労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

共産党

平民社後の社会主義運動

神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第45号で、明治から大正にかけての社会主義運動について紹介しています。8月と9月の学習会で、幸徳秋水の『社会主義神髄』と平民社の闘いについて取り上げ、その後の社会主義運動についてまとめたものです。日本において社会主義運動が歩んだ困難な闘いについて、正しく(共産党のように「神話化」することなく)理解を深める参考になると思います。

 

 

平民社後の社会主義運動

  

  幸徳秋水の『社会主義神髄』と平民社の闘いについては、8月と9月の学習会のテーマになりましたが、その後の社会主義運動については、まだ議論されていません。そこで、簡単に触れておきたいと思います。

 

 平民社の解散(190510・5)後、幸徳は悪化した健康の回復もかねて米国へ亡命(190511141906・6月末)しますが、米国滞在中に、思想上の大きな変化をします。その表明が、帰国直後の「世界革命運動の潮流」と題する演説です。

 

この演説については、前号の「労働者くらぶ」で紹介しましたが、要するに、幸徳は、いかに社会主義者の議員を議会に送り込んでも世の中は変わらない、労働者自身の直接的な力、ゼネストで革命を起こさねばならない、と言っているのです。

 

幸徳は、米国の社会主義者やロシアの無政府主義者(エス・エル党員)との交流や第2インターの議会主義・改良主義の限界を見聞するにつけ、議会主義への批判を強めていくのです。幸徳は、この思想の変化を、「我ながらほとんど別人の観がある」と述べています。

 

この変化は、これまでモデルとしてきたドイツやフランスの社会民主党のブルジョア的議会主義の腐敗・堕落ぶりに反発するまっとうな革命派の反応ですが、しかし腐敗や堕落を批判するあまり、議会や選挙を利用して労働者の階級闘争を高めていくという革命的議会主義を否定することになりました。

 

 しかし、この幸徳の「思想の変化」は、これまで、普通選挙によって合法的に社会主義を勝ち取ると信じてきた多くの社会主義者に衝撃を与え、ここに、これまでの議会主義を維持しようとする田添鉄二らの議会政策派と幸徳らの直接行動派との対立が生まれるのです。

 

当時は、桂内閣に代わって多少自由主義的な西園寺内閣の時代で、1901(明治34)年の社会民主党の即日禁止後、日本で初めての合法主義的な社会主義政党(「国法の範囲内で社会主義を目指す」としている)である日本社会党(19061281907222)が結成されており、その第2回大会で両派は激突するのです。

 

結局、この対立は、直接行動派の主張を多く取り入れた堺利彦の折衷案が採択され、その後、議会政策派は労資協調の日和見主義を深めていきます。それに対し、直接行動派は、ますます観念的な急進主義を深めていき、幸徳もクロポトキンの『麺麭(パン)の略取』を翻訳したりします。

 

  そこに起こったのが「赤旗事件」(1908622)です。これは党員の山口孤剣の出獄歓迎会で、大杉栄や荒畑寒村が「無政府共産」と書いた赤旗を掲げて示威運動をしようとしたのを警察が弾圧した事件です。

 

この事件の責任を取って西園寺内閣は総辞職しますが、それに代わった桂内閣(第2次)は、社会主義者に対し徹底的に弾圧する方針で臨み、堺、山川、大杉に懲役2年、荒畑は懲役1年半という重刑を課します。

 

このように、発売禁止、裁判責め、罰金責め、監獄責めで、手も足も出なくなった社会主義運動の一部が、絶望感、無力感、権力に対する憤激に襲われるようになるのは当然です。ここから個人的テロに訴える連中が出てきます。          

 

  宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄、古川力作が集まり、天皇といえども血を流す人間に過ぎないことを示すために、天皇暗殺の計画をするようになるのです。幸徳の直接行動論は、決して個人的テロを容認するものではなく、幸徳自身「暗殺にては(社会)主義は成功せず」と語っています。

 

彼の直接行動は、労働者の革命的な大衆行動によって「いっさいの生産・交通の機関の、その運転を停止」させることなのですが、しかし、社会主義運動の撲滅の機会を狙っていた桂内閣は、宮下の爆弾製造の事実をつかむと、これを徹底的に利用し、幸徳をリーダーとする社会主義者の天皇暗殺の一大陰謀事件をでっちあげ、全国各地の社会主義者数百人を検挙し、最終的に幸徳ら26人を起訴したのです。

 

幸徳は、赤旗事件を知らされると(高知で療養中)直ちに上京、その途次、新宮の大石誠之助や大阪の森近運平の所に立ち寄るのですが、この3人の間に明治天皇暗殺の共同謀議があったとされたのです。

 

大逆罪は、犯行を企てたというだけで死刑であり、いきなり非公開の大審院が最終審で、一人も証人を許されない暗黒裁判です。これだけの大事件が、起訴からわずか20日間で26人の審理を終わり(19101229)、開けて1月18日に24名の死刑判決(翌日12名が明治天皇のお情けで無期懲役に減刑される)が下されます。

 

そして判決の1週間後には、はやくも幸徳ら11名が処刑されてしまいます(菅野だけ翌日)。この事件は、初めから幸徳を標的にし抹殺しようとした謀略であり、明らかに国内外の批判や抗議(米国をはじめロンドン、パリ等で大きな抗議運動が起こっていた)を既成事実によって封じようとするものでした。

 

  大逆事件によって恐怖した明治政府は、社会主義運動に対していかなる小さな芽もつぶしにかかろうとします。悪名高い特別高等警察(特高)が設けられたのもこの時です。大逆事件は新聞によってセンセーショナルに報道され、社会主義者は、国民から「社会主義者と鮮人などの不逞の輩」と、恐れられるようになり、社会主義や天皇制は、口にするのもタブーになりました。

 

ほとんど唯一、大逆事件を批判した徳富蘆花は、『謀叛論』で大逆事件を「謀殺・暗殺」と書いています。石川啄木は、遺稿の中で「この時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ」と憤りをぶつけています。また自然主義のエミール・ゾラに心酔していた永井荷風は、自分はドレフュス事件のゾラにはなれない、と言って江戸趣味に引っ込んでしまいます。

 

明治の思想界や文壇で、彼ら以外に大逆事件に言及したものは、ほとんどいません。それほど大逆事件の影響は大きかったのです。

 

 大逆事件のあと、社会主義運動や労働運動の「冬の時代」が始まりますが、幸運にも、「赤旗事件」によって獄中にあった堺利彦、大杉栄、荒畑寒村、山川均らは、大逆事件を免れることができました。かろうじて社会主義の灯を守ったのは、堺利彦の始めた「売文社」でした。

 

しかし、明治の終わりから大正にかけて、東京市電のストライキから少しずつ労働運動が復活し始めます。それに刺激を受けて社会主義運動もようやく動き出しました。大杉と荒畑は、弾圧をカモフラージュするために文芸雑誌と銘うって、「近代思想」を発刊します。

 

またこの時代は、憲政擁護運動(第1次)などのブルジョア自由主義運動(大正デモクラシー)が始まりますが、大正3年の第1次世界大戦の勃発とそれを契機とする日本資本主義の飛躍的な発展は、労働運動の急速な発展を引き起こしました。

 

そうした中で大杉と荒畑は「近代思想」を廃刊し、新たに月間『平民新聞』を発刊します。また堺利彦も、新たに「新社会」を創刊(1915)し、マルクス主義やボルシェヴィズムの紹介に力を入れていきます。

 

 こうした中で起こったのが大正6年(1917年)のロシア十月革命です。この時の興奮を、山川は、「ロシア革命の報道が来た時の感激は大変だった。道を歩いている労働者が相擁して泣いた。私自身もじっさい泣きました」と語っています。

 

一方、国内では富山から始まった米騒動は全国各地に波及していくとともに、第一次世界大戦の好景気の反動恐慌で失業者が激増し、労働運動は一挙に高まっていきます。月間『平民新聞』は、アナーキズムにのめり込んでいく大杉栄とマルクス主義を深めていく荒畑寒村との対立が次第に表面化していきます。

 

労働運動の中では、はじめ幸徳らの直接行動論の影響や大杉などの活発な働きかけによってアナーキズムの影響が強かったのですが、ロシア十月革命の影響や関東大震災で指導者の大杉栄が虐殺されたことによって、次第にボルシェヴィキ派が優勢になってきます(アナ・ボル論争)。

 

こうしたなか、コミンテルンの働きかけによって1922年(大正117月)に日本共産党が誕生するのですが、しかし党と言っても理論的にも組織的にも準備のない、数十人の非合法グループ(堺利彦を委員長、荒畑寒村、山川均も含む)にすぎず、翌年の主要メンバーの検挙で壊滅してしまいます。

 

 一方、当時左翼陣営の理論的指導者とみられていた山川均が、共産党結成と同じ月に「無産階級の方向転換」という論文を発表します。

 

ここで山川は、「無産階級の前衛である少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底して純化した。そこで無産階級の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、はるか後方に残されている大衆の中に、再びひき返してくることでなければならぬ。……『大衆の中へ』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならない。」さらに社会主義運動は、「大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動…を重視しなければならない。」と主張しました。

 

確かに、平民社後の労働運動は、直接行動論の影響で、急進的なサンディカリズム的傾向(これは大杉らのアナーキズムに引き継がれる)を強く残しており、克服されねばならなかったのですが、しかし山川の主張には、労働者の階級闘争を指導するマルクス主義の立場に立った前衛党を結成するという認識はありません。

 

「無産者階級の前衛たる少数者」といってもプロレタリアの前衛党ではなく、単に革命的な活動家グループでしかありません(その意味では、幸徳の「志士仁人」と大して変らない)。また「当面の生活を重視する運動」は、労働運動を、単なる生活改善、改良主義の運動に向かわせるものです。

 

山川の理論は、しっかりした綱領や規約を持った前衛党の意義や役割を否定し、日常の生活改善を目指す、労働者の自然発生的な闘いに追従したものでした。この方向転換論の延長線上に「共同戦線党」論も出てきますが、しかし山川の共同戦線党は、労働者や農民、都市の小ブルジョア等の反ブルジョア的な諸勢力を集める合法政党でしかなく、労働者階級の前衛党ではありません。

 

山川は、このような合法無産政党を、マルクス主義用語で粉飾し、革命的な意義があるかのように語ったにすぎません。無産政党各党は、離合集散を繰り返し、最後に社会大衆党として実現しましたが、この党は、日本帝国主義のお先棒を担ぎ、労働者大衆を戦争協力に駆り立てていったのです。

 

 コミンテルン(共産主義インターナショナル)の要請に従って、1926(大正15)年12月に共産党は再建されますが(堺、山川などは不参加)、このときの再建理論になったのが、福本イズムです。福本和夫の「分離・結合」論は、政治運動や労働組合運動、文化運動の中に、分裂主義やセクト主義を持ち込み、コミンテルンからは、極左偏向主義等と批判されますが、その後も共産党内で影響を持ち続けることになります。(K

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内10月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

10 23 日(水)18 時30分~20 30 / 県民センター703 号室

・第6篇「労働賃金」第 17 章~第 20

◆「資本論」第2巻学習会

10 9 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

・第3篇「社会的総資本の再生産と流通」第 18 章~第 19

◆マルクス主義学習会 ―― 幸徳秋水「社会主義神髄」続き

10 16 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

・今回は、「平民社」以後の社会主義運動について討論します。

労働者くらぶのブログ
『資本論』を読む会 横浜 (fc2.com)

 

新たに参加される際には事前に確認してください。急な変更などあります。

連絡先)Tel080-4406-1941(菊池)

労働者くらぶ Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

 

憲法に対する盲信――名古屋市長選での共産党

憲法に対する盲信

横井を担ぎ河村落選を目論んだ共産党の無節操な政治

 

名古屋市長選は全政党が相乗りで、「本籍地自民党、現在地ほぼ自民党の横井」を擁立するも河村に敗北!しかし市長選で横井に片思いし、報われぬ努力に散った共産党の政治から労働者はなにを学ばなければならないのでしょうか?

 

 中途半端な日和見主義の立場で、河村の愛国主義・国粋主義との闘いも放棄し、現在地ほぼ自民党=横井との闘いも取りやめ

 

 共産党は河村を落選させるために横井を支援する候補者として決定し、共産党支持者に横井への投票を呼びかけた。結果はこれまでの市長選がダブルスコアに近い票差がついていた事と比較すると「僅差」(大村知事)で横井は敗北し、河村が勝利した。

 

市長選の結果は、河村39万8656票(51・68%)横井35万0711票(45・47%)。河村の得票はこれまでと比較して過去最低であり、リコール問題や無責任なコロナ対策に対する反発が最低の得票率になったことは明らか。

 

ポピュリスト=河村が「市民連合」対「全政党」の対決に市長選の構図を単純化し、リコールの不正に対しては、自分も被害者、「全く知らなんだ」とリコール運動の相棒=高須に「頼まれて」お付き合いしただけと無責任な言い訳に終始し(高須は河村にはめられた、「高須マネー」にたかられないように「絶交」)、二人三脚で大村リコール運動の首謀者が逃げを打った。

 

 共産党は、河村落選を唯一の目的とし横井への支援を呼びかけ「『リコール不正で壊された民主主義を取り戻す』、『コロナ対策優先の市政を取り戻す』と訴える、よこい候補に共感が広がっています」(共産党愛知県委員会)と宣伝し、リコール運動と不正署名に対して、「表現の自由」に対する攻撃「民主主義を破壊する行為」と訴え、憲法で保証されている「民主主義的権利」を横井が守ると主張するから応援すると説明してきた。

 

しかし憲法擁護であれば、自衛官入隊時の服務宣誓にも「憲法の遵守」が謳われている。共産党が暴露すべきは、リコール運動に貫かれている政治的立場であり思想でなければならなかった。

 

我々はリコール派の立場が愛国主義・国粋主義的立場に貫かれたファシズム運動にほかならないと暴露した。ところが共産党は横井や大村の政治的立場と大差がない民主主義的立場に留まっているがゆえに、独自候補擁立が反河村票の分散・利敵行為につながると愚かに判断し、横井との闘いを放棄した。

 

 労働者党は名古屋市長選に参加しなかった。参加する組織的力量もカネも全てが不足していたからであるが、市長選に参加することで労働者の闘いを鼓舞し発展させることができたであろう。

 

労働者党の候補者は、河村のリコール運動は「愛国主義・国粋主義的立場に貫かれたファシズム運動にほかならない」と暴露し、コロナ禍に対する取り組みも科学的な知見と透明性に基づく政策を対置し、労働者党綱領に掲げる「★長時間労働、殺人労働、非人間的労働に象徴される搾取労働と、大量の非正規労働者の存在に代表される差別労働の即時、無条件の廃止と一掃。……★女性差別をはじめとする一切の差別の即時廃止。行政当局・・の女性差別への法的規制。女性の社会的生産活動への参加及びそれを保障する諸政策、諸措置の実行(例えば、女性の参加のために、工場・職場に密着して保育所を完備する等々)★憲法のブルジョア民主主義の歴史的な意義と限界の確認。自由主義派や共産党などのプチブル派による現行憲法の至上視や絶対視、観念インテリや、市民派、共産党らの“立憲主義”的妄想――憲法は『権力を縛るために存在する云々――の克服」という「基本的な立場」への支持を呼びかけ、「名古屋市長を愛国主義・国粋主義の旗手から国際主義・労働の解放の旗手に置き換えよう」と呼びかけただろう。

 

(愛知支部のビラより、一部修正)

尖閣諸島問題と共産党ーー資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

『海つばめ』1392号(2020.12.13 発行)において、尖閣問題での共産党志位委員長による中国非難について論じていますが、8年前安倍政権登場直前の情勢の中、『海つばめ』1185号(2012.10.28)(トップ記事は「安倍自民党はどこへ行く--国家主義の奔流を許すな--ナショナリズムに傾斜する政党」)において、尖閣問題での共産党の主張を検討し、その誤りを指摘しています。尖閣問題の理解を深める内容ですので紹介します。

 

 

尖閣諸島問題と共産党

「理法」や「話し合い」の問題か

資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

 

 日本と、“近隣の”ブルジョア国家、反動国家との対立が激化し、“紛争”と呼べるようなあれこれの事態さえ起こっている。各国との“紛争”の原因を単純に同じものとして論じることはできないが、しかしその根底は、ブルジョア国家、“国民国家”相互の“私利”やエゴイズムの衝突であり、それをめぐる抗争であるということは自明であろう。我々はここで、“領土問題”についての共産党の観念を検討するが、彼らは“世論”なるもの――もちろん、基本的にブルジョア的、自由主義的な――の注目を浴び、その中で“さかしらぶって”つまり、小利口に、そして大騒ぎして発言しているのである。我々は、こうした検討によって、“領土問題”の本質に接近し、ブルジョアや反動たちの民族主義的、国家主義的、排外主義的キャンペーンや策動や攻撃に対して、労働者がどんな原則的立場に立ち、いかに闘って行かなくてはならないかを明らかにしたいと考える。

 

◆志位の「理」や「理法」とは何か

 我々は差し当たり、“尖閣問題”で発言している、志位の見解を取り上げることにしよう(『赤旗』十月七日、外国特派員協会で行った「講演と質疑」)。志位は主張する。

「中国側が、明代の地図に尖閣諸島が記載されていたということをもって、固有の領土だと述べていることについても、これは成り立たないということを申し上げておきたいと思います。中国側が明代あるいは清代に、尖閣諸島の存在を知っていて、名前をつけていたということは事実です。しかし、これらは領有権の権原の最初の一歩であっても、十分とは決していえません。国家による領有権が確立したというためには、その地域を実効支配していたということが証明されなければなりません。中国側には、たくさんの記録がありますが、実効支配を証明する記録は一つも残されていません。

 以上のような歴史的事実にてらしても、私は日本が1895年に『無主の地』の『先占』という法理によって、尖閣諸島を領有したことが正当だったことについては、疑いのないことだと考えております」

 

 要するに、志位が言うことは、「法理」に基づいて、どこに所属するかもはっきりしていなかった尖閣諸島(つまり「無主の地」)を、日本が先に囲い込んだから、日本の領有は正当だという、ブルジョアたちが言いはやしていることと同じことだけである。そして“領土”の確定――つまりブルジョアたちの世界秩序の、いくらかでも“法的な”形を取った確定――は、十七、八世紀以降の国民国家、ブルジョア国家が登場して以来のことだから、共産党の言うことはごもっともさま、と言うしかないのだが、しかしそんなものは、ブルジョアの立場からの発言であって、単なる私的所有の「法理」であり、その延長線上のことにすぎない。

 

 ブルジョア国家、国民国家はそれぞれ“国境”なるものを明らかにしなくてはならず、それぞれ大急ぎで、近隣の無人の、ある場合には有人の島々や、海洋さえも囲い込んだし、囲い込まざるを得なかったが、それは国家間の紛争や、戦争さえもの一つの原因となったし、今もなっている。

 

 そして領土問題は、それ以降もブルジョアたちの世界秩序の、つまり彼らの利己的な立場や衝動につき動かされ、規定される彼らとその国家の関係、対立や争いや武力抗争さえも不可避的に伴う関係として現われたし、現われざるを得なかったのだが、それはまた資本の支配する社会が一般的にそうであるのと同様であった。

 

 そして日本もまた十九世紀半ば過ぎに“国民”国家として登場したということは、日本の国家の地理的限界をも画したということ、北海道は言うまでもなく、琉球王国等々もその中に囲い込んだということでもあった。もちろん日本はさらに帝国主義の時代に移っていくとともに、その「領土」を朝鮮や中国やアジア諸国にまで拡張しよう(植民地として獲得しよう)としたが、そうした歴史的試みは、二十世紀半ば、アジアの多くの人民もまたヨーロッパの、日本の後を追って国民国家として登場しようとした中で、そして日本の帝国主義が粉砕されることによって挫折し、「見果てぬ夢」に終わったのであった。

 

 実際、尖閣諸島の日本による「領有」は日本の国民国家としての登場によって確かなものになったというより、すでに日本の帝国主義国家としての登場によって規定されているとさえ言えるのであって、その限り、その「領有」の疑わしさ――ブルジョア的「法理」の観点からしても――は、例えば、韓国による竹島の「領有」や千島列島のロシアによる領有と似たようなものであろう。尖閣諸島の領有が一八六、七〇年代でなく、ようやく一八九五年になってからであることが、このことを示唆している。

 

 実際志位は、尖閣諸島の囲い込みは一八九五年の日清戦争や、その後に発展する日本の帝国主義的膨張主義とは無関係だと盛んに――日本のブルジョア帝国主義の肩を持って――わめくのだが、そんな主張は詭弁、強弁のたぐいとしてしか行い得ないのは、反動派や国家主義派の主張がそうであるのと同様である。

 

 たかが百年余の尖閣諸島の「領有」を持ち出しながら、尖閣諸島が「固有の領土」だと叫ぶのは、全く笑止千万のことであろう。一八九五年という年に日本が尖閣諸島を「領有」したのだという主張自体が、尖閣諸島「固有領土」論のナンセンス、皮相さを、その占有が単に日本が中国に先んじて国民国家として――さらには帝国主義国家として――登場した結果にすぎないということを、そしていやしくも社会主義者、共産主義者を自称する志位らがそんな見解を持って回ることが恥ずべきことであることを明らかにしている。

 

 共産党が一八九五年からの領有を言えるのは、ブルジョア的、帝国主義的な“世界秩序”として、その枠内での“法的”な根拠に基づいてのことであって、それ以上ではないのである。

 

 にもかかわらず、他方では、共産党はまさに“歴史的に”、「固有の領土論」を擁護し、正当化しようと悪戦苦闘を重ねて、ありとあらゆる“歴史的な事実”を持ち出している。

 

 しかし共産党が「固有の領土」などと主張しながら、“歴史的に”その「固有の領土」を“論証”しようとすること自体矛盾しており、ナンセンスであろうし、また実際にも、そんなつまらない試みは結局失敗している(中国も台湾も――あるいは「琉球王国」さえも――、一時的であれ、あるいはあいまいな形ではあれ、さらには解釈次第でさえあるような、尖閣諸島の“領有”や占有や実際的な帰属等々を、“歴史的な”領有等々を“証明”できるだろうし、またしているからである。例えば、十四世紀頃には、中国は尖閣諸島付近まで軍事的影響力を及ぼしていた事実がある、等々)。

 

 尖閣諸島が日中の国家間の「係争地」だと強調することと、尖閣諸島が「日本(国家)の固有の領土」であると主張することがまるで矛盾もしないと思い込んでいる共産党は、実際に、中国に対して“強硬”な立場を取り、断固対決せよ――石原がわめくように、軍事対決も辞さず――、と言うも同然である、というのは、中国との「係争」はただ中国の不法にこそ原因があるということでしかないからである。共産党は実際には、不法な中国と闘い――必要なら、そして相手があくまで尖閣諸島の領有を主張し、軍事力にさえ訴えて来るなら、軍事的闘い――をこそ扇動しているのであり、ブルジョア支配階級だけでなく、日本の反動勢力、国家主義、軍国主義勢力の正真正銘の後援者、“心強い”応援者として登場しているのである。

 

◆共産党の「事実」とインチキ「実証主義」

 志位の「法理による」――つまりブルジョア的立場や帝国主義的立場による――尖閣諸島の領有等々の主張のうさんくささは、一つの事実によって浮き彫りになっている。つまり、日本政府は、一八九五年に一日本人から出された、尖閣諸島を日本の「領土」として明瞭に囲い込むことを求める申請を事実上拒否し、領土化にためらいを示したという歴史的な事実――志位にとって極めて具合の悪い事実――が明らかにされ、それは日本政府が尖閣諸島を日本の領土として明確に意識していなかったことを教えるのではないとかいうことで問題になった。

 

 共産党は、尖閣諸島の日本領有が正当であることを明らかにするためには、当時の「歴史的な実証研究」が必要であるとのたまい、彼らの見解は、そうした立派な「実証研究」の結果でもあると、もったいぶって主張している。それで我々もまた、共産党の「実証研究」なるものに付き合わざるをえないのだが、その結果は、ただ共産党の言う「実証研究」なるもののお粗末さ、愚昧さを知る結果にしかならないのである。

 

 共産党の「実証研究」なるものの結論は、一八九五年の日本の尖閣諸島領有(囲い込み)は、その前年の夏に始まった、日清戦争とは何の関係もなく、したがってこの戦争で日本が勝って台湾や澎湖(ほうこ)列島を中国(清国)から奪ったものには入らない、といったことである。つまり戦争に勝って奪ったものでなく、正当なやり方で手に入れた、戦争とは何ら関係ないことだと強調するのである。卑しい心根と詭弁的議論は一見して明らかであろう。

 

 そもそも日本が尖閣諸島を囲い込んだ時期――一八九五年一月――は、日本が実際上、戦闘行為で清国を圧倒し、勝利した時期であって、尖閣諸島の囲い込みは、こうした軍事的勝利と不可分であることは一目瞭然である。そしてもし、日本の勝利が、日本の帝国主義的膨張と不可分であり、その出発点になった――このことは、戦争の勝利品として、巨額の賠償金や台湾などを要求し、清国から横奪したことや、朝鮮の支配権に手をかけたことからも明らかだが――というなら、尖閣諸島の領有もまた、日清戦争や帝国主義的膨張と深く関係したものであることもまた自ずから明らかになるのである。

 

 この問題に関して、志位の弁明は次のようなものである。

「当時の日本政府がこうした対応を取ったのは、日本側が、尖閣諸島を中国の領土だと認識していたからではありません。当時の日本外交文書の記録を見ても、そういう認識が書いてあるわけではありません。当時の清国は、日本から見れば、巨大な帝国でした。そういうもとで、尖閣諸島の領有を宣言すれば、清国を刺激しかねず、得策ではないという外交上の配慮から、この時点では見送られたというのが事実だと考えます」

 

 志位の言うことは、最初からごまかしとして現われる。というのは、日本政府が、日本の領土だと明確に「意識していた」かどうかが問われているときに、中国のことを持ち出すからである。中国が認めていなかったからといって、日本が認めていたことには決してならない。日本もまた認めていなかったかもしれないのである。

 

 志位は自分が「考える」ことが、どんな証拠もあげることなく、そのまま事実であるかの議論をしているが途方もないことであろう。むしろ志位が「考える」ことが事実ではない場合はいくらでもあるのだ。

 

 というのは、日本との戦争でほぼ負けてしまい、張り子の虎であることが暴露されてしまった「巨大帝国」の中国(清国)に、日本がいまさら「刺激しないように」と配慮する必要は何もなかったからである。中国との戦争を決意する前なら、「中国を刺激する」ことを気にしたかもしれないが、しかし断固対決し、実質的に勝利した段階で、つまり「巨大帝国」に見えた中国が実際には、内的に腐敗し、解体している、空っぽで無力な国家でしかないことが暴露されてしまったこの時に、一体どんな配慮が必要だったというのか。

 

 日清戦争の始まる前にでも、日本が尖閣諸島を強引に囲い込んだとするなら、志位のような理屈も成立するかもしれないが、日本が清国をほとんど打ち負かした九五年一月の段階で、「巨大帝国」の清国を恐れて領有化をためらったなどということがあるはずもないのである。単純に、尖閣諸島を領土として囲い込むことに瞬間、疑念があったということ、つまり尖閣諸島が日本の「固有の領土」であると――だから急いで囲い込んでいいと――単純に信じてはいなかったことの方が、むしろ明らかになるのである。

 

 その証拠に、日本はその後、たちまち尖閣諸島の領有を宣言しているのであって、まさに尖閣諸島の囲い込みは、清国との戦争の戦利品、ぶんどり品の一つくらいに考えていたことを教えている。

 

 日本は日清戦争の勝利が明らかになり、確かなものになるとともに、国家として腐敗し、敗北し、半ば解体していた「大国」清国をよそ目に、あたふたと尖閣諸島を囲い込んだのだが、それは第二次世界大戦後、敗戦で瓦解し、事実上「普通の」国家として存在していなかった日本に対して、ソ連が千島列島を、李承晩が竹島を、火事場泥棒さながらに大急ぎで囲い込んだことと同じようなものであって、したがって千島や竹島についてソ連や韓国に「不当だ」と文句を言うなら、中国が日本に尖閣諸島で文句を言うのもまた当然でさえあることを、日本政府や反動派は承認しなくてはならないだろう。そうでなければ、日本政府の主張は決して首尾一貫することはできないのである(世界の労働者はブルジョアたちと違って、その双方を、つまりいかなる国家の国家主義、帝国主義も断固として否定するのだが)。

 

 そしてもし明確に、日本の領土だと意識していたとしたら、どうして領土化の宣言を日和る必要や必然性があったのか。領土であるという明確な意識がなかったからこそ、一瞬日和ったのだが、中国との戦争の勝利があきらかになる中で、たちまち尖閣諸島の領土化を日和る必要をなくして行ったのであり、事実すぐに領土化に走ったのである。

 

 ここでは、一八九五年の段階になっても、つまり中国はともかく日本が国民国家として公然と姿を現わしてから三十年も経過しているのに、中国と同様、日本もまた尖閣諸島を「固有の領土」として明瞭に自覚していなかったという「事実」が浮かび上がって来るだけである。

 

 外交文書に「中国の領土だから、領土化宣言をしない」などといちいち書くはずもないのだが、志位は、こんなへりくつを持ち出しながら、自分たちの推測――つまり、「外交上の配慮」から領有宣言をためらったという憶見――の方は、疑いのない真実であるかに言いはやすのである。自分たちの見解もまた、「外交文書に書いてない」という点では同様である、という反省もないのである。

 

 共産党は盛んに、日清戦争と尖閣諸島の領有は別問題だ、無関係だと言いはやし、こうしたつまらない見解――帝国主義を美化するような俗見――に固執し、こだわっているが、しかし「無関係だ」などとあえて言うのは、一体何のためか、なぜそんな立場が必要なのか。むしろ帝国主義――それがどこの国のものであろうとも、つまり日本のものであろうとも――を暴露するためにも、その反対を明らかにし、強調すべきではないのか。いつから共産党は帝国主義を擁護し、正当化するために粉骨砕身するようになったのか。

 

 さらに共産党は、そんな“状況証拠”だけでは不十分だとばかり、また別の「実証研究」の結果なるものも持ち出している。それは九五年四月に締結された下関条約では、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないという“事実”であり、さらにその後、六月に行われた「台湾受け渡しに関する公文」が日清の間で交換された時の確認でも、尖閣諸島は何ら問題にされず、ただ「台湾の付属島嶼」が問題になっただけだが、その時も、日本に割譲されるのは尖閣諸島を含まない、「福建省付近の島まで」だとされている事実を持ち出している。

 

 しかし共産党の持ち出す「実証研究」の結果なるものは、かえって尖閣諸島への日本の領有が、日清戦争と密接不可分な、その戦争の勝利によって、台湾と同様に中国から奪い取ったものであることを「論証」していないのか。

 

 例えば、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないということは何ら驚くべきことではない。単純に、尖閣諸島が台湾の付属島嶼であるとみなされていたからであると言う解釈もいくらでも成り立つのである。

 

 また六月の「台湾受け渡しに関する公文」の時に問題になったのは、尖閣諸島ではなく、「福建省付近の島まで」だと言うのだから、これは台湾から見て尖閣諸島の反対側、つまり中国大陸に近い金門島――今では、中国にではなく台湾に帰属している、歴史的に色々な意味で有名な――等々であるのは自明であろう。それを故意に尖閣諸島だと「解釈」する共産党の「実証検討」など、まるで一面的、ご都合主義的で、いんちきそのものと言われてもどんな弁解もできないだろう。

 

◆「国際的アッピール」と「話し合いによる解決」

 志位は尖閣諸島問題で政府のやっていることは「重大な問題がある」として、次のように主張する。

「それは、『領土問題は存在しない』という立場を棒を飲んだように繰り返すだけで、中国との外交交渉によって、尖閣諸島の領有の正当性を理を尽くして主張する努力を避け続け、一回も行っていないというところにあります」

 

 ただこうした最初の発言を取り上げてみるだけで、志位の立場の根拠のなさ、くだらなさ、そして詭弁のたぐいが、つまり志位の見解のプチブル的愚劣さがたちまち明らかになって来る。

 

 「領土問題は存在しない」と主張することと、尖閣諸島領有の正当性を主張することが矛盾したり、対立したりするなどと考えること自体がナンセンスであって、「領土問題は存在しない」と主張することこそ、ある意味で、最高、最強の「尖閣諸島領有の正当性を主張すること」であり得るだろう、というのは、「領土問題は存在しない」と主張することは、尖閣諸島が淡路島や佐渡島等々と同様に、日本の「固有の領土」であることは余りに明白だから、そんな問題は議論したり、正否を検討したりする必要も余地もないと言うことと、実際上同じだからである。「領土問題は存在しない」と言うこと自体、ブルジョアの立場からするなら、最強の「理」をもった説明でもあり得る、つまりこれは尖閣諸島は問答無用で日本国の一部だ、いまさら議論する必要もない、と言うことだからである。共産党員でさえ、誰が北海道や沖縄が日本の一部であると、いまさら「理」をもって説明する必要があると思うだろうか。ブルジョアたちは尖閣諸島は事実上、例えば北海道と同じであると主張するのだが、このブルジョアの立場のどこが、共産党の気に入らないのであろうか。まさに共産党の見解であり、立場そのものではないのか。

 

 志位は、自分の立場の根底を、九月に提起した「提言」の次のような文章を引いて総括している。

「尖閣諸島の問題を解決するためには、『領土問題は存在しない』という立場をあらため、領土に関わる紛争問題が存在することを正面から認め、冷静で理性的な外交交渉によって、日本の領有の正当性を堂々と主張し、解決をはかるという立場に立つべきである」

 

 志位は現実として中国との間で「領土問題をめぐる紛争」があるのだから、「領土問題は存在しない」と言えないと主張するのだが、しかしただ問題をすり替えているにすぎない。中国は「領土問題がある」――つまり尖閣諸島は中国の領土だ――と主張し、日本は日本の領土だと主張しているとするなら、そこに「紛争問題」があることは確かだが、日本の立場から言えば、それは中国が勝手にふっかけてきた、横暴な横槍、不当で不正なもの、理不尽なものであって、「紛争」など事実上ないのである。

 

 実際、志位といった連中ほどの愚昧な連中はいない。彼らは口を開くと、尖閣諸島問題では「領土問題は存在する、それを『存在しない』というから世界にアッピールできない、正々堂々と領土問題は存在すると認めた上で、世界にアッピールせよ」と叫ぶのだが、しかし領土問題が存在すると認めること自体、尖閣諸島が『日本の固有の領土』という共産党の――そして日本の支配階級の――理屈を根底から掘り崩し、否定するものであることが分かっていないのである。

 

 「世界にアッピールすればうまく行く」といった志位のたわ言は、それが実践に移されるや否や、たちまちいたるところで破産を明らかにしている。

 

 例えば、共産党の“忠告”を受け入れたのかどうかは知らないが、玄葉外相はヨーロッパの英仏独などを訪問、尖閣諸島問題で日本の立場の正当性を訴え、EU諸国に味方に付くように要請したが、まるで木で鼻をくくるような挨拶を受けただけであり、共産党の戦略はたちまちその破綻をさらけだしたのであった。

 

 ヨーロッパ諸国が日本の味方に付くのを避けたのは、中国との経済的関係もあり、中国とのいくらかでも“良好な”関係を望んでいて、この問題で日本に味方するメリットを見出すことができなかったからだが、他方では、中国の“帝国主義的”やり方をよからずと思いつつも、日本もまた、一九四五年までの露骨な帝国主義政策を、中国に対する(今中国のやっているのと同様な)悪行狼藉の数々を全く反省していないと見ているからである、つまり喧嘩両成敗の装いに隠れたからである。かくして玄葉の試みはむだ骨折りに終わったのだが、それはまた共産党の政治的立場がどんなに愚劣で、観念的なものでしかないかを暴露したのである。

 

 ブルジョア国家相互の、帝国主義国家相互の「領土問題」が容易に国際的世論といったあいまいなものや、国際的組織(戦前の国際連盟、戦後の国際連合等々)の意思や、当事国相互の「話し合い」で解決するなら、そもそも最初からそんな問題は存在しないという、ごく初歩的なことさえプチブルたちには理解できないのである。

 

 共産党は、「尖閣諸島は日本の固有の領土」であるが、実際に尖閣諸島の帰属をめぐる争いが存在するではないか、そしてそれが現実として存在する以上、存在することを認めてお互いに話し合いのテーブルにつき、「道理を尽くして」話し合えば、相互に納得して解決できると言いたいのである。問題はかくして、共産党のプチブル的俗物たちが、この階級社会のすべての問題が話し合いや相互理解によって解決するといった、安直な幻想や願望に酔っているということに帰着するのである。

 

 実際、階級国家、帝国主義的諸国家の利害の対立や紛争が、すべて話し合いや「道理」に基づいて“解決する”――それがどんなものかは問わないとして――などと考えることは、労働者にとって途方もないことに思われるが――というのは、労働者は搾取されている自分の社会的な地位が、搾取されている状態が、ブルジョアたちとの、「同じテーブルについての」話し合いによって解決するなどと決して思わないし、思うことができないことを、日々の日常的な経験によって、よく知っているから――、気楽なプチブルたちは違うのである。

 

 しかし自覚した労働者は、尖閣諸島をめぐる日中の争いは、ブルジョア支配階級の利害の争いであり、国家の争いであって、労働者人民に何のかかわりもないことを確認し、日中の支配階級の争い、国家間の争いに対して、世界の労働者階級の国際主義と連帯した闘いを対置することによってそれに断固として反撃するし、しなくてはならない。

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