過去の労働」として現れる可能性さえあり得るだろう。

 問題は資本主義的生産にあっては、生産の後先ではなくて、広汎な社会的分業であって、総体としての商品資本を考察すれば、それらは個々の商品と同様に、価値創造的な抽象的労働と使用価値を生産する有用労働の結合した労働の生産物として商品であることが確認されるのである。

 ここで注意され、確認されなくてはならないのは、過去の労働とか、前の労働とか、昨年の労働とか、生きた労働、生産財や消費財のための労働等々、そういったものの合計が商品であり、その価値だといったことでなく、資本主義的商品はただ広汎な社会的な分業による総労働の協同作業の結果としてのみ商品であるし、あり得るということだけである。

 もし総商品資本としての概念もまた、冒頭商品の概念と同様に規定されるとするなら、価値移転に対する多くの理屈のナンセンスや空虚さたちまち明らかになり、問題が極めて単純となり、明瞭なものになるのは明らかである。そしてそうして悪いという理由、間違っているという理由は何もないのである、否、むしろそうした単純な真理からこそ出発すべきであって、有害で、空っぽで、時間とエネルギーを浪費するだけの議論など徹底的に否定し、葬り去られるべきということになるし、ならざるを得ない。

 我々が――我々のみが――、社会主義社会における、消費財の分配法則の発見という偉業をなし得たのは、 「生産財の価値移転」論という空虚なドグマを克服し、断固としてそれと決別した限りで、決別したからこそであることが確認されなくてはならない。

 

「価値移転論」の隠された〝秘密〟

 

 価値移転論は、結局はブルジョアたちの観念であり、資本主義の現象にとらわれた妄説である。資本は(すでに貨幣もそうなのだが)ブルジョアたちには、「独立した価値」として、自己運動し、「自ら増殖する価値」として現象し、目に映るのだが、しかし活動家の中には、資本についてのこうした〝マルクスの〟外面的な価値概念に驚喜乱舞する、奇特な男もいたのである。それは私の同級生で、ブンド崩壊後、珍奇な急進派の小グループ「戦旗派」のリーダーにおさまった水沢史郎?であったが、生産財の〝マルクスの〟価値移転論に執着する面々も、彼とそれほど隔たった地点にいるわけではない。

しかしマルクスが資本の概念として、「自ら運動し、増殖する価値」と規定したからといって、それが正しく、称賛されるべき観念だなどといわれたら、マルクスは苦笑し、その軽薄さと無知を軽蔑するだけであろう、というのは、そんな資本の概念は、現実に物化された社会関係としての資本の、外面的で、空虚な観念、ブルジョアたちが抱く資本概念を一歩も出ない、低俗な観念だからである。

ところで、資本の価値移転についてやかましく騒ぎ立てる人々は、一体かつての水沢謀らと、どれだけ違った立場にいるというのだろうか。我々は早くから、彼らの誤りにおける根柢の本質的な同一性を明らかにし、指摘してきた。資本はそのものとしては、「独立した価値」であり、「自ら増殖する価値」として運動する。そしてそれは貨幣資本(や生産資本)として典型的である。しかし商品資本としての運動は、運動(循環)の最初と最後において、単純再生産を前提する限り、基本的に同等のものとして――価値においても、使用価値においても――現象する。

かつてMは何らかのセミナーの場か、研究会か学習会の場か忘れたが、商品の交換関係を、つまり商品の商品形態の貨幣形態への変態を、そしてまた貨幣形態の商品形態への再変態の価値移転の一つの例として言及し、林の抗議を受けて大急ぎで撤回したが、しかし商品変態を価値移転として理解する神経は途方もないものである。ブルジョアは生産を開始するにあたって、自らの貨幣資本を生産手段等々の商品資本に形態変化するが、それは価値を移転させて手放したり、失ったのではなく、単に別の形態に転化したに過ぎないのは余りに明らかである。

彼は貨幣資本を生産資本に転化したからといって、どんな「価値」も移転させず、したがって手放さず、最初に貨幣価値として保有していたものをただ生産資本の価値としてやはり所有しているのであり、またその後も価値は生産物(商品資本)の価値として彼の手もとにとどまるのである。最後に、彼はそれを売却することによって、最初の資本価値を剰余価値を伴って回収する。

彼が貨幣価値として保持していたもの(出発点の元素的資本)を、この過程の最後に生産物価値として、商品資本として、つまり当初の資本価値を剰余価値を伴って回収し得るのは、一年間なら一年間の労働者の労働の成果のすべてを――価値においても、使用価値においても――自分のものとして所有するから、できるからにすぎない。資本を保有し、それを投じたのはブルジョアとしての彼であって、実際に労働し、生産した労働者ではないから、私的所有の権利が認められるこの資本主義の社会ではそうなるしかないから、である。

資本主義の諸関係の〝物化された〟形態に幻惑されて資本主義を理解する、「価値移転」論者の軽率なブルジョア的本性が暴露されるのである。

 

『資本論』の――したがってまた資本主義社会の諸関係と諸法則の――正しい理解を

 

だからこそ資本主義的生産を、人類の物質的生産様式の歴史的段階の一つの生産様式の全体として考察しようするなら、商品資本として、しかも個々の商品資本の運動としてではなく、商品資本の総体として分析し、考察しなくてはならないのである。

資本の運動は現実には貨幣資本を契機とも動力ともして行われるのであり、したがって資本主義を表面的に観察し、現象のままに理解する能力のない人々は――つまり資本の運動の担い手であるブルジョアたちは――貨幣資本の運動に幻惑され、また支配されるのであって、彼らの目には、直接の体験では、資本――つまり資本価値――は、資本の運動中を通して〝移転〟され、保存され、剰余価値を伴って還流してくるのであり、またそうでなくてはならないのである。 

 したがってブルジョアたちの自然の価値論(価格論に堕すのだが)は〝費用学説〟である、すなわち商品の価値(価格)は資本価値+賃金+利潤(+地代等々の派生的所得)である、つまり価値移転論と不可分である。

マルクスもまた価値移転論を展開していると散々に言われてきた。しかしマルクスは資本主義を分析するにあたって、現象しているままの資本主義の現実についてもいくらでも語っている、というのは資本主義は単なる観念的存在ではなく、〝物化された〟社会関係として実在的なものだからである。モノとしての資本は自己運動して、自己増殖する貨幣である。

しかしマルクス主義がマルクス主義であるゆえんは、マルクスは、〝物化された〟社会関係を分析し、その背後にある真実の社会関係を明らかにし、暴露しているのであって――「物化された」社会関係、疎外された社会関係を一掃して、真実に人間にふさわしい、合理的な社会関係を可能にするために、勝ち取るために!――、そんな肝心かなめのことを理解せず、マルクスの言葉を、ただ言葉だけを、しかも自らの俗流意識にマッチするような言葉を持ち出し、大騒ぎする人々の呪いあれ! である。

MTらがマルクスのそうした類の言葉にひかれ、固執し、大騒ぎしたのも偶然ではない、マルクスのそうした言葉は、ある意味で資本主義の表面的な〝現実〟や〝真実〟を語ったものだからであり、彼らの俗流的な意識に直接に反応するものだったからある。Mらの有用労働や商品の使用価値に対する固執や偏見や〝過大評価〟や、有用労働の特別な能力や役割に対する賛歌は、宇野学派やバヴェルクらの効用学派の、有用労働や商品の使用価値に対する偏愛等々と大同小異であるのも決して偶然ではない。

 

マルクスは、資本主義の再生産の総体を検討し、理解するには、個別資本――とりわけ貨幣資本――のではなく、商品資本――しかも単なる個別の商品資本ではなく、総体としての、社会全体として商品資本――を取り上げ、検討しなくてはならないとして、次のような文章を残している。

「しかし、循環W´―W´は、その軌道の中にW(=A+Pm)の形態にある他の産業資本を前提にしているからこそ(またPmは色々な種類の他の資本、例えば我々の場合では、機械や石炭や油などを包括しているからこそ)、この循環そのものが次のようにことを要求するのである。すなわち、この循環を、ただ、循環の一般的な形態として、すなわち各個の産業資本を(それが最初に投下された場合を除き)そのもとで考察することができるような形態として、したがってすべて個別の産業資本に共通な運動形態として考察するだけでなく、また同時に、色々な個別資本の総計すなわち資本家階級の総資本の運動形態として考察することを要求するのであって、この運動では各個の産業資本の運動はただ一つの部分運動として現れるだけで、この部分運動はまた他の部分運動と絡み合い、他の部分運動によって制約されるのである。

 例えば、我々が一国の一年間の総商品生産物を考察して、その一部分がすべての個別事業の生産資本を補填し、他の部分が色々の階級の個人的消費に入っていく運動を分析するならば、我々はW´…W´を、社会的運動形態としても、考察するのである。社会的総資本は個別資本の総計に等しいということ、また、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいということ、このようなことは決して次のことを排除するものではない。

[以下、重要――]すなわち、この運動は、単独な資本の個別運動としては、同じ運動が社会的資本の総運動の一部分という観点から考察される場合とは違った諸現象を呈するということ、また、同時にこの運動は、色々な問題、すなわち、個々の個別資本の循環の考察によって解決されるのではなく、そのような考察では、解決が前提されていなければならないような諸問題を解決するということと、これである。

 W´―W´という循環では、最初に前貸しされる資本価値は、ただ運動を開始する極の一部分をなしているだけであり、運動は初めから産業資本の全体運動として示されているのであるが、このような運動はただW´―W´だけである」(『資本論』二部一篇一章、全集二巻120ページ、原典100ページ)。[ここではW=商品(資本)A=労働力、Pm=生産手段]

 日本の全体の年々の商品資本の総体は、年々の総労働日(もちろんここで問題になるのは生産的労働の労働日である)の結果として実在的である。それを三千万労働日とし、そのうち二千万は生産財の、一千万は消費財の生産に支出されたとしよう。

ここではすべての関係はあまりに明白に実在的であって、どんなドグマや空理空論や、空疎な観念的おしゃべりも、その端切れさえも入り込む隙間もないだろう。消費財が単に一千万の、直接に消費財の生産のために支出された労働の結果だけでなく、二千万の生産財――機械や原材料――の生産のために支出された労働日の結果であるのは明々白々であり、したがってまた消費材の全体が三千万の労働者に等しく分配されることも当然のこととして現れる。(林 紘義)