労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

横浜労働者くらぶ

ハワイの移民事情

 多く語られることのないハワイへの移民たちによる労働者の闘いを伝える「ハワイの移民事情」について紹介します。(神奈川でマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」発行の『労働者くらぶ第312023年7月19日刊』から)

ハワイの移民事情


 世界保健機構(WHO)は世界の新型コロナウイルスの感染状況が改善傾向にあるとして、5月5日「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」を解除した。これを受け日本でも8日付けで、全世界に発出しているレベル1「十分注意してください」を解除した。

 

4月末の連休の始めには新型コロナウイルスの感染症の分類を2類相当から5類への引き下げに伴い、新型コロナウイルスに関する規制が解除され、水際対策なども無くなりいわゆるコロナ前に戻ったのである。そして5月の連休では国内旅行はコロナ前の状態に戻ったと言われ、海外旅行に関してはこれからといった状況である。円安の進行の下ではなかなか海外旅行とはいかない。そこで政府は海外旅行へのバラマキ支援策の大盤振る舞いをこれから始めようとしているのである。

 

日本人の海外旅行の人気はハワイが高い。ハワイと日本とのかかわりは古くて深く、1868年にはグアムとハワイへ向け日本人の移民が始まった。江戸幕府から明治政府への移行期にあり、パスポートなども手にすることなく外国の地を踏むことになった。ハワイへは153人が渡り、後に彼らは明治元年にちなみ「元年者」と呼ばれるようになった。

 

日本人の移民の流れはハワイ、アメリカ本土、ブラジル、そして南洋、オーストラリアへ向かい、1920年代には日本の移民政策は最盛期を迎えた。移民は受け入れ国政府の労働力補充の経済的要請であり、経済を維持し国家を守るための資本主義の延命政策、賃金奴隷の輸入である。実際移民で渡航した人々の労働は過酷で、ルナと呼ばれる現場監督が鞭で殴るなど酷使や虐待が行われ、1日炎天下の10時間労働、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を引かれた文字通り半奴隷のような生活であった。

 

当時のハワイ王国はイギリスの臨時政府の手からアメリカやフランスの支援を受け主権を回復していったが、今度はイギリスに変わりアメリカの植民地支配が広がっていくことになるのである。1893年アメリカ軍はクーデターによりハワイ王国を終焉させ、1898年にはアメリカはハワイ併合へと進んでいくのである。

 

  1868年から始まったハワイへの日本人移民は1900年までは国や民間企業の斡旋によりやってきた契約移民、そして1908年までは自由移民と呼ばれている。ハワイへの移民は日本からだけでなく1830年代には中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェーなどから移民が始まり1850年外国人による土地所有が認められるようになると、白人の投資家たちによってハワイ各地にサトウキビ農園が設立され、一大産業へと急成長した。アメリカの南北戦争などの影響によりサトウキビの需要が更に高まり、ハワイ王国は世界有数のサトウキビ輸出国となっていった。
製糖工場で働く日本人移民労働者

 

1900年を超える頃にはサトウキビ労働者の70%を日本人移民が占めるようになり、日本人移民は定着率が高く、この時期までに22万人がハワイへ渡ってきている。ハワイ準州となったことでアメリカ本土の法律が適用されることにより、1924年増加する日本人移民に対し移民法を成立させ、日本人移民のハワイへの移住は不可能になっていく。しかし定住した日本人の子孫が増加したことから、ハワイの全人口の日本人移民と日系人の割合が増加を続け、ハワイでの最大の民族集団になっていった。

 

ハワイ王国の時代の日本人移民は過酷な労働条件、不当な扱いの改善を要求し激しく農園主との戦いが繰り返された。1900年までには数百件のストライキが行われたが、農園労働者の待遇改善の訴えは当時の当地法によって違法とされていたため、指導者たちは牢獄へ送られ待遇改善には至らなかった。

 

アメリカのハワイ合併後は1900年までのハワイの基本法が廃止され、過酷な労働条件は緩和されていきストライキ件数も減少していった。1908年日本人移民の法学者が『日布時事』でハワイとアメリカ本土の労働条件の格差を指摘し、再び労働者の待遇改善を主張したことにより給与の引き上げを支持する「増給期成会」が結成され待遇改善運動が広がり、1909年待遇改善運動に呼応した日本人労働者によってオワフ島各地の農園で一斉に7000人規模のストライキが実施された。これに対し農園経営者の協会はストライキ参加者らとその家族に対し受け入れを拒否し、立ち退き命令を出した。この結果5000人以上のストライキ難民が発生し都市に溢れた。活動家たちは耕地農業妨害罪などで逮捕され、ストライキそのものは失敗に終わったが、経営者側に労働環境の見直しを認めさせ増給をも勝ち取ることとなった。

 

その後第一次世界大戦などの影響によりインフレが進行すると、1920年には他国の労働者も合わせた全農園労働者の約77%が参加したハワイ史上最大のストライキがオワフ島を舞台に展開された。このストライキで1万人以上の日本人労働者が農園から追放されたが、結果的には5割の賃上げを勝ち取り同時に労働環境の改善も勝ち取ることとなった。しかしこうした移民の闘いは労働者の階級的闘いへ発展することは出来なかった。半奴隷的状態から抜け出すための闘いであり、賃金や住居の改善などもっぱら待遇改善の闘いに終始したものであり、従って、資本の勢力との戦いを挑むまでに成長することはなかった。

 

ハワイへの移民たちによる労働者の闘いが多く語られることはないが、日本とハワイとの関係において移民の闘いは決して忘れ去られていいことではないだろう。人気のリゾート地での日本人移民の闘いの限られた歴史や痕跡を辿るのも少し違った意味でリゾート地での過し方ではないだろうか。マリンスポーツやショッピングだけでなく機会があれば是非移民労働者の闘いのエネジーが伝わる場所へ足を運んでもらいたい。 (Ku)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

8月の予定

「経済学・哲学草稿」学習会 ・8月16日(水)1830分~2030

・県民センター 702号室

・第3草稿の2「私有財産と共産主義」 ~4「貨幣」まで

「資本論」第1巻学習会 ・8月9日(水) 1830分~2030

 ・県民センター 702号室

・第7篇「資本の蓄積過程」第22章第3節~第23章第1節まで

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

的場氏の「プルードン擁護」に反対する

神奈川でマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の発行している「労働者くらぶ」第26号から、的場昭弘氏に対する批判を紹介します。(一部書き直しています)

 

的場氏の「プルードン擁護」に反対する

 

★『哲学の貧困』はなぜ難しいか

 

『哲学の貧困』の学習会もようやく2回目に入ろうとしています。参加者の皆さんは、私同様、難解な本書の理解にご苦労していることと思いますが、その原因には、本書がマルクスの思想形成の途上に書かれた著作であることもありますが、また私たちが、プルードンの主張をマルクスの要約を通して理解せねばならず、その要約もマルクス独特の皮肉を含んだもので、なかなか理解できないからです。要するに、プルードンの主張とマルクスの批判がともにすっきりと把握できないからです。そこで私がお勧めしたいのは、どの文庫本の翻訳にも付録としてついている「マルクスからアンネンコフへの手紙」(1846年12月28日)です。この手紙は、マルクスがプルードンの『貧困の哲学』をわずか二日間で読んで、直ちにロシア人の友人にその感想を送ったものですが、マルクスは、この手紙でプルードンの小ブルジョア的、空想的な思想を完膚なきまでに批判しており、これを読めば『哲学の貧困』を読む必要がない、とまで感じるほどです。

 

ところで、「労働者くらぶ」24号で、Aさんが神奈川大学の的場さんの「プルードン擁護」を紹介してくれています。的場さんはマルクスの翻訳や紹介で有名ですが、その分、氏の影響も少なくないと思います。氏のプルードン擁護を批判する必要があると考えました。

 

★経済こそ人間社会を解明するカギである

 

Aさんの的場論文の要約を読みますと、的場さんはマルクスの唯物史観や経済理論を評価しながらも、「マルクスは、経済学の延長線上で、プルードンの論理の矛盾を指摘し、(プルードンの)経済学への無理解がプルードンによる貧困の経済的解決を不可能にしていると(マルクスは)批判する。マルクスのその点の指摘は、けっしてまちがっているわけではない。むしろマルクスは、きわめてシャープであり、論理の一貫性もある。そしてそれは『資本論』にまでつながっている側面を持っている」と、論じています。しかし、的場さんの論じ方(評価の仕方)では、経済学が他の学問と同列になり、人間や社会にとって経済がもつ本質的な重要性が見失われてしまいます。

 

的場さんは、マルクスが「経済学の延長線上」でプルードンを批判するのは、「けっしてまちがっていない」と述べています。わたくしは、的場さんが、マルクス研究者として唯物史観つまり人間にとって経済のもつ意義を十分に理解していると思いましたが、マルクスが間違っていないというのなら、プルードンの方が間違っていることにならないでしょうか。的場さんは、「プルードンは、価値や、競争、分業といった経済的カテゴリーは、歴史的に廃棄されるものではなく、ただ調節されるものである」と主張した、と述べています。しかしこれこそ、マルクスがプルードンを批判する、その小ブル性、非歴史性ではないでしょうか。マルクスは、商品経済の基礎である価値、競争、分業といった概念が、永遠のものではなく歴史的なものであること、そんなものが長く存在しなかった時代があったこと等を述べて、プルードンを批判しているのです。

 

★「人間の意志」は社会の生産関係から独立したものではない

 

さらに的場さんは、「プルードンが見つけた新たな視点」として「資本主義の矛盾が生産力の発展と生産関係の矛盾によってたとえ起こるとしても、それを乗り越えるために、人間の意志と社会に対する組織化の問題を解決できない限り、新しい社会の展望はないという視点」を挙げています。「資本主義の矛盾」(その必然性を「たとえ」などと言ってごまかしていますが)を「人間の意志と社会の組織化によって乗り越える」と言っています。しかし、これこそマルクスがあまたの空想的社会主義者たちを批判してきた点です。人間の意志はその人間が属する社会、その生産関係から独立したものではありません。その社会の矛盾の中から矛盾を解決する人間の意志も方便も成長してくるのです。「社会の組織化」も同様です。社会の組織化も、自由にその社会を組織できるのではなく、その社会の矛盾の中から新しい社会の組織化の方向や手段も成長してくるのです。

 

的場さんは「マルクスとプルードンのこのすれ違いのなかに、新たなる未来社会の可能性があるように思える。」と言っていますが、これは、すれ違い(すれ違いではなく対立です)と言ったものではなく、マルクスとプルードンのどっちも否定したくない、評価したいという的場さんの折衷主義的立場が表れています。そんな折衷主義は、この両者の論争では通用しません。マルクスが正しいか、プルードンが正しいか、どちらかです。的場さんともあろうものが、「人間の意志」を「新しい視点」などと評価するのは驚きです。彼は唯物史観を本当に理解しているのでしょうか。

 

★プルードンの小ブル性―人間主義、その他

 

以前、私はプルードンを読まないでプルードンを批判するのはよくないということで、彼の思想をよく表しているという『19 世紀における革命思想の一般的理念』(「世界の名著」53)を読んでみましたが、その中でプルードンは革命と反動について次のように述べています。

 

「反動の本能がすべての社会制度にとって固有のものであるように、革命の必要もまた同様に不可抗的である。これら二つの事態、つまり反動と革命は、両者間の対立関係にもかかわらず、人類にとって必要不可欠であること、したがって、社会を左右から脅威する暗礁を回避するための唯一の手段は、…反動を革命と永久に妥協せしむることである。」(p82)

 

 見られるように、プルードンの立場は、革命と反動との妥協主義、協調主義です。また同書の中でプルードンは、「私は、人間の意図の善良性を常に信じていることを誇りにしている。この善良性がなければ、政治家の無罪はどうゆうことになるだろうか?」(p95)などと述べています。ここにはプルードンの人間観―性善説や小ブル的な人間主義が表れています。またプルードンは、所有(財産)権に対する攻撃で有名ですが、その財産に対する攻撃(「所有とはなにか」「それは窃盗である」)自体が、私的な所有権に対する全面否定ではなく、大きな所有、巨額な財産に対する攻撃であって、小さな所有、生産手段の小所有はむしろ人間にとって不可欠であり、自立した人間にとって必要であるとして擁護し、むしろ社会改革の目標としているのです。

 

★マルクスとプルードンの決裂は必然

 

このような小ブル的思想家のプルードンとマルクスが決裂するのは、当然すぎるほど当然と言わねばなりません。プルードンは、ヘーゲルや経済学者たち(アダム・スミスをはじめとする古典派経済学者)を批判し、あたかも自分を彼らに比肩する思想家を気取っていますが、ヘーゲルのような壮大な観念弁証法の体系も作れず、またブルジョア社会の経済を徹底的に解剖することもできなかったプルードンのやったことと言えば、両者の成果の切れ切れをとってきて、折衷的、空想的な体系(?)を作ったにすぎません。

 

また的場氏は、プルードンは、「当時は明確に存在していなかった社会学という分野を切りひらきつつあったのに対し、マルクスは、従来の経済学という土俵の上から批判していた。」として、社会学を経済学の上におき、プルードンを社会学の先駆者として、マルクスより優れていたと評価するのです。しかし社会学は、社会現象を深く掘り下げもせず、その表面を“這いずり回る”だけのブルジョア的学問であり、マルクスの経済学に代わるような学問ではありません。このような学問を評価するところに的場氏のブルジョア性が表れています。

 

★唯物史観に立ち、労働者の階級闘争を発展させよう

 

最後に、Aさんも指摘していましたが、的場氏は、大方の学者やマスコミ同様、旧ソ連邦などを社会主義国家と規定していること、また最近はやりの“アソシアシオン”論などについても言及していますが、ここでは省略します。

 

マルクスは、プルードンの様々な側面を徹底的に批判し、プルードンが、資本主義的生産様式をそのままにして、彼の平等社会を実現しようという空想的試みを嘲笑しています。しかし現代の資本主義社会には、さまざまに形を変えて第二、第三のプルードンが次々と登場し、また的場氏のようにその擁護を買ってでるインテリも少なくありません。彼らに共通するのは、資本主義を廃絶することではなく、資本主義の様々な改良を提案していることです。唯物史観を基礎に剰余価値説を中心にしたマルクスの経済理論を武器に、労働者の階級闘争を発展させていくこと、これこそ労働者派、社会主義派の使命ではないでしょうか。(K)

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内

 ― 3月の予定—

◆「資本論」第1巻学習会

3 月8日(水)18 30 分~20 30

・県民センター 703 号室

・相対的剰余価値の生産

― 第13 章「機械設備と大工業」(続き)

 

◆「哲学の貧困」学習会

3 15 日(水)18 30 分~20 30

・県民センター 703 号室

・第2章「経済学の形而上学」2節以下全部(付録含む)

 

◆「経済学批判」学習会

3 22日(水)18 30 分~20 30

・県民センター 701 号室

・「経済学批判序説」

 

◆「資本論」第3巻学習会

3 22 日(水)18 10 分~20 30

・県民センター 704 号室

・第 7 篇「諸収入とその源泉」50 章から終わりまで(エンゲルスの補足含む)

 

連絡先

Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

 

パリ・コミューン150周年ーー『労働者くらぶ通信』紹介

コロナ禍の緊急事態宣言で中断していた『横浜労働者くらぶ』が10月からようやく学習会を再開します。発行している『労働者くらぶ通信』第9号では『フランスの内乱』の学習会が始まるのと今年がパリ・コミューン150周年ということで、記事が寄せられました。

ここでは、パリ・コミューンにおける民衆運動をまとめた記事とパリ・コミューンの活動とその歴史的意義についての記事を紹介します。(一部加筆)

 

 

パリ・コミューンにおける民衆運動

 

《民衆の行動》

 

187094日、セダン降伏(プロイセンとフランスとの戦争でフランス軍が敗れた。セダンSedanは北フランスの都市名。830日のボモンの戦いで大打撃を受けフランス軍はセダンに向けて退却したが、91日セダンの近郊で捕捉され、壊滅的な打撃を受けた。ナポレオン3世はパリからセダンにきていたが、この敗北で士気を阻喪し降伏。翌2日フランスのビムプフェン将軍は、8万人以上の兵士を捕虜として引き渡すという降伏状に署名。3日にはナポレオン3世も捕虜の身としてドイツに送られた)の報にショックを受けたパリ市民は自然発生的に蜂起し、約50万の市民が立法院会議場に押し寄せ、議会共和派に帝政廃止と共和制の宣言を迫った。民衆運動の介入と圧力により議会共和派は帝政廃止を宣言した。ブルジョア共和派は革命派を排除した新政府(国防仮政府)を成立させた。

 

95日、400500人の労働者代表はオマール街の小学校に集まり、帝政時代の官吏と治安警察官の追放または逮捕を要求、また首都の緊急防衛体制の必要を確認した。同時にパリの二十区がそれぞれ新市政機関と国防政府の行動を監視する為「監視委員会」を設置する勧告を採択し、早急に実行された。

 

913日、インターナショナルの働きかけにより各区監視委員会の代表4名、計80名で構成される「パリ二十区共和主義中央委員会」を設立した。二十区中央委はパリ市会と司法官の選挙、出版・集会・結社の自由、生活必需品の徴発とその配給制、全市民の武装、旧警察機構の解体、そして地方を立ち上がらせるための諸県への委員の派遣を要求した。

 

民衆の願望はパリ防衛の責任を国防仮政府から自分達の手に移したいということだった。もはやパリの防衛を政府に期待する事が出来ず、パリ市民みずからが自治権の名においてそれに当たろうという意思の表現であった。政府はプロイセン軍よりも、国民軍(武装した民衆)の方が恐ろしかった。「赤」の脅威を除くために和平の道を模索し始めた。

 

918日からパリは包囲網に陥りヴェルサイユ、ストラスブールも敵軍の手に落ちた。中部以北のフランスの国土はプロイセン軍に四方八方から蹂躙された。民衆の自主管理組織としてのコミューンの選挙を要望する声が湧きおこってきたのはこの様な情勢だった。

 

922日、二十区中央委は「パリ・コミューン」と「人民自身による直接民主政府」を要求する宣言を発した。26日「即時市会選挙を要求する声明」に呼応して140名の国民軍大隊長が市庁舎に赴きパリ選挙人の即時招集を要求、国防政府代表に選挙を約束させた。しかし政府は前言を翻して、戦局の重大化を口実にパリ市会選挙の無期延期を声明した。

 

政府は、17万余の兵力を擁するバゼーヌがほとんど抵抗をせずに最後のフランス正規軍の主力をメッス要塞もろともプロイセンに引き渡したと公式に発表した。民衆は政府に騙されたと知り、1031日、市庁舎に押し寄せ国防政府の失権を宣言し、コミューンの選挙管理委員会の指名を要求したが、政府はブルジョア地区の国民衛兵を動員してこれをおさえた。「国民軍から大砲をとりあげなければ中枢部の麻痺したフランスは賠償金を支払えない」というブルジョアからの強い要請でティエールはパリ制圧を急いだ。

 

1871318日、市内各所の大砲陣地の奇襲、奪還と同時に警視庁の手で国民軍中央委、二十区代表団、インターの指導者を一斉逮捕し、その組織を破壊する奇襲作戦に出た。しかし、自然発生的に立ち上がった民衆・国民軍兵士の抵抗と正規軍兵士のねがえりにあい、この奇襲作戦は失敗に終わり、蜂起は全パリを支配し、ティエールはヴェルサイユに逃亡した。

 

19日、市庁舎で行われた区長と国民軍中央委の交渉で区長のクレマンソーは「議会の権利を認め、市庁舎を区長とパリ議員に引き渡しヴァンドーム広場に退去せよ。 そうしたら、自治権の獲得を議会に認めさせることを約束する」と提案した。中央委の多くは妥協の方向に傾きかけた。これを立ち直らせたのは二十区代表団と各区監視委、クラブに集まった民衆勢力の下からの力強い介入であった。

 

320日、二十区代表団と各区監視委の合同会議では国民軍中央委の無気力と区長らの欺瞞作戦に乗っていることが痛烈に批判され、ブランキ派の強硬論が大勢を制し「状況のもたらす結果に責任のある国民中央委は市民的権力も、軍事的権力も放棄できない」との決議が成立した。

 

326日、コミューン評議員の選挙が全市で施行され、28日コミューンの成立を宣言する式典が執行された。

 

《コミューンとは》

 

パリ・コミューンは民衆革命であった。コミューン派はパリ住民大衆である。その内訳は職人的手工業労働者、学者、ジャーナリスト、文士、芸術家、学校教師などプチブル的色彩が濃厚である。

 

「パリ・コミューンの宣言」において共和制の承認と強化、予算編成権・コミューン官吏の任免権、個人の自由、労働の自由、その他基本的な人権の保障、国民軍の選挙制などを宣言した。

 

パリ・コミューンの民衆運動は労働者の固有の組織ではなく、地区を単位とする一般住民の組織を主要な基盤としていたといえるが、それには三つの系列が挙げられる。

 

第一は監視委員会でその中央連合機関が二十区中央委である。民衆組織と言ってもインター派、ブランキ派のほか無党派の人々からなる積極的な活動家たちの組織である。監視委員会は各区の活動の中核的存在であり、多くの民衆地域では区の行政を掌握した。

 

第二は国民軍連合で、愛国主義ないし共和主義で結ばれた無党派の大衆組織である。その中央機関の国民軍中央委はコミューン選挙で二十区中央委に主導権を譲ったがコミューン成立後は軍事指導の権限をめぐってコミューン議会の競争相手となった。下部組織が各区ごとの軍団評議会であり、区行政をめぐって監視委員会の対抗勢力となった。

 

第三は民衆クラブである。これは各地区の男女市民のコミューンに関心を持つ民衆の組織であった。国防政府成立後の集会の自由によりクラブが学校・劇場・公会堂・キャフェなどに出来た。クラブ設立の主導権を取ったのはインター派の多い監視委員会、ブランキ派、ジャコバン派などの活動家集団でそのためクラブには若干の特定の傾向があるが、クラブは特定活動家の道具ではなく、地区の自発的な民衆を主体とする大衆組織であった。

 

クラブはコミューンを支援する民衆的情熱の大衆的発露の場となった。各クラブでは社会問題ではブルジョア国家の財産権と特権と独占が激しく攻撃され、政治問題では、官僚的集権制の解体と官吏の粛清が叫ばれ、教育・宗教問題では無料義務教育と職業教育の必要が説かれ、また反教権主義の運動が強力に推進された。

 

《民衆の意識》

 

「血の週間」直前のパリの様子はバスティーユ広場には菓子の露店が並び、回転台がにぎやかに回り、軽業師の呼び声が高く、陽気な雰囲気がみなぎっていた。ルーブル美術館はいつもの)様に公開され、劇場は毎晩大入り満員である。パリ民衆は危機を目前にして呑気さともいうべき陽気さを保っている。

 

アンリ・ルフェーヴルは祭りと指摘した。「祭り」とは未来への思惑や構想、行為の実際的効果という日常的な配慮から解放された行事である。民衆は局地的・直接的な管理や生活の擁護で充足し、ヴェルサイユ側の反応やコミューンの行く末という全体問題についてあれこれ計算せず、318日の成功を直ちに「祭り」に転化させた。

 

コミューン派の戦闘に対する態度(極度の緊張と結びついた一種の呑気さ、深刻な事態を一種の即興に切り替える陽気さ)には時間的な推移や全体的な展望への欠如が認められる。このことは、民衆運動の基本的な単位が地区ごとの自律的な組織であることにより、民衆にとっては彼らが生身で感じ得る局地的な地域共同体が全てであり、彼らの現実であったことが関連している。

 

民衆はまずコミューンを制度的に概念化し、ついでコミューンを要求したのではない。パリの民衆にとって「共和国」とは大統領や言論の自由といった機構や制度や政体ではなく、食料統制・総動員性・バリケードといった社会的内容をもつ実践そのものであった。

 

《結 果》

 

パリ防衛を目的とした民衆の自然発生的な蜂起を指導し、社会主義革命を目指したのがブランキ派、ジャコバン派、インターナショナルだった。しかし、民衆はプチブル的色彩の強い職人、商店主等であった。彼らは社会主義革命の明確な観念を持っていなかった。また、コミューンを指導すべきグループ内に対立が起こりコミューンの運営はうまくいかなかった。コミューン議会の多数派と少数派の対立の原因は民衆運動の沸騰にどの様に対応していくかという革命路線の違いにある。

 

多数派(ブランキ派、ジャコバン派)は中央集権的な独裁体制を樹立し「恐怖政治」をしく方向に解決を求め、これに反発して少数派(インターナショナル)は直接民主制の本義へ回帰することにより革命のエネルギーを汲み上げようとした。寄せ集めの指導グループは民衆を指導できず無能ぶりをさらけ出した。また国民軍中央委とコミューン評議会との間にも摩擦があった。

 

この様なコミューンの内紛がヴェルサイユ側につけ込む余地を与えた。ティエールは58日にパリに最後通告を発し、13日、パリの城壁に迫った。パリの市街は連日の砲撃にさらされた。528日コミューン派の最後の銃声がやみ市街戦は終了し全市はヴェルサイユ軍の手に帰した。パリ・コミューンは72日間の短命に終わった未完の革命である。  (Y

 

 

 

エンゲルスの怒り

―― パリ・コミューンの活動とその歴史的意義は?

 

エルフルト綱領草案をみたエンゲルスは、ゴータ綱領などとちがって、ラサール主義特有の伝統などの遺物がとりのぞかれていると、評価している。しかし、エンゲルスがこの草案をみて、もっとも危惧したことは、ドイツ社会民主党の日和見主義の傾向があらわれていることである。それは社会民主党の大部分の新聞雑誌をみれば明らかで、根深いととらえることができるとしている。

 

「だが、ドイツでは公然たる共和主義的な党綱領をかかげることさえ許されないという事実こそ、ドイツで共和制を、いや共和制ばかりか共産主義社会までも、のどかな、平和的な道によって樹立できるかのように考える幻想が、どんなに途方もないものであるかを証明するものである」と、喝破している。

 

共和制のことに触れることができなければ、少なくとも「全政治権力を人民代議機関の手に集中せよ」という要求を入れるべきであったと、エンゲルスは綱領草案を批判している。

 

エンゲルスの危惧は、的中してしまう。ドイツの著しい経済的発展とともに日和見主義の傾向の顕現化は、その後の歴史が証明している。

 

カール・マルクス『フランスにおける内乱』(1891年版)への序文を、マルクス亡き後、エンゲルスはかなりの筆をさいて、この文をドイツ労働者にむけてかきすすめている。

 

まずパリ・コミューンにいたるルイ・フィリップから二月革命、第二帝政の状況を、資本家と労働者階級との闘争という視点で、歴史的流れが簡潔に述べられている。次にパリ・コミューンの活動と歴史的意義をふりかえっている。コミューンの議員は、ブランキ主義者とプルードン主義者からなっていたが、コミューンの取った行動は、どちらにも偏らないプロレタリア的であったとエンゲルスは論じている。

 

組合を批判したプルードンの主張に反して協同組合の組織化をすすめ、プルードン派の社会主義の墓場ともなったとのべている。しかし、コミューンの重大な政治的誤りの一つはフランス銀行を差し押さえ、完全にコミューンの支配のもとにおかなかったことだ、もしフランス銀行がコミューンの手にあれば、それは一万人以上の人質よりも値打ちがあったのだ。

 

とはいえ、コミューンが行おうとしたことは、プロレタリア的であることが多く、賞賛に値するとし、その具体例をあげている。労働者階級が支配権を獲得したならば、古い国家機構を用いてはものごとを処理してゆくことはできないことを理解していた。その点は第3章でマルクスが詳しく展開しているところ。

 

最後に、エンゲルスは「ドイツの(社会民主党の)俗物は、近ごろプロレタリアート独裁という言葉を聞いて、またもや彼らにとって薬になる恐怖に陥っている。よろしい、諸君、この独裁がどのようなものかを知りたいのか? パリ・コミューンを見たまえ。あれがプロレタリアト独裁だったのだ」と述べて、この序文を締めくくっている。(A

 

横浜労働者くらぶ

Mail: yokorouclub@gmail.com

https://yokorou.blog.fc2.com

《横浜労働者くらぶ》の会報の紹介

神奈川で学習会活動を取り組む《横浜労働者くらぶ》の会報を紹介します。

神奈川6-1

神奈川6-2

神奈川6-3

神奈川6-4
★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
★「搾取の廃絶」と「労働の解
  放」の旗を高く掲げよう!
★労働者の闘いを発展させ、
  労働者の代表を国会へ!
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