日本も含め全世界に広がった新型コロナウイルスの猛威は、労働者・働く者の生活に深刻な影響を及ぼしている。こうした中、コロナ対策、「コロナ後」社会に向けての様々な議論が行われている。

 

その代表的ともいえる一つは、「コロナ危機により労働問題や生活困窮、ハラスメント、差別に直面する人々の相談に応じてきた労働組合、NPO、学者、ジャーナリストからなるネットワーク」である「生存のためのコロナ対策ネットワーク」(以下「ネットワーク」の主張である。(雑誌『世界』6月号、「生存保障を徹底せよ」より)。

 

ネットワークの主張は、今回の新型コロナウイルス感染拡大のもたらした危機は、単純な感染症の拡大がもたらした社会危機ではなく、「新自由主義改革によって行政の能力が削減されてきた」ことによってもたらされた「より根本的な『社会危機』」であるとして言う。「この10年間、世界は『危機』を繰り返してきた。2008年にはリーマンショックが、2011年には東日本大震災が社会を揺るがし、社会保障制度や行政の対応力が問われてきた。しかし、度重なる危機においても、人々の生存権の保障のシステムは十分に整備されず、むしろ危機の原因を作り出してきた富裕層や大企業のための経済成長がさらに追求されてきた。金融危機時の大資本の財政支援や、巨額の防潮堤の建設、原発輸出の促進は、その最たる例であろう」。

 

安倍政権は、人々の「生存保障」をないがしろにし、富裕層や大企業のための経済成長を図ってきたが、それに続いて今回のコロナウイルスの問題でも人々の生活の困窮をもたらしているというのが彼らの主張である。

 

日本にもコロナウイルス感染が及んでくることが分かっていながら、安倍政権は、景気浮揚を当て込んだオリンピック開催を優先させ、コロナ対策は後手後手に回ったことや「行政改革」として感染症対策を担う専門機関である国立感染症研究所をはじめ保健所の大幅削減など医療、保健体制の削減がコロナウイルス感染を拡大させた要因となったというのはその通りであろう。しかし、今回の「社会危機」からどのような結論を導き出すのかが問題である。

 

彼らは、コロナ危機によって、人々の生活の危機が深刻となったとして、職や住居を失った労働者の賃金や職の保障や住居の斡旋をはじめ、感染者に対する医療、アルバイト学生に対する学費などの就学援助等々、「生存権保障」を提言している。「いま必要なことは、コロナ対策の前提である『生存権の保障』を徹底すること、そして(それにふさわしい)新しい経済モデルを打ち立てること」が大切だと訴えている。

 

コロナウイルスの蔓延によって、首を切られ職場を失ったり、賃金を切り下げられるなど困窮者に対して、政府に援助を要求することは当然である。しかし、今回の「社会危機」から、「生存権を保障する」「経済モデル」を追求することが社会運動にとって課題となっているというのはあまりに抽象的である。現在の社会に代わる「経済システム」については、どのような社会なのか。これについては「生存権を保障」する「システム」といったことが言われているだけで、その内容は定かではない。

 

「生存権の保障」ということなら、現在のブルジョア憲法でも謳っている。(25条「すべての国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する」)。第二次大戦後ブルジョア国家は「福祉国家」を掲げた。それは、イギリスの「揺りかごから墓場まで」の言葉に象徴されるように、国家による社会保障などブルジョア的改良によって、失業、生活苦の増加など資本主義の矛盾から労働者の目をそらせ、労働者を体制内に囲い込み、危機に陥った資本の支配を立て直し、継続するためであった。日本の新憲法の25条の規定もこうした流れを汲む条項である。

 

敗戦直後の危機を乗り切った日本資本主義は、その後、急速な経済成長(「経済の高度成長」)を遂げ、70年代初めには「福祉元年」が謳われ、国民皆保険、国民年金制度などの「福祉」制度が導入された。ブルジョア「福祉国家」は、資本主義の経済的な繁栄に依存したものに過ぎなかった。

 

その後、経済の「高度成長」の時代が終わり、経済が停滞の時代を迎える中で、税収が落ち込む中で国家は、借金を積み重ね、消費増税など労働大衆に負担を押し付ける一方、「福祉」や社会保障の削減を行うなど「福祉国家」のメッキはすっかり剥げ落ちた。

 

「ネットワーク」が、「生存を保障する」ための社会保障制度やの自然災害や感染病に備えた行政部門を削減してきたと批判する「新自由主義」は、国家財政による「福祉国家」批判から生まれた。新自由主義は、国家の経済への介入、「大きな政府」は、資本の自由な活動を妨げ、財政破綻、経済の停滞を招いたと批判し、国家の経済への介入を少なくし、利潤追求の資本の自由な活動こそが経済の発展をもたらすと主張してきた。新自由主義はケインズ主義に基づく「福祉国家」への批判から生まれたのである。だとするなら、ブルジョア「福祉国家」をイメージさせるような「生存権を保障」する「社会システム」といったことで済む問題でないことはあきらかであろう。

 

医学的な側面からみても、新型コロナウイルスによる世界的な伝播、災厄は、資本の支配と無関係ではない。今回の中国の武漢で発生した新型コロナウイルスは、コウモリなどの野生動物を通じてヒトに伝播、ヒトへの感染能力を獲得したものと言われている。新型コロナウイルスに限らず、歴史上猛威を振るい、多くの人命を奪ってきた疫病は、人間の自然への働きかけを契機とてもたらされた。例えば、麻疹(はしか)は、人類最初の文明が勃興したころ、犬あるいは牛に起源をもつウイルスが主を超えて感染し、適応した結果ヒトの病気となったという。麻疹ウイルスは、メソポタミヤで人類初の文明社会と出会い、そこを常駐の地としながら周辺地域に広がり突発的な感染を繰り返していたが、やがて世界各地で農耕が始まり、各地に一定規模の人口を持つ社会が出現するようになると、そこを常駐地として世界各地に広がった。(山本太郎、『感染症と文明』)

 

自然界に存在するウイルスや病原菌は、人間の自然との接触によってヒトに感染し、様々な感染病をもたらしてきた。しかし、人間の活動は自然への働きかけである以上、ウイルスや病原菌との接触は避けられない。問題は自然への働きかけが利潤目当てに、その影響を考慮することなく「あとは野となれ山となれ」式に、無秩序に行われていることである。その結果として、自然の中に存在していたウイルスや病原菌がヒトに感染し、疫病として広まる。

 

まだ医学が発展しなかった時代には、人間は感染症に対応できず、ヒトの身体に抗体ができるまで待つしかなかった。しかし、現代では、ヒトに害悪を与える種類のウイルスや細菌に感染しても、それに恐れおののくというのではなく、対応できる可能性があると言えるだろう。

 

今回の新型コロナウイルスに関して、感染の有無を判定や感染者を治療する病床などの医療施設、医者、看護師の人員などの医療体制の不備が暴露されたが、その原因は利潤の獲得を目的とする資本の体制にある。資本とその国家にとって労働大衆とその家族の疾病や怪我、障害などに対する医療体制の整備は、搾取材料としての労働力の確保のために一定の程度必要であるが、それ以上ではない。

 

一方、新型コロナウイルスで、経済的に大きな被害を受けたのは、労働大衆である。とりわけ臨時労働者や派遣などの多くの労働者は、真っ先に首を切られ、日々の生活にさえ困難を強いられている。

 

こうした事実は、新型コロナウイルス感染被害の問題が、資本の支配と結びついていることを明らかにしている。ヒトが新たなウイルスとして新型コロナウイルスに感染したこと自体が問題ではなく、わずかな間に世界中に蔓延し、数百万という感染者を生み出し、多くの生命を奪っている、そして最も大きな犠牲を被っていのが労働大衆であるということが問題なのである。もし、感染の初期に適切な医療的な措置が取られ、またその情報が世界的に共通のものとされていたら、現在のような酷い状況は避け得ただろう。そうならなかったのは、資本主義の体制にこそ原因がある。

 

新型コロナウイルスの急速な世界的な拡大に関して、資本の国境を越えたグローバル的な活動の結果だとして、これを規制すべきとか、地域的に数か国がまとまり、原料獲得、生産、商品販売で相互に補うような地域的なブロック経済圏を目指すべきとの議論がある。資本によるグローバリゼーションが、ウイルス感染のパンデミックをもたらしたというのは事実であるが、ここから今後目指すべき経済として、ブロック経済とか自給力を高めた経済などを説くことは、国家対立を煽る、歴史的進歩に逆行する反動的な議論である。克服すべきは、経済の結びつき、相互依存ではなく、利潤獲得を目的とする資本による生産だからである。

 

 新型ウイルスの蔓延から導かれるべき教訓は、「生存を保障」を実現する「経済システム」の追求といったブルジョア「福祉国家」の焼き直しのようなことではなく、労働の搾取を原理とした、利潤獲得を生産の目的とする資本主義を克服した社会をめざすということである。

 

コロナ禍で失業したりした生活困窮に対して、国家に支援を要求することは必要であり、当然である。共産党ら野党は、与党も野党もない、困難に対して一致して、対応していくべきだと叫んでいる。彼らは政府の所得制限なしの一律10万円支給は元々自分らの提案であり、政府に認めさせたと喧伝している。共産党は「一人10万円だが、国民一人一人への給付は、ほとんど消費に回り、経済活動を刺激する」とその効能を訴える。国家の個人への支援は需要を喚起し、コロナウイルスによって縮小してきた経済活動回復に役立つという共産党は、資本主義的生産の復興をたすけるといって恥じないのである。

 

労働者は、階級協調主義に惑わされることなく、資本に反対する階級的闘いを前進させていかなくてはならない。  (T)