労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

宮本顕治

平民社以後の社会主義運動(2)

先月に続き、神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第46号で、平民社後の昭和に入ってからの社会主義運動について紹介しています。日本における社会主義運動について理解する参考になると考え、紹介します。(担当)

 

 

平民社以後の社会主義運動(2)

 

「労働者くらぶ」前号(45 号)で「平民社後の社会主義運動」について述べましたが、大正末期で終わってしまい、昭和に入ってからの活動については、ほとんど触れることができず中途半端に終わってしまいました。そこで今号では、昭和に入ってからの10 年間ほどの運動(主として共産党の活動になるが)に簡単に触れて補足したいと思います。

 

先に述べましたように、日本共産党は、コミンテルンの日本支部として1922 年(大正11 年)7 月に秘密裏に結成(堺利彦委員長)されますが、党の綱領や規約もない、党とは名ばかりのもので、主要メンバーの翌年の検挙であえなく壊滅してしまいます。関東大震災の大杉らの虐殺や政府の弾圧もあって、解党論が主流になり、24 4 月に解党してしまいます(第1 次共産党)。

 

堺や山川らの解党派は、共産党を離れていきますが、解党派は、山川が第1次共産党結成時に発表した論文「無産階級の方向転換」に従って、合法的な無産政党の結成に向かっていきます。そして27 年には「労農」を創刊し、論文「政治的統一戦線――無産政党合同論の根拠」を発表し「共同戦線党」の結成を提唱します。山川の「方向転換」論と「共同戦線党」論の意義については前号で触れましたので省略します。

 

一方、再建派は、26 12 月に党再建(佐野文夫委員長)を果たします。この時、再建共産党の理論的指導者になったのは福本和夫です。福本は、思想的に純化したマルクス・レーニン主義の党を作り上げるとして、理論闘争を重視した「分離・結合」論を提唱しますが、この左翼急進的な方針は、政治運動、組合運動、さらには文化運動にまで分裂主義やセクト主義を持ち込むことになりました。この福本イズムは、コミンテルンから批判され、撤回されますが(福本も自己批判)、その後も長く共産党の運動に影響します。

 

25 年の普通選挙法(同時に治安維持法も成立)に基づいて最初の総選挙が28 2 月に実施されます。再建された共産党は、合法無産政党である労働者農民党を隠れ蓑にして、共産党の党名入りのビラを配布するなどして公然たる宣伝活動を開始しますが。無産政党各党は、計8 名の当選者を出しますが、これに恐怖した政府は、総選挙の3 週間後の3 15 日に、全国の共産党員やシンパの一斉検挙を行います(3・15 事件)。

 

さらに翌年4 16 日にも残った党員やシンパの一斉検挙が行われ(4・16 事件)、再建されたばかりの共産党は大打撃を受けます。この2度の大弾圧によって共産党は、経験豊富な幹部をことごとく失い、指導部は、未熟な活動家によって構成されることになります。416 後に再建された共産党の委員長になったのは、田中清玄(当時23 歳)でありもう一人は佐野博(24 歳、佐野学の甥)でした。彼らの打ち出した方針は、武装自衛団、武装デモ、赤色テロなどの極左的冒険主義でした(武装共産党)。

 

もっとも、これらの過激な方針が採択されたのには背景があります。当時は、29 年にアメリカから始まった大恐慌が世界に拡大していくときにあたり、コミンテルンは、社会民主主義者を敵とした急進的な「社会ファシズム」論を採用します。また国内においても金融恐慌や世界恐慌の影響が深刻になり、労働争議や小作争議が頻発し階級闘争の高まりがありました。指導部の二人は30 年に相次いで逮捕されて武装共産党は壊滅します。

 

彼らに代わって新しい指導部についたのは,クートべ(ソ連の幹部養成大学)帰りの風間丈吉(28歳)と飯塚盈(みつ)延(スパイM)です。この指導部によって武装共産党は修正されますが、しかし社会ファシズム論に基づいて、社会民主主義者との闘いに熱中し、セクト主義はそのままです。もっとも、「大衆へ」のスローガンを掲げて、この時期の共産党は、戦前で最も勢力の拡大した時期といわれます(党員は約600名ほど、「無産者新聞」2万~4万部、「赤旗」約7000部)。

 

この頃の共産党は、319月に満州事変が勃発したときにあたり、「非常時共産党」(31年~32年)と呼ばれます。しかし、この共産党も、3210月の熱海事件の大検挙で壊滅してしまいます。そのあと短期間、山本正美や野呂栄太郎の委員長が続きますが、野呂の時に幹部に昇格したのが宮本顕治です。

 

野呂が逮捕された直後に起こったのが「スパイ査問事件」(3412月)で、このとき査問の責任者になったのが宮本であり当時24歳(彼もまたスパイの通報でその直後に逮捕される)でした。

 

そして、ただ一人の中央委員に残った袴田里実が357月に逮捕されて、名実ともに戦前の共産党は消滅するのです。この間、336月に、416事件で逮捕されていた幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中から転向声明を出します。続いて田中清玄、風間丈吉等、主だった幹部や多数の党員が雪崩を打ってそれに続きます。

 

33年に野呂らによって再建された共産党も、その直後に指導部の検挙や「スパイ査問事件」などで解体してしまいます。ですから戦前の共産党の活動は、2612月に共産党が再建されて以来、33年に消滅してしまうまでの実質8年間位です。

 

22年(大正11年)に結成された第1次共産党は、山川ら社会民主主義者を含んだ、ほとんど実態のない党でしたから、今日まで続いている日本共産党とは別個に考えられます。

 

戦後の共産党を長く指導した宮本顕治の戦前の党活動も23年ほどにすぎません。戦後の共産党の幹部らは、「獄中18年」(徳田久一)とか「獄中12年」(宮本顕治)とかの「非転向」を誇っていますが、軍部ファシズムの本格的な台頭や帝国主義戦争の勃発を前にして、前衛としての共産党は、(レーニンが言った「戦争を内乱へ」どころか)どんな役割も果たすことなく、崩壊してしまったわけです。

 

こうした共産党の党活動の理論の中心にあったのが、コミンテルンの方針です。日本共産党は結成当時、理論的に未熟であったのと同時に、コミンテルンの支部として作られたのでコミンテルンの方針は絶対であったわけです。

 

第2次共産党の再建時に出されたのが27年テーゼです。この27年テーゼでは、党の闘いを理論闘争に限定した福本イズムは、党と労働組合等の大衆団体との相違を無視し、労働組合を機械的に政治化するものとしてその急進主義を批判されます。共産党はこの批判を受け入れますが、それはコミンテルンの権威に屈服したにすぎず、その後長く福本イズムは共産党の体質であるセクト主義や分裂主義となって生き続けるのです。

 

一方、27年テーゼは、日本の急速な資本主義的発展を指摘したものの、日本の革命は民主主義革命から社会主義革命へと連続するというスターリン主義の二段階革命論に立っていました。つまりロシア革命と同じ理論に基づいてコミンテルンも共産党も、天皇制の打倒を革命戦略として掲げたのです。

 

しかし第一次世界大戦後の日本は、すでに独占資本主義の段階、国外に多くの植民地を有する帝国主義の段階に達しており、天皇制はすでに独占資本の階級支配の道具、隠れ蓑になっていました。

 

確かに国内にはなお半封建的な遺物があって、それらを一掃する民主的課題はありましたが、封建制の廃止は、帝国主義段階においては、独占資本の打倒、社会主義革命のための闘いと結びつけ、それに従属して闘われねばなりません。

 

天皇制の廃止など封建制一掃のブルジョア革命を達成したのちに社会主義革命をめざすというのでは、労働者の革命闘争をブルジョア民主主義革命という誤った方向に向かわせたのです。

 

32年テーゼ(河上肇の翻訳)は、この27年テーゼをより厳密に完成したものであって、そこでは日本の支配的な制度を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有制、独占資本主義の三つの要素の結合として特徴づけ、特に天皇制については、封建的な地主階級と独占資本の利益を代表しつつ「その独自な相対的に大なる役割」を「エセ非立憲的形態」で粉飾されているに過ぎない、としました。

 

そして、天皇制こそ「国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓(ざんし、残存物)の主要支柱」、「搾取階級の現存の独裁の強固な背景」であると規定し、天皇制の国家機構の粉砕こそ日本の革命運動の第一義的な任務である、としました。

 

この32年テーゼは、今なお共産党によって「画期的な指針」(「共産党の70年」)として賛美されており、この党の小ブル民主派の本質を規定するものとなっています。

 

この32年テーゼと27年テーゼの間に、モスクワ帰りの風間丈吉が持ち込んだ31年テーゼというのがありますが、これは社会主義革命を戦略目標として提起したものですが、残存したトロツキー派(当時すでにトロツキーは追放されている)によって起草されたもので、すぐスターリン派の32年テーゼによって葬られているので、日本共産党に理論的影響はありません。

 

戦前の共産党の綱領的立場は、労働者階級の社会主義をめざす闘いを棚上げにして労働者階級の闘いを、天皇制の廃止を含む封建制の一掃という、ブルジョア的課題に捻じ曲げたものでした。

 

戦前の共産党の闘いが、天皇制の打倒を掲げ、いかに表面的には戦闘的、急進的にふるまおうと(これこそ、戦前の共産党の“革命的”という神話を生み出したのですが)、プロレタリアートの社会主義のための闘いとはほど遠い小ブル民主主義派の闘いでしかありませんでした。

 

27年テーゼや32年テーゼに基づいて、日本資本主義の分析を行ったのが、野呂栄太郎などの講座派(「日本資本主義発達史講座」岩波書店)です。彼らは、32年テーゼに基づいて日本資本主義の半封建的な性格と絶対主義的な天皇制の支配を強調し、民主主義革命から社会主義革命へという二段階革命を主張したのです。

 

この講座派に対し、日本の現状を、ブルジョア国家ととらえ、日本の革命は社会主義革命である、として共産党を批判したのが、山川や荒畑、猪俣津南雄ら社会民主主義者の「労農派」です。

 

しかし、彼らも、社会主義の闘いの前に、それに移行するための民主主義的な条件を作り出さねばならないとして、彼らの戦略も結局は、二段階革命論の共産党と同じものでした。ただ彼らの「社会主義革命」論は、天皇制との闘いを回避するための日和見主義的口実にすぎなかったのです。

 

以上、これまで、1901年に幸徳らによって結成された社会民主党(即日禁止)以来の社会主義運動の戦前までの歴史を大急ぎで追究してきましたが、その歴史は政府権力による激しい弾圧の歴史でした。

 

この歴史から私たち労働者階級は、何を学ばなければならないのか? それは、マルクス主義に基づいた、公然・非公然に柔軟に対応できる強固な労働者の前衛党がなければ、資本主義と闘うことも、その打倒も、不可能だということです。

 

レーニンが『何をなすべきか』で強調した労働者階級の前衛党を、戦前も、そして戦後も、日本の労働者階級は持つことができませんでした。幸徳らの社会民主党の結成以来、120年がたっていますが、幸徳らのめざした資本主義の廃止、社会主義の実現はおろか、幸徳らを虐殺した天皇制も、象徴とはいえ残存しているのです。

 

現在、幸徳を直接行動に走らせた、ブルジョア議会主義の腐敗、堕落ぶりは、目を覆うばかりです。共産党や立憲民主党など野党が、党利党略、自党第一に走り、この絶好の機会に政権交代さえできない姿は、戦前の無産政党各党が離合集散を繰り返し、やっと実現した社会大衆党が、結局、政府のお先棒を担いで、国民を戦争協力に駆り立てていった悪夢を思い出させます。

 

共産党や社民党(旧社会党)の源流は、幸徳らの社会民主党や平民社にあります。ところが、彼らは、平民社の社会主義運動についてほとんど語りません。なぜか? それは、彼らがブルジョア議会主義の腐敗・堕落に骨の髄まで染まり、労働者の階級闘争を忘れ、「社会主義」という言葉さえ口にすることを憚っているからです。

 

幸徳らの社会主義運動の記憶を持ち出せば、彼らのブルジョア的堕落は一目瞭然だからです。彼らは、今の地位に満足していたいのです。戦後80年、日本の労働者も、いいかげんに目を覚まさなければなりません。共産党の、エセ・マルクス主義におさらばし、革命的マルクス主義の旗を高く掲げて、労働の解放をめざす労働者党に結集し、労働者の前衛党を作り上げていきましよう!(K

 

横浜労働者くらぶ学習会案内11月の予定

 

◆「資本論」第1巻学習会

日時:11月27日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室

学習範囲:第6篇19章~第722

 

◆「資本論」第2巻学習会

日時:11月13日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:第20章1節~9節

 

◆マルクス主義学習会 ―― エンゲルス「空想より科学へ」

日時:11月16日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:序文と第1章「空想的社会主義」まで

 

横浜労働者くらぶ

連絡先:Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

(日程や会場が変更になることもありますので、事前にご連絡ください。)

共産党のあきれたビラ

「資本論を読む会」に参加しているMさんからの投稿を紹介します。

 

共産党のあきれたビラ

宮本顕治や不破哲三の発言を想起

 

 「資本論を読む会」終了後、共産党がロシアのウクライナ侵攻を受けて街頭で配布しているビラの批判をする。このビラには心底あきれ果てた。

 

ビラで言う。「旧ソ連の時代からロシアの覇権主義を厳しく批判してきたのが日本共産党です」、「旧ソ連もロシアも社会主義とは無縁」。どの口が言っているのか。

 

共産党はソ連・ロシアを「生成期社会主義」つまり「生成期」であろうとなんであろうとソ連を「社会主義」と規定したうえで、1968年のソ連のチョコスロバキアへの侵攻、1979年のアフガニスタン侵攻を単に「覇権主義」「大国主義」と批判してきたにすぎない。

 

 ソ連によるチョコスロバキアの侵攻の後に出版された「宮本顕治対談集」(新日本出版社、1972年)の中で、宮本顕治は、1956年にソ連のハンガリーに侵攻、人民を弾圧したソ連擁護の発言を再録しさえしている。

 

「ソビエトがハンガリー政府の要請で出て、暴動をおさえた、これを流血だという」、「当事者たちは、しかしそのなかに、明らかに暴動的方向、つまり流血騒ぎにもっていくような反革命分子がいた。」(65,66ページ)

 

共産党がソ連の残虐なハンガリー人民弾圧を支持・擁護してきた事実は隠せない。(詳しくは、林紘義著「宮本・不破への公開質問状―ハンガリー事件・スターリン批判・ポーランド問題―」参照)

 

不破哲三は1987年出版の「世界史のなかの社会主義」(新日本出版社)でソ連を「生成期社会主義」と規定したうえで書いている。

 

「社会主義というのは、経済のしくみ、社会のしくみのなかに、外国を侵略しないとか、軍備の拡大をやらないと社会が成り立たないといった原因を、もともともっていない体制です。だから、アフガニスタンのようなことは、社会主義の国が、社会主義の本来の立場からはずれたときに起きるのです」、「社会主義の国民が社会主義の立場を失わないかぎり、いろんなジグザグがあっても、やがてこれを直す力が働く」、「これを私たちは社会主義の『復元力』とよんでいます。」(184,185ページ)

 

不破はソ連を「社会主義」と断じたうえで「社会主義国」の単なる政策的誤りとしてソ連を「大国主義」「覇権主義」として批判してきたのにすぎなく、根本的批判ではなかった。

 

共産党はソ連を「社会主義」として散々美化してきた。「社会主義の国」が「本来の立場」を離れるとは何か。

 

ソ連の国家資本主義体制の矛盾がソ連のチェコスロバキアなどの侵略を生み出したのである。ビラでは共産党はあたかもソ連を「社会主義」と言ってきたことはこれまでまるで一度もなかったかのような書き方である。これは真っ赤な嘘である。

 

共産党はその綱領で、今のロシアなどを「社会の実態としては、社会主義とは無縁な人間抑圧型の社会」というがここにはどんな科学的経済的な規定も概念もない。ロシアなどの社会は社会主義ではないが、どんな社会なのか、資本主義なのか、全く不明で、どんな社会経済構成体なのかが一切わからない。

 

共産党のロシアのウクライナ侵攻を受けての今回のビラは欺瞞にみちている。

 

このビラで共産党は自公政権・安部は「北方領土」について、共産党のように「全千島の返還」を言わず「返還は『歯舞、色丹だけ』に後退」させてきたという。ロシア、プーチンに強硬な姿勢をとってきたのは共産党だけと自慢げに言いたいようである。

 

そもそも共産党、自民党などがいう「固有の領土」なるものがあるわけではなく、領土とは相対的なものであり、民族国家の形成とともに成立した歴史的に限界のあるブルジョアジ的概念にしかすぎない。共産党は右翼も顔負けのウルトラ民族主義者であり、共産党は領土問題ではもはや「極右」といっても過言ではない。

 

 

プーチンだけが悪か

アメリカやウクライナの政権が絶対的に正しいわけでない

 

今、マスコミでゼレンスキーが絶対的な善でアメリカなどウクライナへの武器供与・援助は当然で、プーチンだけが悪かのような報道で溢れかえっている。

 

確かにプーチンは悪い。だが、ゼレンスキーはロシア語の抑圧政策を取ってきて絶対的善とはいえないと説明して「読む会」散会しました。

 

「読む会」の帰りに、「ウクライナ侵略戦争―世界秩序の危機」(「世界」臨時増刊)を書店で見つけ買いました。ほとんどの筆者はプーチンを批判したうえで書いている。だが、この本の中からも見えるものがあります。

 

2014年の、ウクライナの親ロ政権を打倒した“ユーロマイダン革命”にアメリカが関わりオバマもCNNのインタビューでこの政策の関与を認めている。

 

対応したのがバイデンである。「アメリカは、ただ復活し、敵対するロシアを抑え込みたいのであって、ウクライナの反ロシア政権はそのための道具でしかないように見える」(71ページ)

 

「第二次世界大戦時、ウクライナ民族主義者がナチスと手を組んだことがあったのは事実だし、ゼレンスキーがロシアとの関係を重視する政党の活動を禁止したのも、2014年に親ロ政権が米国の支援を受けたクーデターによって倒され、ロシア系市民への弾圧が行われたのも事実だ」(14ページ)

 

「ユーロマイダン革命は凄まじいばかりの暴力であり、『親露か、親欧米か』などという、それまでのウクライナ政治の対立軸をむしろ吹き飛ばしてしまった。クリミヤ人やドンパス人は、自分たちがロシア語を使う権利や、ロシアへの帰属替えを求めたのではない。右派民族主義者による暴力や殺害を逃れてウクライナから逃げ出したのである」「特徴的なのは、革命派が、これら暴力事件を携帯電話で録画し、自らソーシャルメディアに盛んに公開したことである。これらは常識ある市民を恐怖のどん底に突き落とした。実際、ユーロマイダン革命中は、凄惨な死体の録画がユーチューブに溢れていた。」「ドンパスでの2600人の民間犠牲者を国際司法や国際世論は見て見ぬふりをしていた。」(49,50,51ページ)「言語法制によりロシア語話者の母語使用を厳しく制限した」(106ページ)

 

「2014年政変で成立したウクライナの現体制がファシスト的・人種主義的傾向を持つこと、東部ウクライナの住民に対する迫害(8年間にわたる戦争状態の中で人道上の危機が発生)や、労働運動弾圧、共産党非合法化の政策がとられてきたことはこれまでも指摘・報道されてきた」(208ページ)

 

ウクライナからの避難にあたっては、白人が優先でウクライナ兵が有色人種を力づくに押し戻している。アフリカ連合はアフリカ人を中心とする有色人種が差別を受けているとして声明を発表し、避難時の人種差別は国際法違反だと訴えている。(朝日、GLOBE・国連での南アフリカの演説)

 

「米国のグレナダ侵攻、パナマ侵攻、イラク戦争、ソ連のアフガニスタン侵攻など、核を持つ軍事大国が他国を侵略しその政権の転覆を図ることは、これまでも度々あった。イラクやパレスチナやシリアに関心を払わなかった欧米や日本の人々が今回ウクライナ支援のために大きな声をあげている状況は人種主義の表れだという指摘もある」(147ページ)

 

ソ連崩壊の後、アメリカ政権は東方にNATOを拡大させ、民族主義者を台頭させ、親ロ政権などを崩壊させ、欧米よりの政権を樹立させてきた。2014年のウクライナのユーロマイダン革命もそうである。

 

この「革命」で市民の死体の映像もあった。今のウクライナのブチャと同様の惨状である。ゼレンスキーもこうした残虐行為を行ってきた民族主義者と同じく民族主義を煽り立ててきた。

 

ロシア語の抑圧はまたロシア民族主義を挑発させてきた。NATO加盟を強行・実行しようとしたのもゼレンスキーである。ウクライナへのアメリカの武器供与は、昔は「軍産複合体」と呼ばれた武器産業を潤わせている。

 

ロシアのウクライナ軍事侵攻は徹底的に批判、糾弾されなければならない。だが、アメリカ政権、ウクライナ政権、ゼレンスキーが絶対的に正しく、善であるわけではない。彼らも多くの罪をおかしてきたのである。

 

「パレスチナのガザ地区ではイスラエルによる封鎖・空爆下でマリウポリのような事態はほとんど恒常的に繰り返されてきたと言ってよい」(206ページ)

 

今でも、イスラエルはガザ地区へ空爆し、ガザ地区のパレスチナ住民を人道危機におとしいれている。ガザ地区の空爆は子どもにも多くの犠牲者だしている。アメリカはイスラエルを支援し、この空爆を認めてきた。自由主義普遍的価値を説くアメリカのも厳しく問わなければならない。

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
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