長野県安曇野で行われている『資本論』読書会の報告を紹介します。

 

“共産主義社会”をめぐって議論沸騰

――4カ月ぶりの『資本論』読書会(安曇野)

 

625()午後、『資本論』読書会を4カ月ぶりに開催した。参加者は常連ばかり数人で、第122章「剰余価値の資本への転化」1-3節を検討。全員マスクをつけ、感染防止対策として一つのテーブルに1人が座るスタイルでの初めての読書会だったが、活発な議論が交わされた。

 

報告の要点

 

22章の1-3節は、非常に内容豊富で、示唆するところが多い。最初に「資本の蓄積」概念が規定され、「商品生産およびに基づく取得の法則または私的所有の法則が・・・不可避的な弁証法によって、その直接の対立物[=資本主義的取得方式]に転化する」ことが、言い換えれば、「商品生産はそれ自身の内的諸法則に従って[労働力をも商品化することを通じて・・引用者]必然的に資本主義的生産に成長していく」ことが明らかにされている。

 

レポーター(私)は、ここで社会主義は商品生産=市場経済と矛盾しない、社会主義は商品生産の良い面を活かしていくといった共産党の主張がマルクスの見解に真っ向から反すること、それは資本主義は悪いが商品生産は良いと言い張ったプルードンやリカード派社会主義者の主張と変わらないことを指摘した。

 

第2節では、「収入のうち資本に転化される部分は生産的労働者によって消費される」というスミスのドグマが批判される。

 

「節欲説」批判の3節では重要な指摘がある――「価値増殖の狂信者として、彼[=資本家]は容赦なく人類を強制して、生産のために生産させ、それゆえ社会的生産諸能力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会的形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる」。

 

最後に、マルクスは、資本主義的矛盾の発展につれて経済学は古典派経済学から俗流経済学に転じていったことを明らかにし、俗流派の代表格としてマルサスをやり玉に挙げている――マルサスは「ある分業を擁護した」、つまり「実際に生産にたずさわる資本家には蓄積の仕事を割り当て、剰余価値の分配にあずかるその他の人々――土地貴族、国や教会からの受禄者など――には浪費の仕事を割り当てる」、「『支出への情熱と蓄積への情熱を分離させておく』ことがもっとも重要である、と言っている」。レポーターは、不生産的階級による浪費が資本主義の維持に重要だというマルサスこそは、ケインズ主義の“原点”であることを指摘した。

 

議論の焦点

 

以上の報告の後、討論に入ったが、議論が集中したのは、3節の「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」という共産主義社会の規定についてであった。

 

主な意見を列挙しよう――①共産主義社会では、仕事の種類は資本主義より減るのか、増えるのか、②搾取はなくなり、経済の舵取りは国民が担う、失業はなくなるし、仕事の仕方も内容も違ってくるだろう、③そもそも賃金関係(資本賃労働関係)がなくなる、④農家の仕事では子どもも年寄りも役割があり、無駄な人はいない、一つの共同体になっている。それに近いのではないか、⑤資本主義では無駄な仕事が多い(カジノ等)、そういうものはなくなるだろう、⑥会社勤めの頃、まだ使える商品でも、売れ残りはつぶしていた、無駄な仕事だった、⑦犯罪はすぐにはなくならないかもしれないが、人間も発展していくとみるべきだ、⑧何よりも戦争がなくなることが良い、⑨計画経済では製品の種類や生産量を中央が決めるが、スーパーコンピューターでも無理ではないか、官僚主義が強まる可能性はないか、等々。

 

共産主義社会の一規定をめぐって議論が沸騰したのは何故だろうか。私は次のように考えている。

 

かつてのコレラやペストなどのパンデミックを引き起こした感染症に比べれば、新型コロナウィルスは、せいぜい“幕下クラス”だというのに、「高度文明社会」=資本主義社会は、たちまち混乱に陥り、隠されてきた深い闇をさらけ出した。多くの非正規労働者が失業し、会社の寮を追い出されて住処を失い、東京都内だけで4000人と言われるネットカフェ“難民”は路頭に迷い、風俗産業で働くシングルマザーは子どもとともにその日の食事にも事欠くことになった等々。

 

「美しい国・日本」の苦い真実を思い知って、この社会を根底から見直そうという気運が高まっているように感じる。現に多くの知識人がコロナ禍以後の進むべき道に語っている(もっとも、その思考は大体が観念的空想的で、中途半端だと言わざるを得ないのだが)。読書会の皆さんも資本主義の行き詰まり、その脆弱性を痛感し、これまで『資本論』の所々で言及されてきた共産主義社会を、今までより身近に感じたのではないだろうか。それが議論沸騰の背景にあったような気がするのだ。

 

議論の集約

 

議論を逐一紹介すると長くなるので、議論の中で確認されたことをまとめてみよう――

 

①共産主義社会とは「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会手的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』第1篇第14)であり、資本賃労働関係が――したがってまた搾取や差別、抑圧が――入り込む余地はない、

 

②病人や高齢者、幼児など働けない人々を除く社会のすべての成員が労働を担うので、また資本主義ならではの“無駄な”仕事がなくなるので、労働時間は大幅に短縮される(例えば、6時間、あるいは4時間労働制になる)、トマス・モア(1478-1535)は早くも16世紀の初めに、働けるすべての人々が働き、無駄な仕事をなくせば、6時間労働でも十分足りると論じた、

 

③生産物は労働時間に応じて分配され、生産力が発展するにしたがって「労働に応じた分配」から「必要に応じた分配」に移行する、

 

④労働は苦痛ではなく、楽しみ、喜びとなり、また特定の労働に生涯縛り付けられるのではなく、様々な労働を交互に担い、労働を通じて人間の能力を発展させ、「全面的に発達した人間」になっていく、

 

⑤余暇は芸術文化や科学・研究、体育など様々な活動にいそしむことができる(若きマルクス・エンゲルスの著作『ドイツイデオロギー』によれば、「私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩りをし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになる」)、

 

⑥国家は「階級対立の非和解姓の産物」(エンゲルス)であり、階級対立がなくなれば、国家は「死滅する」、

 

⑦「物の管理と生産過程の支配」を担う機関は残るが、管理業務は特定の人の職業として行われ、特権や利権が絡むようなことはない。なぜなら、誰もが高度の教育を受け能力を身につけるにしたがって、特定の人ではなく、多くの人が交互に管理の任務を担うことになり、官僚主義の発生する余地はない、

 

⑧スーパーコンピューターやAI、インターネットの発達により、経済の管理も容易になる等々。

 

国家資本主義論の意義

 

議論を整理しながら、私は最後に、ここにあげた簡潔な共産主義社会についての規定からだけでも、かつてのソ連や現代の中国が共産主義などでは決してなかったことが明らかになることを指摘した。国有企業が労働者を雇用し、低賃金で酷使してきたのであり、商品生産・流通は継続し、国有企業の幹部や政府官僚(共産党官僚)は癒着し、富を独占し特権をむさぼっていた、その体制は特殊な資本主義、国家資本主義と規定すべきだと論じた。ソ連や中国を誰もが社会主義国と信じていた60年代半ばに、少数の研究者・活動家たちは、ソ連・中国の体制を徹底的に研究し、国家資本主義概念を確立したが、私も当時この研究の一翼を担った。ソ連・中国=国家資本主義論は、世界の認識を根本から変えるものであり、ノーベル賞ものの“発見”だと思うのだが、未だに誰も推薦してくれないとジョークを言ったが、誰も笑ってくれなかった(別に望んでいるわけではないので、どうでもよいのだが)

以上(文責・鈴木)