労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

国家資本主義

【書評】人新世の「資本論」(斎藤幸平著 集英社新書)

【書評】人新世の「資本論」斎藤幸平著 集英社新書)

 ーー温暖化の危機に「脱成長コミュニズム」を対置するが?

 

 菅が所信表明演説中ではほとんど唯一ともいえる“将来ビジョン”として2050年までのカーボンニュートラルを打ち出す中、斎藤幸平の表題の本が話題を呼んでいる。新MEGA等で明らかになった草稿やノートをもとに(特に「資本論」以後の晩期の)マルクスを新解釈し、「脱成長コミュニズム」といった“新しい”マルクス像を提示しているからである。

 西欧諸国等ではこぞって「グリーン・ニューディール」に舵を切る中で、菅の打ち出すカーボンニュートラルは「原子力も安全優先で進める」といった電力資本に配慮した陳腐なものである。それに対して斎藤は、「グリーン・ニューディール」でさえ気候変動を止めることはできない、資本主義がそもそも環境破壊的なのだから資本を廃絶した「脱成長コミュニズム」以外に解決の道はないと極めてラディカルな主張をし、19世紀の“遺物”としてか旧ソ連等によって“手垢にまみれた”マルクス思想の真の姿を提示していると言うのである。

 

◆グリーン・ニューディールではなぜ気候変動を止められないか

 

 まず「人新世」(ひとしんせい)という耳慣れない言葉であるが、これはノーベル化学賞を受賞したオランダのパウエル・クルッツェンが人類が地球に与えた影響があまりに大きいために地質学的に見て新たな年代に突入したとして命名したものである。

 斎藤はさまざまな観点から上記の「グリーン・ニューディール」(気候ケインズ主義)等について論じているが、一つの中心的な観念はイギリスの政治経済学者ケイト・ラワーズの「ドーナツ経済論」である。これは経済発展水準を、地球の環境的上限(プラネタリー・バウンダリー)と衣食住や健康・教育などの最低限の社会的閾値の間に納めなければならないという構想である。しかし、実際には現在の先進国経済は前者の環境的上限をはるかに超える水準にあり、他方、途上国では多くが後者の下限を下回っている。これでは持続可能性もなければグローバルに考えた社会的公平性も確保されないと言うのだ。

 斎藤のもう一つの論拠は、先進国は労働の搾取(収奪)においても環境負荷においてもその矛盾の多くを周辺であるグローバル・サウスに転化し「外部化」してきたということである。先進国の「帝国的生活様式」は、実際にはグローバル・サウスの犠牲の上に成り立っているのだ。だから、例えば「グリーン・ニューディール」等で一見カーボン・ニュートラルが実現したように見えたとしても、「カーボンフットプリント」(原料の生産や廃棄物の行方なども考慮に入れた、CO2の足跡)を見れば、先進国について見ても決して本当のニュートラルではないということである。また、再生可能エネルギーの比率が高まったとしても、その多くは新たな経済成長のためのエネルギーとして使われ、従来の化石燃料の使用量は減少していないとも言う。

 

◆マルクスの新解釈?

 

 斎藤は、マルクスは1867年の『資本論』(第一巻)の出版後にその思想を大きく変えたと言っている。彼によれば、従来のマルクス解釈ではマルクスは「生産力至上主義」であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」をもっていた、マルクスは資本論の中でも、人間の労働は自然と人間との「物質代謝」を媒介することによって人類の生存を可能としている、しかし、資本主義は利潤優先でその場かぎりの「略奪的」生産を行うことによって「物質代謝を撹乱」し「修復不可能な亀裂」を生み出すとも言っている。しかし、晩年のマルクスはロシアのミールやドイツのマルク共同体の研究を通じて、あるいはメソポタミアやエジプト、インドの古代文明滅亡の研究(当時のドイツの農学者フラーツはこうした古代文明が森林の過伐採によって滅亡したと論じていた)を通じて、脱成長的(持続可能な定常型経済)で複線的な歴史観に大きく変化したと言うのだ。

彼は、その証拠としてロシアのナロードニキであった「ザスーリッチへの手紙」や「ゴータ綱領批判」の記述、さらには上掲フラーツの「研究ノート」等々を上げている。しかし、そもそもマルクスが「生産力至上主義」的であり「ヨーロッパ中心主義的で単線的な進歩史観」を持っていた等々の解釈は、旧ソ連のスターリン派の解釈(その意味で世界の“正統”マルクス主義の解釈)でしかないのではないか。マルクスが晩年その関心をより広げ深めていったのは事実であるとしても、上記文献等についての斎藤の解釈はいかにも牽強付会の観を否めない。

 

◆「コモン」という観念

 

 斎藤の「脱成長コミュニズム」で中心的な観念を占めているのは「コモン」という観念である。「コモン」とは「社会的に人々によって共有され、管理されるべき富」であり、アントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『帝国』で提起した概念であるという。彼は、この観念を用いて「収奪者が収奪される」という『資本論』の有名な個所(第1巻第23章の末尾)を解釈し直しているのであるが、要は「土地と生産手段の共有」のことなのである。これを「コモン」と言い換えたところで、所詮は物事を曖昧化し、我々がなすべきことをぼかす効果しかないと言うべきであろう。『帝国』は世の識者が好んで言及する本であり、先にあげた「帝国的生活様式」とか「周辺と中核」、「外部化」等々もそうであるが欧米の学者や識者が使う言葉をありがたがって無批判に使うのは日本の学者の悪い癖である(あるいは、世界の学者や識者のそれ自身疎外された狭い世界のネットワークではそんなことでしか独自性を誇示できないということか)。

 

◆本源的蓄積とは「コモンの解体と希少性の増大」?

 

  斎藤はマルクスのいう本源的蓄積を解釈して、「本当は、この囲い込みの過程を『潤沢さと『希少性という視点からとらえ返したのが、マルクスの『本源的蓄積論なのである。」(p.237)「コモンズから私的所有になって変わるのは、希少性なのだ。希少性の増大が、商品としての『価値を増やすのである。」(p.251)などと言っている。土地や水、等々の場合は確かにそうだ。しかし、それは(本来は価値をもたないものの)擬制的価値(地代、等)であって、(彼がそれを理解していないわけではないとは思うが)本来的な価値の増大は労働の搾取によっているのだ。また、「私的所有になる」のはマルクスの言う土地(大地)だけではなく、既に人間によって作り出された生産手段(とりわけ労働手段)でもあり、しかもそれらは単なる私的所有ではなく資本の所有であり資本そのものとなるのだ。だから、それは単なる希少性ではない。彼が「価値」というものを本当に理解しているのか大いに疑問を持たざるを得ないのであるが、同時に、彼の言うコミュニズムにおいてはそもそも「価値」とか商品交換等々はなくなるのか、なくならないのか、彼の本を読む限りでははなはだ心もとないのである。

 

◆アソシエーションや生産手段の「自律的・水平的管理」の強調

 

  彼もまた多くの識者と同様にアソシエーション論を強調し、生産手段の「自律的・水平的管理」の強調している。しかし、それはよく考えてみると、彼の旧ソ連等の“社会主義”への否定的評価からきているのだということがわかる。

彼は次のように言っている。「従来のマルクス主義が成長の論理にとらわれ続けてきた…実際、ソ連の場合は、官僚が国営企業を管理しようとして、結果的には、『国家資本主義と呼ぶべき代物になってしまった。」(p.351-52)ここで彼はある種の「国家資本主義」といったものを持ち出しているが、その経済的内容を理解しているかどうかは不分明だ。しかし、「官僚が国営企業を管理」することによって権力主義的・独裁的になり「参加型民主主義」が実現していないことを言っているのである。そうした「垂直的」管理ではなく「自律的・水平的管理」が必要だと言いたいのである。

しかし、細部の管理は地方や個々の生産体に任されるとしても国民経済的規模での共同管理(計画化、等)の側面は少なからず必要である。また、「労働に応じて分配」するためには個々の製品がどれだけの労働によって作られているのかを算出しなければならず、そのためには全国規模の集計と計算も必要となる。だから、もちろん「参加型民主主義」が最大限保障されるような仕組みは考えられなければならないとしても、分散した協同組合のようなものだけでコミュニズムが成立することはあり得ないのである。

(長野、YS

“共産主義社会”をめぐって議論沸騰

長野県安曇野で行われている『資本論』読書会の報告を紹介します。

 

“共産主義社会”をめぐって議論沸騰

――4カ月ぶりの『資本論』読書会(安曇野)

 

625()午後、『資本論』読書会を4カ月ぶりに開催した。参加者は常連ばかり数人で、第122章「剰余価値の資本への転化」1-3節を検討。全員マスクをつけ、感染防止対策として一つのテーブルに1人が座るスタイルでの初めての読書会だったが、活発な議論が交わされた。

 

報告の要点

 

22章の1-3節は、非常に内容豊富で、示唆するところが多い。最初に「資本の蓄積」概念が規定され、「商品生産およびに基づく取得の法則または私的所有の法則が・・・不可避的な弁証法によって、その直接の対立物[=資本主義的取得方式]に転化する」ことが、言い換えれば、「商品生産はそれ自身の内的諸法則に従って[労働力をも商品化することを通じて・・引用者]必然的に資本主義的生産に成長していく」ことが明らかにされている。

 

レポーター(私)は、ここで社会主義は商品生産=市場経済と矛盾しない、社会主義は商品生産の良い面を活かしていくといった共産党の主張がマルクスの見解に真っ向から反すること、それは資本主義は悪いが商品生産は良いと言い張ったプルードンやリカード派社会主義者の主張と変わらないことを指摘した。

 

第2節では、「収入のうち資本に転化される部分は生産的労働者によって消費される」というスミスのドグマが批判される。

 

「節欲説」批判の3節では重要な指摘がある――「価値増殖の狂信者として、彼[=資本家]は容赦なく人類を強制して、生産のために生産させ、それゆえ社会的生産諸能力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会的形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる」。

 

最後に、マルクスは、資本主義的矛盾の発展につれて経済学は古典派経済学から俗流経済学に転じていったことを明らかにし、俗流派の代表格としてマルサスをやり玉に挙げている――マルサスは「ある分業を擁護した」、つまり「実際に生産にたずさわる資本家には蓄積の仕事を割り当て、剰余価値の分配にあずかるその他の人々――土地貴族、国や教会からの受禄者など――には浪費の仕事を割り当てる」、「『支出への情熱と蓄積への情熱を分離させておく』ことがもっとも重要である、と言っている」。レポーターは、不生産的階級による浪費が資本主義の維持に重要だというマルサスこそは、ケインズ主義の“原点”であることを指摘した。

 

議論の焦点

 

以上の報告の後、討論に入ったが、議論が集中したのは、3節の「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」という共産主義社会の規定についてであった。

 

主な意見を列挙しよう――①共産主義社会では、仕事の種類は資本主義より減るのか、増えるのか、②搾取はなくなり、経済の舵取りは国民が担う、失業はなくなるし、仕事の仕方も内容も違ってくるだろう、③そもそも賃金関係(資本賃労働関係)がなくなる、④農家の仕事では子どもも年寄りも役割があり、無駄な人はいない、一つの共同体になっている。それに近いのではないか、⑤資本主義では無駄な仕事が多い(カジノ等)、そういうものはなくなるだろう、⑥会社勤めの頃、まだ使える商品でも、売れ残りはつぶしていた、無駄な仕事だった、⑦犯罪はすぐにはなくならないかもしれないが、人間も発展していくとみるべきだ、⑧何よりも戦争がなくなることが良い、⑨計画経済では製品の種類や生産量を中央が決めるが、スーパーコンピューターでも無理ではないか、官僚主義が強まる可能性はないか、等々。

 

共産主義社会の一規定をめぐって議論が沸騰したのは何故だろうか。私は次のように考えている。

 

かつてのコレラやペストなどのパンデミックを引き起こした感染症に比べれば、新型コロナウィルスは、せいぜい“幕下クラス”だというのに、「高度文明社会」=資本主義社会は、たちまち混乱に陥り、隠されてきた深い闇をさらけ出した。多くの非正規労働者が失業し、会社の寮を追い出されて住処を失い、東京都内だけで4000人と言われるネットカフェ“難民”は路頭に迷い、風俗産業で働くシングルマザーは子どもとともにその日の食事にも事欠くことになった等々。

 

「美しい国・日本」の苦い真実を思い知って、この社会を根底から見直そうという気運が高まっているように感じる。現に多くの知識人がコロナ禍以後の進むべき道に語っている(もっとも、その思考は大体が観念的空想的で、中途半端だと言わざるを得ないのだが)。読書会の皆さんも資本主義の行き詰まり、その脆弱性を痛感し、これまで『資本論』の所々で言及されてきた共産主義社会を、今までより身近に感じたのではないだろうか。それが議論沸騰の背景にあったような気がするのだ。

 

議論の集約

 

議論を逐一紹介すると長くなるので、議論の中で確認されたことをまとめてみよう――

 

①共産主義社会とは「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会手的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』第1篇第14)であり、資本賃労働関係が――したがってまた搾取や差別、抑圧が――入り込む余地はない、

 

②病人や高齢者、幼児など働けない人々を除く社会のすべての成員が労働を担うので、また資本主義ならではの“無駄な”仕事がなくなるので、労働時間は大幅に短縮される(例えば、6時間、あるいは4時間労働制になる)、トマス・モア(1478-1535)は早くも16世紀の初めに、働けるすべての人々が働き、無駄な仕事をなくせば、6時間労働でも十分足りると論じた、

 

③生産物は労働時間に応じて分配され、生産力が発展するにしたがって「労働に応じた分配」から「必要に応じた分配」に移行する、

 

④労働は苦痛ではなく、楽しみ、喜びとなり、また特定の労働に生涯縛り付けられるのではなく、様々な労働を交互に担い、労働を通じて人間の能力を発展させ、「全面的に発達した人間」になっていく、

 

⑤余暇は芸術文化や科学・研究、体育など様々な活動にいそしむことができる(若きマルクス・エンゲルスの著作『ドイツイデオロギー』によれば、「私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩りをし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになる」)、

 

⑥国家は「階級対立の非和解姓の産物」(エンゲルス)であり、階級対立がなくなれば、国家は「死滅する」、

 

⑦「物の管理と生産過程の支配」を担う機関は残るが、管理業務は特定の人の職業として行われ、特権や利権が絡むようなことはない。なぜなら、誰もが高度の教育を受け能力を身につけるにしたがって、特定の人ではなく、多くの人が交互に管理の任務を担うことになり、官僚主義の発生する余地はない、

 

⑧スーパーコンピューターやAI、インターネットの発達により、経済の管理も容易になる等々。

 

国家資本主義論の意義

 

議論を整理しながら、私は最後に、ここにあげた簡潔な共産主義社会についての規定からだけでも、かつてのソ連や現代の中国が共産主義などでは決してなかったことが明らかになることを指摘した。国有企業が労働者を雇用し、低賃金で酷使してきたのであり、商品生産・流通は継続し、国有企業の幹部や政府官僚(共産党官僚)は癒着し、富を独占し特権をむさぼっていた、その体制は特殊な資本主義、国家資本主義と規定すべきだと論じた。ソ連や中国を誰もが社会主義国と信じていた60年代半ばに、少数の研究者・活動家たちは、ソ連・中国の体制を徹底的に研究し、国家資本主義概念を確立したが、私も当時この研究の一翼を担った。ソ連・中国=国家資本主義論は、世界の認識を根本から変えるものであり、ノーベル賞ものの“発見”だと思うのだが、未だに誰も推薦してくれないとジョークを言ったが、誰も笑ってくれなかった(別に望んでいるわけではないので、どうでもよいのだが)

以上(文責・鈴木)

 

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