労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

帝国主義

プーチンだけが悪者か?

神奈川で『資本論』学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報で、「プーチンだけが悪者か?」と論じられています。「労働者くらぶ 第15 号」から紹介します。

 

プーチンだけが悪者か?


ブルジョア世論は、プーチンが核兵器の使用をほのめかし、実際にザポリージャ原発を攻撃したことから、核兵器使用が現実になったと大騒ぎである。「プーチンは狂った」「プーチンの性格は常軌を逸している」等々、ウクライナ侵攻や原発攻撃の責任をプーチン個人に帰せようとしているのだ。

 

しかしプーチンが核兵器の使用をチラつかせ始めたのは今回が初めてではない。すでにクリミア侵攻の時から核の準備に言及していた。そもそも大国が、なぜ核兵器を保有するかといえば、核の抑止力によって相手の戦意をくじき、力関係で優位に立つためである。核の抑止力は、核使用の可能性があるからこそ威力がある。プーチンのウクライナ侵略によって、それが現実味を帯びてきたというに過ぎない。

 

プーチンの核使用の言及は、彼が追い詰められてきた結果である。ロシアに限らず、欧米や中国などの核大国も窮地に陥れば核使用は現実のものとなる。これは指導者の性格の問題ではない。バイデンにしても習近平にしても、追い詰められればプーチンと同じ行動をとるだろう。これら指導者は帝国主義の人格化である。仮に、彼らではなく他の人間が指導者であっても同じである。

 

核兵器の威嚇を、プーチン個人の性格や資質に帰せようとするのは、ウクライナ侵攻の本質を隠蔽するものである。ブルジョアマスコミは、連日のようにウクライナの惨状を報じて、あたかもプーチンやロシアだけを悪者に仕立てている。問題は、この世界を大小の帝国主義国家が牛耳っていることである。ロシアのウクライナ侵攻は、ウクライナを盾にした欧米の帝国主義(ウクライナに多大の武器援助をしている)とロシアの帝国主義の覇権争いであり、どちらが悪いと言った問題ではない(両方とも悪党だ)。

 

ブルジョア国家同士の争いに決まって登場してくるのは、民族主義や国家主義の愛国イデオロギーである。日本でもここぞとばかりに安倍や高市などの国家主義者がしゃしゃり出てきて、米国との核兵器の共同使用を主張し始めた。ブルジョア支配がなくならない限り、世界から戦争をなくすことはできない。労働者は、プーチンの侵略と果敢に戦っているウクライナ人民と連帯すると同時に、自国のブルジョア支配の打倒のために立ち上がらなければならない。 (K)

<中国共産党100年・習近平演説>を論ず

『海つばめ』1406号で、<中国共産党100年・習近平演説>の論評を掲載しましたが、紙面の都合で「日本共産党〝批判〟」の部分を省略しました。ここに追加し、掲載します。

 

 

<中国共産党100年・習近平演説>

帝国主義大国としての中国を誇示

――だが、「隠すより露わるるはなし」

 

 71日、習近平は天安門広場を埋め尽くした7万人超の動員者を前に大演説をぶった。我々は、その演説内容を分析することによって中国の現段階とその矛盾を解明しなければならない。

 

◇人民服を着て登場

 

 習近平は背広姿の他の幹部たちを尻目に唯一人、人民服を着て登場した。自らを毛沢東になぞらえ、毛沢東の後継者であることを印象づける演出である。だが、こんな見えすいた演出で権威を高めようとすること自体が習近平の立場の危うさを象徴している。

 

 他にどんなことがあったとしても、習近平は、自らの本性を毛沢東になぞらえることはできない。何故なら、我々が50年近く前に明らかにしたように、毛沢東は資本主義的発展が遅れた中国において農民に依拠して一気に共産主義社会に移行できるかに主張し実践した(それ故に破綻した)農民的〝共産主義〟――そこでは「平等」が本質的な構成要素だった――の体現者であったのに対し(『科学的共産主義研究』31号参照)、習近平は国家資本主義、それも帝国主義化したブルジョア的体制の代表だからである。

 

 習近平は、演説の冒頭、中国は「小康社会」(大衆の生活がややゆとりある社会)を達成し、「社会主義現代化強国の全面的な実現」という次の(建国100年への)目標に向かって進んでいると宣言した(演説全文は、日本経済新聞デジタル版710日付参照)。

 

◇経済発展と強国化を誇示

 

 さらに、新中国と党の歴史を振り返り、現段階を次のように規定した――「揺るぎなく改革開放を推進し、各方面からのリスクや挑戦に打ち勝ち、中国の特色ある社会主義を創り、堅持し、守り、発展させ、高度に集中した計画経済体制から活力に満ちた社会主義市場経済体制への歴史的転換を実現した」。

 

 ここには、中国が1978年末、鄧小平の提唱により改革開放路線に転じ、外国資本の導入や民営企業の設立など〝自由化〟――国家資本主義の枠内での――に踏み切ったことが経済発展をもたらした歴史的現実が反映されている。

 

 習近平が決して語らないのは、メダルの裏側、即ち農村出身の何億人もの「農民工」を劣悪な環境で徹底的に搾取し教育や医療・福祉の機会を奪い排除してきた露骨な差別と圧迫の体制、都市と農村、都市住民と農民間の貧富の格差の絶望的な拡大、地方政府が農民の土地を奪い取り、私腹を肥やし農民の抗議行動を弾圧してきた事実、少数民族に対する容赦ない抑圧・弾圧・搾取(新疆ウイグル地区に象徴される)等々である。

 

 労働者、農民に対する激烈な搾取と抑圧こそが中国の経済発展を可能にしたというこの現実を習近平は決して認めることができないのである。

 

 習近平はなんとしてでもこの〝断絶〟を、階級分裂と対立を覆い隠さなければならない。如何にしてか。

 

◇「中華民族の偉大な復興」を鼓吹

 

 習近平の演説に頻出するのは「中華民族の偉大な復興」というスローガンで、主要な段落は、このフレーズで始まり、あるいは締めくくられる――ざっと数えて20回。

 

 冒頭の呼びかけ部分は、これから「中華民族の偉大な復興の明るい未来を展望する」で締めくくられ、1840年のアヘン戦争以来の中国の歴史を振り返る段落では、「それ以来、中華民族の偉大な復興を実現することは、中国人民と中華民族の最も偉大な夢となった」で終わる。

 

 さらに「この100年来、中国共産党が人民を束ね率いて行った全ての奮闘、全ての犠牲、全ての創造はひとつのテーマに集結する。それは中華民族の偉大な復興を実現するということだ」。

 

 他にも「中華民族の偉大な栄光」、「中華民族は世界における偉大な民族」なども頻出する。

 

 その延長上に「我々をいじめ、服従させ、奴隷にしようとする外国勢力を中国人民は決して許さない。妄想した者は14億の中国人民が血と肉で築いた鋼の長城にぶつかり血を流すことになる」という〝刺激的な〟恫喝が来る。

 

 つまりは、愛国主義、民族主義を鼓吹し、そうすることによって体制の矛盾を隠蔽し、人々の目をそらし、権力を――共産党の特権と権益を――維持しようというのだ。その悪しき意図を補強するために「マルクス主義」や「社会主義」が所々にちりばめられるといった具合である。

 

◇「人民」連発の意味

 

 習近平演説のもう一つのキーワードは「人民」である。中国研究者の興梠一郎氏(神田外語大学教授)は、「人民」は今回の演説で約80回登場と指摘している(日経ビジネス電子版、75日)。

 愛国主義、民族主義の鼓吹は〝諸刃の剣〟である。共産党が経済成長を維持できず、国民の生活を向上させることができなければ、あるいは他国との帝国主義的対立で後れを取れば、共産党は国民の利益に反し、〝国賊〟に転じるのだ。また、愛国主義が暴走し不買運動や打ち壊しとなって爆発して共産党政権を窮地に追い込むだろう(これまでも何度かあったように)。習近平が「人民」を〝乱発〟したのは、共産党と「人民」の乖離、敵対を覆い隠すためである。

 

 習近平の前任者(胡錦濤)時代には、しばしば中国全土で農民の抗議行動があったことが報じられていたが、習近平はこうした行動を徹底した弾圧によって封じ込めてきた。そのために、「人民」の不満の声や叫びが中央に届かず、逆に習近平は絶えず人民の不満や怒りを気にせざるをえない。

 〝臭いものに蓋〟をすれば、表面は平穏のように見えても、蓋の下では諸々の要素が渦巻き、絡まり合い、発酵し、爆発するだろう。習近平が「人民」を恐れる理由は有り余るほどあるのだ。

 

 習近平が中国共産党は、「自らのいかなる特殊な利益もなく、いかなる利害集団、いかなる利権団体、いかなる特権階級の利益も代表しない」と言ったのは、逆に「人民」が共産党を「特権階級」と見なしていると感じていること、民心が共産党を離れつつあることを意識せざるをえないからであろう。

 

 我々は、中国の体制とその内的矛盾の深化に細心の注意を払い、中国の労働者階級との連帯の道を模索していかなければならない。

 

日本共産党の〝批判〟

 

 最後に、日本共産党の立場に一言。志位委員長は、記者団の質問に次のように答えた――「中国による東シナ海や南シナ海での覇権主義的行動、香港やウィグルでの人権侵害は、社会主義とは無縁であり、共産党の名に値しない。国際社会が中国に対し『国際法を守れ』と求めていくことが大切だ」(「赤旗」電子版、7月2日)。

 

 「社会主義とは無縁」で「共産党の名に値しない」――もっともらしい〝批判〟だ。しかし、つい最近まで、中国を「社会主義をめざす」国と評価し、持ち上げてきたのはどこの誰だったのか、「社会主義」国でないとすれば、いかなる体制の国なのか――共産党は決して語らない、語ることができない。

 

 「共産党の名に値しない」というが、日本共産党も「社会主義市場経済」という中国共産党と同じスローガンを掲げているのではないのか。中国共産党が「共産党の名に値しない」というなら、日本共産党も同様ではないのか。「語るに落ちた」とはこのことである。       (鈴木)

尖閣諸島問題と共産党ーー資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

『海つばめ』1392号(2020.12.13 発行)において、尖閣問題での共産党志位委員長による中国非難について論じていますが、8年前安倍政権登場直前の情勢の中、『海つばめ』1185号(2012.10.28)(トップ記事は「安倍自民党はどこへ行く--国家主義の奔流を許すな--ナショナリズムに傾斜する政党」)において、尖閣問題での共産党の主張を検討し、その誤りを指摘しています。尖閣問題の理解を深める内容ですので紹介します。

 

 

尖閣諸島問題と共産党

「理法」や「話し合い」の問題か

資本の国家や帝国主義国家にまで幻想

 

 日本と、“近隣の”ブルジョア国家、反動国家との対立が激化し、“紛争”と呼べるようなあれこれの事態さえ起こっている。各国との“紛争”の原因を単純に同じものとして論じることはできないが、しかしその根底は、ブルジョア国家、“国民国家”相互の“私利”やエゴイズムの衝突であり、それをめぐる抗争であるということは自明であろう。我々はここで、“領土問題”についての共産党の観念を検討するが、彼らは“世論”なるもの――もちろん、基本的にブルジョア的、自由主義的な――の注目を浴び、その中で“さかしらぶって”つまり、小利口に、そして大騒ぎして発言しているのである。我々は、こうした検討によって、“領土問題”の本質に接近し、ブルジョアや反動たちの民族主義的、国家主義的、排外主義的キャンペーンや策動や攻撃に対して、労働者がどんな原則的立場に立ち、いかに闘って行かなくてはならないかを明らかにしたいと考える。

 

◆志位の「理」や「理法」とは何か

 我々は差し当たり、“尖閣問題”で発言している、志位の見解を取り上げることにしよう(『赤旗』十月七日、外国特派員協会で行った「講演と質疑」)。志位は主張する。

「中国側が、明代の地図に尖閣諸島が記載されていたということをもって、固有の領土だと述べていることについても、これは成り立たないということを申し上げておきたいと思います。中国側が明代あるいは清代に、尖閣諸島の存在を知っていて、名前をつけていたということは事実です。しかし、これらは領有権の権原の最初の一歩であっても、十分とは決していえません。国家による領有権が確立したというためには、その地域を実効支配していたということが証明されなければなりません。中国側には、たくさんの記録がありますが、実効支配を証明する記録は一つも残されていません。

 以上のような歴史的事実にてらしても、私は日本が1895年に『無主の地』の『先占』という法理によって、尖閣諸島を領有したことが正当だったことについては、疑いのないことだと考えております」

 

 要するに、志位が言うことは、「法理」に基づいて、どこに所属するかもはっきりしていなかった尖閣諸島(つまり「無主の地」)を、日本が先に囲い込んだから、日本の領有は正当だという、ブルジョアたちが言いはやしていることと同じことだけである。そして“領土”の確定――つまりブルジョアたちの世界秩序の、いくらかでも“法的な”形を取った確定――は、十七、八世紀以降の国民国家、ブルジョア国家が登場して以来のことだから、共産党の言うことはごもっともさま、と言うしかないのだが、しかしそんなものは、ブルジョアの立場からの発言であって、単なる私的所有の「法理」であり、その延長線上のことにすぎない。

 

 ブルジョア国家、国民国家はそれぞれ“国境”なるものを明らかにしなくてはならず、それぞれ大急ぎで、近隣の無人の、ある場合には有人の島々や、海洋さえも囲い込んだし、囲い込まざるを得なかったが、それは国家間の紛争や、戦争さえもの一つの原因となったし、今もなっている。

 

 そして領土問題は、それ以降もブルジョアたちの世界秩序の、つまり彼らの利己的な立場や衝動につき動かされ、規定される彼らとその国家の関係、対立や争いや武力抗争さえも不可避的に伴う関係として現われたし、現われざるを得なかったのだが、それはまた資本の支配する社会が一般的にそうであるのと同様であった。

 

 そして日本もまた十九世紀半ば過ぎに“国民”国家として登場したということは、日本の国家の地理的限界をも画したということ、北海道は言うまでもなく、琉球王国等々もその中に囲い込んだということでもあった。もちろん日本はさらに帝国主義の時代に移っていくとともに、その「領土」を朝鮮や中国やアジア諸国にまで拡張しよう(植民地として獲得しよう)としたが、そうした歴史的試みは、二十世紀半ば、アジアの多くの人民もまたヨーロッパの、日本の後を追って国民国家として登場しようとした中で、そして日本の帝国主義が粉砕されることによって挫折し、「見果てぬ夢」に終わったのであった。

 

 実際、尖閣諸島の日本による「領有」は日本の国民国家としての登場によって確かなものになったというより、すでに日本の帝国主義国家としての登場によって規定されているとさえ言えるのであって、その限り、その「領有」の疑わしさ――ブルジョア的「法理」の観点からしても――は、例えば、韓国による竹島の「領有」や千島列島のロシアによる領有と似たようなものであろう。尖閣諸島の領有が一八六、七〇年代でなく、ようやく一八九五年になってからであることが、このことを示唆している。

 

 実際志位は、尖閣諸島の囲い込みは一八九五年の日清戦争や、その後に発展する日本の帝国主義的膨張主義とは無関係だと盛んに――日本のブルジョア帝国主義の肩を持って――わめくのだが、そんな主張は詭弁、強弁のたぐいとしてしか行い得ないのは、反動派や国家主義派の主張がそうであるのと同様である。

 

 たかが百年余の尖閣諸島の「領有」を持ち出しながら、尖閣諸島が「固有の領土」だと叫ぶのは、全く笑止千万のことであろう。一八九五年という年に日本が尖閣諸島を「領有」したのだという主張自体が、尖閣諸島「固有領土」論のナンセンス、皮相さを、その占有が単に日本が中国に先んじて国民国家として――さらには帝国主義国家として――登場した結果にすぎないということを、そしていやしくも社会主義者、共産主義者を自称する志位らがそんな見解を持って回ることが恥ずべきことであることを明らかにしている。

 

 共産党が一八九五年からの領有を言えるのは、ブルジョア的、帝国主義的な“世界秩序”として、その枠内での“法的”な根拠に基づいてのことであって、それ以上ではないのである。

 

 にもかかわらず、他方では、共産党はまさに“歴史的に”、「固有の領土論」を擁護し、正当化しようと悪戦苦闘を重ねて、ありとあらゆる“歴史的な事実”を持ち出している。

 

 しかし共産党が「固有の領土」などと主張しながら、“歴史的に”その「固有の領土」を“論証”しようとすること自体矛盾しており、ナンセンスであろうし、また実際にも、そんなつまらない試みは結局失敗している(中国も台湾も――あるいは「琉球王国」さえも――、一時的であれ、あるいはあいまいな形ではあれ、さらには解釈次第でさえあるような、尖閣諸島の“領有”や占有や実際的な帰属等々を、“歴史的な”領有等々を“証明”できるだろうし、またしているからである。例えば、十四世紀頃には、中国は尖閣諸島付近まで軍事的影響力を及ぼしていた事実がある、等々)。

 

 尖閣諸島が日中の国家間の「係争地」だと強調することと、尖閣諸島が「日本(国家)の固有の領土」であると主張することがまるで矛盾もしないと思い込んでいる共産党は、実際に、中国に対して“強硬”な立場を取り、断固対決せよ――石原がわめくように、軍事対決も辞さず――、と言うも同然である、というのは、中国との「係争」はただ中国の不法にこそ原因があるということでしかないからである。共産党は実際には、不法な中国と闘い――必要なら、そして相手があくまで尖閣諸島の領有を主張し、軍事力にさえ訴えて来るなら、軍事的闘い――をこそ扇動しているのであり、ブルジョア支配階級だけでなく、日本の反動勢力、国家主義、軍国主義勢力の正真正銘の後援者、“心強い”応援者として登場しているのである。

 

◆共産党の「事実」とインチキ「実証主義」

 志位の「法理による」――つまりブルジョア的立場や帝国主義的立場による――尖閣諸島の領有等々の主張のうさんくささは、一つの事実によって浮き彫りになっている。つまり、日本政府は、一八九五年に一日本人から出された、尖閣諸島を日本の「領土」として明瞭に囲い込むことを求める申請を事実上拒否し、領土化にためらいを示したという歴史的な事実――志位にとって極めて具合の悪い事実――が明らかにされ、それは日本政府が尖閣諸島を日本の領土として明確に意識していなかったことを教えるのではないとかいうことで問題になった。

 

 共産党は、尖閣諸島の日本領有が正当であることを明らかにするためには、当時の「歴史的な実証研究」が必要であるとのたまい、彼らの見解は、そうした立派な「実証研究」の結果でもあると、もったいぶって主張している。それで我々もまた、共産党の「実証研究」なるものに付き合わざるをえないのだが、その結果は、ただ共産党の言う「実証研究」なるもののお粗末さ、愚昧さを知る結果にしかならないのである。

 

 共産党の「実証研究」なるものの結論は、一八九五年の日本の尖閣諸島領有(囲い込み)は、その前年の夏に始まった、日清戦争とは何の関係もなく、したがってこの戦争で日本が勝って台湾や澎湖(ほうこ)列島を中国(清国)から奪ったものには入らない、といったことである。つまり戦争に勝って奪ったものでなく、正当なやり方で手に入れた、戦争とは何ら関係ないことだと強調するのである。卑しい心根と詭弁的議論は一見して明らかであろう。

 

 そもそも日本が尖閣諸島を囲い込んだ時期――一八九五年一月――は、日本が実際上、戦闘行為で清国を圧倒し、勝利した時期であって、尖閣諸島の囲い込みは、こうした軍事的勝利と不可分であることは一目瞭然である。そしてもし、日本の勝利が、日本の帝国主義的膨張と不可分であり、その出発点になった――このことは、戦争の勝利品として、巨額の賠償金や台湾などを要求し、清国から横奪したことや、朝鮮の支配権に手をかけたことからも明らかだが――というなら、尖閣諸島の領有もまた、日清戦争や帝国主義的膨張と深く関係したものであることもまた自ずから明らかになるのである。

 

 この問題に関して、志位の弁明は次のようなものである。

「当時の日本政府がこうした対応を取ったのは、日本側が、尖閣諸島を中国の領土だと認識していたからではありません。当時の日本外交文書の記録を見ても、そういう認識が書いてあるわけではありません。当時の清国は、日本から見れば、巨大な帝国でした。そういうもとで、尖閣諸島の領有を宣言すれば、清国を刺激しかねず、得策ではないという外交上の配慮から、この時点では見送られたというのが事実だと考えます」

 

 志位の言うことは、最初からごまかしとして現われる。というのは、日本政府が、日本の領土だと明確に「意識していた」かどうかが問われているときに、中国のことを持ち出すからである。中国が認めていなかったからといって、日本が認めていたことには決してならない。日本もまた認めていなかったかもしれないのである。

 

 志位は自分が「考える」ことが、どんな証拠もあげることなく、そのまま事実であるかの議論をしているが途方もないことであろう。むしろ志位が「考える」ことが事実ではない場合はいくらでもあるのだ。

 

 というのは、日本との戦争でほぼ負けてしまい、張り子の虎であることが暴露されてしまった「巨大帝国」の中国(清国)に、日本がいまさら「刺激しないように」と配慮する必要は何もなかったからである。中国との戦争を決意する前なら、「中国を刺激する」ことを気にしたかもしれないが、しかし断固対決し、実質的に勝利した段階で、つまり「巨大帝国」に見えた中国が実際には、内的に腐敗し、解体している、空っぽで無力な国家でしかないことが暴露されてしまったこの時に、一体どんな配慮が必要だったというのか。

 

 日清戦争の始まる前にでも、日本が尖閣諸島を強引に囲い込んだとするなら、志位のような理屈も成立するかもしれないが、日本が清国をほとんど打ち負かした九五年一月の段階で、「巨大帝国」の清国を恐れて領有化をためらったなどということがあるはずもないのである。単純に、尖閣諸島を領土として囲い込むことに瞬間、疑念があったということ、つまり尖閣諸島が日本の「固有の領土」であると――だから急いで囲い込んでいいと――単純に信じてはいなかったことの方が、むしろ明らかになるのである。

 

 その証拠に、日本はその後、たちまち尖閣諸島の領有を宣言しているのであって、まさに尖閣諸島の囲い込みは、清国との戦争の戦利品、ぶんどり品の一つくらいに考えていたことを教えている。

 

 日本は日清戦争の勝利が明らかになり、確かなものになるとともに、国家として腐敗し、敗北し、半ば解体していた「大国」清国をよそ目に、あたふたと尖閣諸島を囲い込んだのだが、それは第二次世界大戦後、敗戦で瓦解し、事実上「普通の」国家として存在していなかった日本に対して、ソ連が千島列島を、李承晩が竹島を、火事場泥棒さながらに大急ぎで囲い込んだことと同じようなものであって、したがって千島や竹島についてソ連や韓国に「不当だ」と文句を言うなら、中国が日本に尖閣諸島で文句を言うのもまた当然でさえあることを、日本政府や反動派は承認しなくてはならないだろう。そうでなければ、日本政府の主張は決して首尾一貫することはできないのである(世界の労働者はブルジョアたちと違って、その双方を、つまりいかなる国家の国家主義、帝国主義も断固として否定するのだが)。

 

 そしてもし明確に、日本の領土だと意識していたとしたら、どうして領土化の宣言を日和る必要や必然性があったのか。領土であるという明確な意識がなかったからこそ、一瞬日和ったのだが、中国との戦争の勝利があきらかになる中で、たちまち尖閣諸島の領土化を日和る必要をなくして行ったのであり、事実すぐに領土化に走ったのである。

 

 ここでは、一八九五年の段階になっても、つまり中国はともかく日本が国民国家として公然と姿を現わしてから三十年も経過しているのに、中国と同様、日本もまた尖閣諸島を「固有の領土」として明瞭に自覚していなかったという「事実」が浮かび上がって来るだけである。

 

 外交文書に「中国の領土だから、領土化宣言をしない」などといちいち書くはずもないのだが、志位は、こんなへりくつを持ち出しながら、自分たちの推測――つまり、「外交上の配慮」から領有宣言をためらったという憶見――の方は、疑いのない真実であるかに言いはやすのである。自分たちの見解もまた、「外交文書に書いてない」という点では同様である、という反省もないのである。

 

 共産党は盛んに、日清戦争と尖閣諸島の領有は別問題だ、無関係だと言いはやし、こうしたつまらない見解――帝国主義を美化するような俗見――に固執し、こだわっているが、しかし「無関係だ」などとあえて言うのは、一体何のためか、なぜそんな立場が必要なのか。むしろ帝国主義――それがどこの国のものであろうとも、つまり日本のものであろうとも――を暴露するためにも、その反対を明らかにし、強調すべきではないのか。いつから共産党は帝国主義を擁護し、正当化するために粉骨砕身するようになったのか。

 

 さらに共産党は、そんな“状況証拠”だけでは不十分だとばかり、また別の「実証研究」の結果なるものも持ち出している。それは九五年四月に締結された下関条約では、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないという“事実”であり、さらにその後、六月に行われた「台湾受け渡しに関する公文」が日清の間で交換された時の確認でも、尖閣諸島は何ら問題にされず、ただ「台湾の付属島嶼」が問題になっただけだが、その時も、日本に割譲されるのは尖閣諸島を含まない、「福建省付近の島まで」だとされている事実を持ち出している。

 

 しかし共産党の持ち出す「実証研究」の結果なるものは、かえって尖閣諸島への日本の領有が、日清戦争と密接不可分な、その戦争の勝利によって、台湾と同様に中国から奪い取ったものであることを「論証」していないのか。

 

 例えば、台湾の割譲は同意されたが、尖閣諸島のことは何ら言われていないということは何ら驚くべきことではない。単純に、尖閣諸島が台湾の付属島嶼であるとみなされていたからであると言う解釈もいくらでも成り立つのである。

 

 また六月の「台湾受け渡しに関する公文」の時に問題になったのは、尖閣諸島ではなく、「福建省付近の島まで」だと言うのだから、これは台湾から見て尖閣諸島の反対側、つまり中国大陸に近い金門島――今では、中国にではなく台湾に帰属している、歴史的に色々な意味で有名な――等々であるのは自明であろう。それを故意に尖閣諸島だと「解釈」する共産党の「実証検討」など、まるで一面的、ご都合主義的で、いんちきそのものと言われてもどんな弁解もできないだろう。

 

◆「国際的アッピール」と「話し合いによる解決」

 志位は尖閣諸島問題で政府のやっていることは「重大な問題がある」として、次のように主張する。

「それは、『領土問題は存在しない』という立場を棒を飲んだように繰り返すだけで、中国との外交交渉によって、尖閣諸島の領有の正当性を理を尽くして主張する努力を避け続け、一回も行っていないというところにあります」

 

 ただこうした最初の発言を取り上げてみるだけで、志位の立場の根拠のなさ、くだらなさ、そして詭弁のたぐいが、つまり志位の見解のプチブル的愚劣さがたちまち明らかになって来る。

 

 「領土問題は存在しない」と主張することと、尖閣諸島領有の正当性を主張することが矛盾したり、対立したりするなどと考えること自体がナンセンスであって、「領土問題は存在しない」と主張することこそ、ある意味で、最高、最強の「尖閣諸島領有の正当性を主張すること」であり得るだろう、というのは、「領土問題は存在しない」と主張することは、尖閣諸島が淡路島や佐渡島等々と同様に、日本の「固有の領土」であることは余りに明白だから、そんな問題は議論したり、正否を検討したりする必要も余地もないと言うことと、実際上同じだからである。「領土問題は存在しない」と言うこと自体、ブルジョアの立場からするなら、最強の「理」をもった説明でもあり得る、つまりこれは尖閣諸島は問答無用で日本国の一部だ、いまさら議論する必要もない、と言うことだからである。共産党員でさえ、誰が北海道や沖縄が日本の一部であると、いまさら「理」をもって説明する必要があると思うだろうか。ブルジョアたちは尖閣諸島は事実上、例えば北海道と同じであると主張するのだが、このブルジョアの立場のどこが、共産党の気に入らないのであろうか。まさに共産党の見解であり、立場そのものではないのか。

 

 志位は、自分の立場の根底を、九月に提起した「提言」の次のような文章を引いて総括している。

「尖閣諸島の問題を解決するためには、『領土問題は存在しない』という立場をあらため、領土に関わる紛争問題が存在することを正面から認め、冷静で理性的な外交交渉によって、日本の領有の正当性を堂々と主張し、解決をはかるという立場に立つべきである」

 

 志位は現実として中国との間で「領土問題をめぐる紛争」があるのだから、「領土問題は存在しない」と言えないと主張するのだが、しかしただ問題をすり替えているにすぎない。中国は「領土問題がある」――つまり尖閣諸島は中国の領土だ――と主張し、日本は日本の領土だと主張しているとするなら、そこに「紛争問題」があることは確かだが、日本の立場から言えば、それは中国が勝手にふっかけてきた、横暴な横槍、不当で不正なもの、理不尽なものであって、「紛争」など事実上ないのである。

 

 実際、志位といった連中ほどの愚昧な連中はいない。彼らは口を開くと、尖閣諸島問題では「領土問題は存在する、それを『存在しない』というから世界にアッピールできない、正々堂々と領土問題は存在すると認めた上で、世界にアッピールせよ」と叫ぶのだが、しかし領土問題が存在すると認めること自体、尖閣諸島が『日本の固有の領土』という共産党の――そして日本の支配階級の――理屈を根底から掘り崩し、否定するものであることが分かっていないのである。

 

 「世界にアッピールすればうまく行く」といった志位のたわ言は、それが実践に移されるや否や、たちまちいたるところで破産を明らかにしている。

 

 例えば、共産党の“忠告”を受け入れたのかどうかは知らないが、玄葉外相はヨーロッパの英仏独などを訪問、尖閣諸島問題で日本の立場の正当性を訴え、EU諸国に味方に付くように要請したが、まるで木で鼻をくくるような挨拶を受けただけであり、共産党の戦略はたちまちその破綻をさらけだしたのであった。

 

 ヨーロッパ諸国が日本の味方に付くのを避けたのは、中国との経済的関係もあり、中国とのいくらかでも“良好な”関係を望んでいて、この問題で日本に味方するメリットを見出すことができなかったからだが、他方では、中国の“帝国主義的”やり方をよからずと思いつつも、日本もまた、一九四五年までの露骨な帝国主義政策を、中国に対する(今中国のやっているのと同様な)悪行狼藉の数々を全く反省していないと見ているからである、つまり喧嘩両成敗の装いに隠れたからである。かくして玄葉の試みはむだ骨折りに終わったのだが、それはまた共産党の政治的立場がどんなに愚劣で、観念的なものでしかないかを暴露したのである。

 

 ブルジョア国家相互の、帝国主義国家相互の「領土問題」が容易に国際的世論といったあいまいなものや、国際的組織(戦前の国際連盟、戦後の国際連合等々)の意思や、当事国相互の「話し合い」で解決するなら、そもそも最初からそんな問題は存在しないという、ごく初歩的なことさえプチブルたちには理解できないのである。

 

 共産党は、「尖閣諸島は日本の固有の領土」であるが、実際に尖閣諸島の帰属をめぐる争いが存在するではないか、そしてそれが現実として存在する以上、存在することを認めてお互いに話し合いのテーブルにつき、「道理を尽くして」話し合えば、相互に納得して解決できると言いたいのである。問題はかくして、共産党のプチブル的俗物たちが、この階級社会のすべての問題が話し合いや相互理解によって解決するといった、安直な幻想や願望に酔っているということに帰着するのである。

 

 実際、階級国家、帝国主義的諸国家の利害の対立や紛争が、すべて話し合いや「道理」に基づいて“解決する”――それがどんなものかは問わないとして――などと考えることは、労働者にとって途方もないことに思われるが――というのは、労働者は搾取されている自分の社会的な地位が、搾取されている状態が、ブルジョアたちとの、「同じテーブルについての」話し合いによって解決するなどと決して思わないし、思うことができないことを、日々の日常的な経験によって、よく知っているから――、気楽なプチブルたちは違うのである。

 

 しかし自覚した労働者は、尖閣諸島をめぐる日中の争いは、ブルジョア支配階級の利害の争いであり、国家の争いであって、労働者人民に何のかかわりもないことを確認し、日中の支配階級の争い、国家間の争いに対して、世界の労働者階級の国際主義と連帯した闘いを対置することによってそれに断固として反撃するし、しなくてはならない。

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