大沢真幸の気楽な「国家を超えた連帯」論に物申す


 コロナ危機、コロナパンデミックで明らかになったことがある。資本主義の矛盾が誰にも「見える化」したことである。最大の矛盾は、人が企業に雇われなければ、食っていけない、生きていけないということだ。派遣切りに合った労働者は、「俺たちに死ねということか!」と悲痛な声を上げている。首切りに合った労働者は、生活費はもちろんのこと住む家さえ失うのだ。

 

 ところで、なぜ労働者は、企業に、資本家に雇われなければ生きていけないのか?人間が犬コロのように、食べるものも住むところもなく追い出される!こんなことが、余剰食物を捨てている豊かな、この文明社会にあっていいことなのか?

 

当たり前のことだが、財産を持っていない労働者は、自分の労働力を資本家に売って、見返りに賃金を得ることによってしか生きる術を持たない。これは資本主義である限り、労働者の否定しようのない現実だ。最初から労働者は弱い立場であり、それは我われの言葉にも出ている、いわく「雇って頂く」「給料をもらう」等々。商品の売買については、売り手も買い手も対等であるのが、商品交換の、商業の原則であるはずなのだが、こと労働力という商品に限ってはそうではない。労働者は生きていくためには、日々労働せねばならず、労働するためには資本家に雇われなければならない。この事実こそ、資本主義社会(その名の通り)がまさに資本(家)の社会、企業本位の社会であることを証明している。

 

 安倍は国民生活を守るために、失業を増やさない、雇用を保障するなどと気楽に国民に約束する。しかし資本主義社会では、労働者を雇う、雇わないは、資本家の、企業の自由である。政府が資本家に労働者を雇うことを命令したら、“社会主義”になってしまう?それは資本主義の否定ではないのか?

 

 当たり前だが、労働者は企業に雇われて初めて生活できる、企業に雇われなければ生きていけないという現実、この事実をトクと考えてみなければならない。これは誰にとって正しいことなのか、また企業が労働者に生殺与奪の権を握っているが、なぜそんなことが正しいのか、また許されるのか、誰がそれを決めたのか?

 

 企業や資本家がこの社会の主人公になったのは、世界史を見てもたかだか2,300年前からのことで、そんな昔のことではない。もちろん我われ働く者は、この階級社会において被支配階級として、その時々の支配階級であった君主や貴族らに苦しめられてきた。ところが資本主義は、この僅か2,300年の間に、これまでの人類が蓄積した富をはるかに上回る巨大な生産力を獲得したのである。ところがこの生産力は、資本主義自身がその手に負えないような怪物に育ってしまった。その証拠には、この巨大な生産力は、いまでは過剰資本、過剰生産としてその行き場を失い、不況や恐慌の原因となって資本家を苦しめているのである。コロナ危機による自国封鎖によって資本の移動が禁止され、海外市場からの資本の引上げによって世界中に余剰労働力が溢れているのだ。

 

 国際協調が叫ばれてはいる。社会学者の大沢真幸は、「国家を超えた連帯」、人類は「運命共同体」だ、などと述べている(朝日朝刊、4月6日)。気楽なもんだ!大沢は、記者から「(国際連帯は)絵に描いた餅では?」と質問され、次のように答えている、「新型ウィルス問題が、そうした膠着状態を変える可能性があります。」「気候変動問題の存在を否定したトランプ大統領も、新型ウィルスについては『問題ない』の自説をすぐに引っ込め、真剣に取り組まざるを得なくなった。非常時には歴史の流れが一挙に加速されます。」バカも休み休み言ってほしいものだ。コロナ危機がもたらしたものは、歴史の流れを加速させるどころか、反対の自国封鎖であり、自国第一主義であった。バカなトランプがコロナの急速な拡大に慌てて取った措置は、海外からの入国禁止であり、国際協力とは逆のWHOに対する威嚇であった。

 

 この国際社会が、ブルジョア国家の集合体である限り、国際連帯などは夢である。大沢は、政策の決定権は、「国民国家が握っている」「それは私たちが、現時点では自国に対して一番レベルの高い連帯感・帰属意識を抱いているからです。それを超える連帯を実現させなくてはいけない」と述べて、国民の国家への帰属意識を変えろと言っている。ブルジョア国家への帰属意識が生まれるのは自然だが、それはまた反動権力によって意図的に強化される。いかにして「国家を超える連帯」を実現するのか?大沢は「実現させなくてはいけない」と理想を叫ぶだけで、せいぜい「非常時が歴史の流れを加速する」ことに期待するだけだ。彼はブルジョア社会にあって、労働者がブルジョア的な国家意識を超える階級的存在であることを見ない。人はみな平等で、個人として尊重されねばならず、階級など存在しない、国家は至高の存在であるなどと、ブルジョアジーは労働者に説教する。個人主義や人間主義は、封建制と闘う近代においてこそ意味があったが、現代の資本主義社会においては、ブルジョアジーの階級支配を隠蔽するイデオロギーに堕している。それは国家主義、愛国主義の根源である。労働者とブルジョアたちの間には、平等も連帯もない。しかしながら、資本主義経済の発展と共に拡大する労働者階級の闘いは、ブルジョア国家の枠を乗り越えて労働者の国際的連帯へと発展する。資本家階級という同じ支配階級によって搾取され抑圧されている階級として、各国の労働者階級は同一の利害関係と同一の目標を持っている。ここにこそ労働者階級の国際的連帯の基礎がある。残念ながら、現在19世紀後半に現れたような労働者の国際的連帯の動きは見られないが、しかし今度のコロナパンデミックのように資本主義世界の危機と自国本位の矛盾が明らかになり、「国家を超えた連帯」が求められれば求められるほど、労働者の国際的連帯と資本家階級に対する闘いは、必然的に発展するであろう。「国家を超えた連帯」を実現するにはそれ以外にない。

 

 すでに世界史の段階は、人間を単なるモノとして、いわゆる人材として扱うことを許さない時代に差し掛かっている。人間をモノとして扱った奴隷制や人格的隷従を強いた封建制と比べてみれば、人格はともかく労働力を商品として売ることができるようになった資本主義は、人類史の大きな進歩と言わねばならない。しかし今、その極限まで発展した商品経済は、その無政府性ゆえに過剰資本、過剰生産に苦しみ、その破綻を明らかにした。無計画的な商品経済は、喜びをもって自由に働き、必要に応じて取る社会へと移行すべき時が来たのである。商店のような自営業者や小生産者はどうなるのか、彼らも商品経済ではないか、と言われる。その通りである。彼らは確かに企業や資本家のように労働者を搾取したり、労働者をモノ扱いしたりしていない。しかし彼らも商品経済に依存している以上、その労働によって生計を立てねばならない、商品や生産物は売れなければならないし、利益を上げねばならない。顧客に対するどんなに愛想のいい笑みや親切も、その裏には利益が絡んでいる。仕事一筋の名人も、その作品が売れなければ生きていけない。殻らが自分の仕事にどんなに誇りを持ったところで、しょせん、商品世界から逃れることはできないのである。

 

 一方で医療崩壊は深刻だ。マスク、防護服、人工呼吸器、検査器等が足りない。しかしこれらを作っているのは企業である。政府がいくら要請したところで企業が動かなければ、生産も調達もできない。企業は利潤で動いているのである。コロナ禍は、いかに資本主義が突然の災害に無力であるかを明らかにした。中国は共産党の独裁国家であるが、その強権性を駆使して(その善悪は別だが)コロナを終息させた(まだ決定的ではない)。自由な人間の共同社会である共産社会であればコトは簡単だ。そこでは自分本位の商品交換もない、利潤のためにしか生産も交換もしない資本家も存在しない。必要な物資は、直ちに計画的に生産され配分される。そのために必要な材料や機械などの生産手段や必要な労働力は、統一的な計画に基づいて直ちにいき渡るだろう。社会主義を経て共産主義に到達する長い過程で、個人主義はしだいに克服され、一人は万人のために、万人は一人のために、という相互扶助の精神は、そこでは一般的なものになるだろう。もちろんこうした社会は、一朝一夕に実現されるものではなく、人類は長期にわたって苦しい闘いを経験しなければならないのだが。

 

 しかし、今の資本主義社会に生起しているあらゆる矛盾―自然破壊、原発事故、あらゆる格差と差別、過酷な労働、介護と医療等々―は、その現れ方は違っても、その根源は資本主義体制にある。個々の矛盾の現れと闘うことはもちろん必要であるが、敵は本能寺(資本主義)にあること、それを攻め落とすことが我われ労働者の最終目的であることを忘れてはならないのである。大沢真幸は、「非常時には歴史の流れが一気に加速されます」と言っている。確かにその通りだ。しかしその歴史の流れは、我われがそれをしっかり見据え抑えなければ、前にも後ろにも(ロシア革命にもファシズムにも)向かうものである。15日に、39県緊急事態解除の記者会見で、安倍は、「コロナの時代の新たな日常を取り戻していく。今日はその本格的なスタートの日だ」と述べた。我々はここに反動派の意図を見る。彼らはこの異常事態を「日常化」することによって新たな反動のスタートにすることを画策しているのである。逆に我々は、このコロナの非常時に歴史の流れを「一気に加速」させ、働く者が主人公の世界、社会主義に向かって、さらにその先の共産主義に向かって、労働者の闘いを前進させなければならない。そのための第一歩は、安倍反動政権を打倒し、労働者政権の樹立に向かって闘いを開始することである。 (神奈川 菊池)