労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

社会主義運動

平民社以後の社会主義運動(2)

先月に続き、神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第46号で、平民社後の昭和に入ってからの社会主義運動について紹介しています。日本における社会主義運動について理解する参考になると考え、紹介します。(担当)

 

 

平民社以後の社会主義運動(2)

 

「労働者くらぶ」前号(45 号)で「平民社後の社会主義運動」について述べましたが、大正末期で終わってしまい、昭和に入ってからの活動については、ほとんど触れることができず中途半端に終わってしまいました。そこで今号では、昭和に入ってからの10 年間ほどの運動(主として共産党の活動になるが)に簡単に触れて補足したいと思います。

 

先に述べましたように、日本共産党は、コミンテルンの日本支部として1922 年(大正11 年)7 月に秘密裏に結成(堺利彦委員長)されますが、党の綱領や規約もない、党とは名ばかりのもので、主要メンバーの翌年の検挙であえなく壊滅してしまいます。関東大震災の大杉らの虐殺や政府の弾圧もあって、解党論が主流になり、24 4 月に解党してしまいます(第1 次共産党)。

 

堺や山川らの解党派は、共産党を離れていきますが、解党派は、山川が第1次共産党結成時に発表した論文「無産階級の方向転換」に従って、合法的な無産政党の結成に向かっていきます。そして27 年には「労農」を創刊し、論文「政治的統一戦線――無産政党合同論の根拠」を発表し「共同戦線党」の結成を提唱します。山川の「方向転換」論と「共同戦線党」論の意義については前号で触れましたので省略します。

 

一方、再建派は、26 12 月に党再建(佐野文夫委員長)を果たします。この時、再建共産党の理論的指導者になったのは福本和夫です。福本は、思想的に純化したマルクス・レーニン主義の党を作り上げるとして、理論闘争を重視した「分離・結合」論を提唱しますが、この左翼急進的な方針は、政治運動、組合運動、さらには文化運動にまで分裂主義やセクト主義を持ち込むことになりました。この福本イズムは、コミンテルンから批判され、撤回されますが(福本も自己批判)、その後も長く共産党の運動に影響します。

 

25 年の普通選挙法(同時に治安維持法も成立)に基づいて最初の総選挙が28 2 月に実施されます。再建された共産党は、合法無産政党である労働者農民党を隠れ蓑にして、共産党の党名入りのビラを配布するなどして公然たる宣伝活動を開始しますが。無産政党各党は、計8 名の当選者を出しますが、これに恐怖した政府は、総選挙の3 週間後の3 15 日に、全国の共産党員やシンパの一斉検挙を行います(3・15 事件)。

 

さらに翌年4 16 日にも残った党員やシンパの一斉検挙が行われ(4・16 事件)、再建されたばかりの共産党は大打撃を受けます。この2度の大弾圧によって共産党は、経験豊富な幹部をことごとく失い、指導部は、未熟な活動家によって構成されることになります。416 後に再建された共産党の委員長になったのは、田中清玄(当時23 歳)でありもう一人は佐野博(24 歳、佐野学の甥)でした。彼らの打ち出した方針は、武装自衛団、武装デモ、赤色テロなどの極左的冒険主義でした(武装共産党)。

 

もっとも、これらの過激な方針が採択されたのには背景があります。当時は、29 年にアメリカから始まった大恐慌が世界に拡大していくときにあたり、コミンテルンは、社会民主主義者を敵とした急進的な「社会ファシズム」論を採用します。また国内においても金融恐慌や世界恐慌の影響が深刻になり、労働争議や小作争議が頻発し階級闘争の高まりがありました。指導部の二人は30 年に相次いで逮捕されて武装共産党は壊滅します。

 

彼らに代わって新しい指導部についたのは,クートべ(ソ連の幹部養成大学)帰りの風間丈吉(28歳)と飯塚盈(みつ)延(スパイM)です。この指導部によって武装共産党は修正されますが、しかし社会ファシズム論に基づいて、社会民主主義者との闘いに熱中し、セクト主義はそのままです。もっとも、「大衆へ」のスローガンを掲げて、この時期の共産党は、戦前で最も勢力の拡大した時期といわれます(党員は約600名ほど、「無産者新聞」2万~4万部、「赤旗」約7000部)。

 

この頃の共産党は、319月に満州事変が勃発したときにあたり、「非常時共産党」(31年~32年)と呼ばれます。しかし、この共産党も、3210月の熱海事件の大検挙で壊滅してしまいます。そのあと短期間、山本正美や野呂栄太郎の委員長が続きますが、野呂の時に幹部に昇格したのが宮本顕治です。

 

野呂が逮捕された直後に起こったのが「スパイ査問事件」(3412月)で、このとき査問の責任者になったのが宮本であり当時24歳(彼もまたスパイの通報でその直後に逮捕される)でした。

 

そして、ただ一人の中央委員に残った袴田里実が357月に逮捕されて、名実ともに戦前の共産党は消滅するのです。この間、336月に、416事件で逮捕されていた幹部の佐野学と鍋山貞親が獄中から転向声明を出します。続いて田中清玄、風間丈吉等、主だった幹部や多数の党員が雪崩を打ってそれに続きます。

 

33年に野呂らによって再建された共産党も、その直後に指導部の検挙や「スパイ査問事件」などで解体してしまいます。ですから戦前の共産党の活動は、2612月に共産党が再建されて以来、33年に消滅してしまうまでの実質8年間位です。

 

22年(大正11年)に結成された第1次共産党は、山川ら社会民主主義者を含んだ、ほとんど実態のない党でしたから、今日まで続いている日本共産党とは別個に考えられます。

 

戦後の共産党を長く指導した宮本顕治の戦前の党活動も23年ほどにすぎません。戦後の共産党の幹部らは、「獄中18年」(徳田久一)とか「獄中12年」(宮本顕治)とかの「非転向」を誇っていますが、軍部ファシズムの本格的な台頭や帝国主義戦争の勃発を前にして、前衛としての共産党は、(レーニンが言った「戦争を内乱へ」どころか)どんな役割も果たすことなく、崩壊してしまったわけです。

 

こうした共産党の党活動の理論の中心にあったのが、コミンテルンの方針です。日本共産党は結成当時、理論的に未熟であったのと同時に、コミンテルンの支部として作られたのでコミンテルンの方針は絶対であったわけです。

 

第2次共産党の再建時に出されたのが27年テーゼです。この27年テーゼでは、党の闘いを理論闘争に限定した福本イズムは、党と労働組合等の大衆団体との相違を無視し、労働組合を機械的に政治化するものとしてその急進主義を批判されます。共産党はこの批判を受け入れますが、それはコミンテルンの権威に屈服したにすぎず、その後長く福本イズムは共産党の体質であるセクト主義や分裂主義となって生き続けるのです。

 

一方、27年テーゼは、日本の急速な資本主義的発展を指摘したものの、日本の革命は民主主義革命から社会主義革命へと連続するというスターリン主義の二段階革命論に立っていました。つまりロシア革命と同じ理論に基づいてコミンテルンも共産党も、天皇制の打倒を革命戦略として掲げたのです。

 

しかし第一次世界大戦後の日本は、すでに独占資本主義の段階、国外に多くの植民地を有する帝国主義の段階に達しており、天皇制はすでに独占資本の階級支配の道具、隠れ蓑になっていました。

 

確かに国内にはなお半封建的な遺物があって、それらを一掃する民主的課題はありましたが、封建制の廃止は、帝国主義段階においては、独占資本の打倒、社会主義革命のための闘いと結びつけ、それに従属して闘われねばなりません。

 

天皇制の廃止など封建制一掃のブルジョア革命を達成したのちに社会主義革命をめざすというのでは、労働者の革命闘争をブルジョア民主主義革命という誤った方向に向かわせたのです。

 

32年テーゼ(河上肇の翻訳)は、この27年テーゼをより厳密に完成したものであって、そこでは日本の支配的な制度を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有制、独占資本主義の三つの要素の結合として特徴づけ、特に天皇制については、封建的な地主階級と独占資本の利益を代表しつつ「その独自な相対的に大なる役割」を「エセ非立憲的形態」で粉飾されているに過ぎない、としました。

 

そして、天皇制こそ「国内の政治的反動といっさいの封建制の残滓(ざんし、残存物)の主要支柱」、「搾取階級の現存の独裁の強固な背景」であると規定し、天皇制の国家機構の粉砕こそ日本の革命運動の第一義的な任務である、としました。

 

この32年テーゼは、今なお共産党によって「画期的な指針」(「共産党の70年」)として賛美されており、この党の小ブル民主派の本質を規定するものとなっています。

 

この32年テーゼと27年テーゼの間に、モスクワ帰りの風間丈吉が持ち込んだ31年テーゼというのがありますが、これは社会主義革命を戦略目標として提起したものですが、残存したトロツキー派(当時すでにトロツキーは追放されている)によって起草されたもので、すぐスターリン派の32年テーゼによって葬られているので、日本共産党に理論的影響はありません。

 

戦前の共産党の綱領的立場は、労働者階級の社会主義をめざす闘いを棚上げにして労働者階級の闘いを、天皇制の廃止を含む封建制の一掃という、ブルジョア的課題に捻じ曲げたものでした。

 

戦前の共産党の闘いが、天皇制の打倒を掲げ、いかに表面的には戦闘的、急進的にふるまおうと(これこそ、戦前の共産党の“革命的”という神話を生み出したのですが)、プロレタリアートの社会主義のための闘いとはほど遠い小ブル民主主義派の闘いでしかありませんでした。

 

27年テーゼや32年テーゼに基づいて、日本資本主義の分析を行ったのが、野呂栄太郎などの講座派(「日本資本主義発達史講座」岩波書店)です。彼らは、32年テーゼに基づいて日本資本主義の半封建的な性格と絶対主義的な天皇制の支配を強調し、民主主義革命から社会主義革命へという二段階革命を主張したのです。

 

この講座派に対し、日本の現状を、ブルジョア国家ととらえ、日本の革命は社会主義革命である、として共産党を批判したのが、山川や荒畑、猪俣津南雄ら社会民主主義者の「労農派」です。

 

しかし、彼らも、社会主義の闘いの前に、それに移行するための民主主義的な条件を作り出さねばならないとして、彼らの戦略も結局は、二段階革命論の共産党と同じものでした。ただ彼らの「社会主義革命」論は、天皇制との闘いを回避するための日和見主義的口実にすぎなかったのです。

 

以上、これまで、1901年に幸徳らによって結成された社会民主党(即日禁止)以来の社会主義運動の戦前までの歴史を大急ぎで追究してきましたが、その歴史は政府権力による激しい弾圧の歴史でした。

 

この歴史から私たち労働者階級は、何を学ばなければならないのか? それは、マルクス主義に基づいた、公然・非公然に柔軟に対応できる強固な労働者の前衛党がなければ、資本主義と闘うことも、その打倒も、不可能だということです。

 

レーニンが『何をなすべきか』で強調した労働者階級の前衛党を、戦前も、そして戦後も、日本の労働者階級は持つことができませんでした。幸徳らの社会民主党の結成以来、120年がたっていますが、幸徳らのめざした資本主義の廃止、社会主義の実現はおろか、幸徳らを虐殺した天皇制も、象徴とはいえ残存しているのです。

 

現在、幸徳を直接行動に走らせた、ブルジョア議会主義の腐敗、堕落ぶりは、目を覆うばかりです。共産党や立憲民主党など野党が、党利党略、自党第一に走り、この絶好の機会に政権交代さえできない姿は、戦前の無産政党各党が離合集散を繰り返し、やっと実現した社会大衆党が、結局、政府のお先棒を担いで、国民を戦争協力に駆り立てていった悪夢を思い出させます。

 

共産党や社民党(旧社会党)の源流は、幸徳らの社会民主党や平民社にあります。ところが、彼らは、平民社の社会主義運動についてほとんど語りません。なぜか? それは、彼らがブルジョア議会主義の腐敗・堕落に骨の髄まで染まり、労働者の階級闘争を忘れ、「社会主義」という言葉さえ口にすることを憚っているからです。

 

幸徳らの社会主義運動の記憶を持ち出せば、彼らのブルジョア的堕落は一目瞭然だからです。彼らは、今の地位に満足していたいのです。戦後80年、日本の労働者も、いいかげんに目を覚まさなければなりません。共産党の、エセ・マルクス主義におさらばし、革命的マルクス主義の旗を高く掲げて、労働の解放をめざす労働者党に結集し、労働者の前衛党を作り上げていきましよう!(K

 

横浜労働者くらぶ学習会案内11月の予定

 

◆「資本論」第1巻学習会

日時:11月27日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室

学習範囲:第6篇19章~第722

 

◆「資本論」第2巻学習会

日時:11月13日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:第20章1節~9節

 

◆マルクス主義学習会 ―― エンゲルス「空想より科学へ」

日時:11月16日(水)1830分~2030

場所:県民センター703号室 学習範囲:序文と第1章「空想的社会主義」まで

 

横浜労働者くらぶ

連絡先:Tel080-4406-1941(菊池)

Mailkikuchi.satoshi@jcom.home.ne.jp

(日程や会場が変更になることもありますので、事前にご連絡ください。)

平民社後の社会主義運動

神奈川で『資本論』やマルクス主義の学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」の会報「労働者くらぶ」第45号で、明治から大正にかけての社会主義運動について紹介しています。8月と9月の学習会で、幸徳秋水の『社会主義神髄』と平民社の闘いについて取り上げ、その後の社会主義運動についてまとめたものです。日本において社会主義運動が歩んだ困難な闘いについて、正しく(共産党のように「神話化」することなく)理解を深める参考になると思います。

 

 

平民社後の社会主義運動

  

  幸徳秋水の『社会主義神髄』と平民社の闘いについては、8月と9月の学習会のテーマになりましたが、その後の社会主義運動については、まだ議論されていません。そこで、簡単に触れておきたいと思います。

 

 平民社の解散(190510・5)後、幸徳は悪化した健康の回復もかねて米国へ亡命(190511141906・6月末)しますが、米国滞在中に、思想上の大きな変化をします。その表明が、帰国直後の「世界革命運動の潮流」と題する演説です。

 

この演説については、前号の「労働者くらぶ」で紹介しましたが、要するに、幸徳は、いかに社会主義者の議員を議会に送り込んでも世の中は変わらない、労働者自身の直接的な力、ゼネストで革命を起こさねばならない、と言っているのです。

 

幸徳は、米国の社会主義者やロシアの無政府主義者(エス・エル党員)との交流や第2インターの議会主義・改良主義の限界を見聞するにつけ、議会主義への批判を強めていくのです。幸徳は、この思想の変化を、「我ながらほとんど別人の観がある」と述べています。

 

この変化は、これまでモデルとしてきたドイツやフランスの社会民主党のブルジョア的議会主義の腐敗・堕落ぶりに反発するまっとうな革命派の反応ですが、しかし腐敗や堕落を批判するあまり、議会や選挙を利用して労働者の階級闘争を高めていくという革命的議会主義を否定することになりました。

 

 しかし、この幸徳の「思想の変化」は、これまで、普通選挙によって合法的に社会主義を勝ち取ると信じてきた多くの社会主義者に衝撃を与え、ここに、これまでの議会主義を維持しようとする田添鉄二らの議会政策派と幸徳らの直接行動派との対立が生まれるのです。

 

当時は、桂内閣に代わって多少自由主義的な西園寺内閣の時代で、1901(明治34)年の社会民主党の即日禁止後、日本で初めての合法主義的な社会主義政党(「国法の範囲内で社会主義を目指す」としている)である日本社会党(19061281907222)が結成されており、その第2回大会で両派は激突するのです。

 

結局、この対立は、直接行動派の主張を多く取り入れた堺利彦の折衷案が採択され、その後、議会政策派は労資協調の日和見主義を深めていきます。それに対し、直接行動派は、ますます観念的な急進主義を深めていき、幸徳もクロポトキンの『麺麭(パン)の略取』を翻訳したりします。

 

  そこに起こったのが「赤旗事件」(1908622)です。これは党員の山口孤剣の出獄歓迎会で、大杉栄や荒畑寒村が「無政府共産」と書いた赤旗を掲げて示威運動をしようとしたのを警察が弾圧した事件です。

 

この事件の責任を取って西園寺内閣は総辞職しますが、それに代わった桂内閣(第2次)は、社会主義者に対し徹底的に弾圧する方針で臨み、堺、山川、大杉に懲役2年、荒畑は懲役1年半という重刑を課します。

 

このように、発売禁止、裁判責め、罰金責め、監獄責めで、手も足も出なくなった社会主義運動の一部が、絶望感、無力感、権力に対する憤激に襲われるようになるのは当然です。ここから個人的テロに訴える連中が出てきます。          

 

  宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄、古川力作が集まり、天皇といえども血を流す人間に過ぎないことを示すために、天皇暗殺の計画をするようになるのです。幸徳の直接行動論は、決して個人的テロを容認するものではなく、幸徳自身「暗殺にては(社会)主義は成功せず」と語っています。

 

彼の直接行動は、労働者の革命的な大衆行動によって「いっさいの生産・交通の機関の、その運転を停止」させることなのですが、しかし、社会主義運動の撲滅の機会を狙っていた桂内閣は、宮下の爆弾製造の事実をつかむと、これを徹底的に利用し、幸徳をリーダーとする社会主義者の天皇暗殺の一大陰謀事件をでっちあげ、全国各地の社会主義者数百人を検挙し、最終的に幸徳ら26人を起訴したのです。

 

幸徳は、赤旗事件を知らされると(高知で療養中)直ちに上京、その途次、新宮の大石誠之助や大阪の森近運平の所に立ち寄るのですが、この3人の間に明治天皇暗殺の共同謀議があったとされたのです。

 

大逆罪は、犯行を企てたというだけで死刑であり、いきなり非公開の大審院が最終審で、一人も証人を許されない暗黒裁判です。これだけの大事件が、起訴からわずか20日間で26人の審理を終わり(19101229)、開けて1月18日に24名の死刑判決(翌日12名が明治天皇のお情けで無期懲役に減刑される)が下されます。

 

そして判決の1週間後には、はやくも幸徳ら11名が処刑されてしまいます(菅野だけ翌日)。この事件は、初めから幸徳を標的にし抹殺しようとした謀略であり、明らかに国内外の批判や抗議(米国をはじめロンドン、パリ等で大きな抗議運動が起こっていた)を既成事実によって封じようとするものでした。

 

  大逆事件によって恐怖した明治政府は、社会主義運動に対していかなる小さな芽もつぶしにかかろうとします。悪名高い特別高等警察(特高)が設けられたのもこの時です。大逆事件は新聞によってセンセーショナルに報道され、社会主義者は、国民から「社会主義者と鮮人などの不逞の輩」と、恐れられるようになり、社会主義や天皇制は、口にするのもタブーになりました。

 

ほとんど唯一、大逆事件を批判した徳富蘆花は、『謀叛論』で大逆事件を「謀殺・暗殺」と書いています。石川啄木は、遺稿の中で「この時代閉塞の現状に宣戦しなければならぬ」と憤りをぶつけています。また自然主義のエミール・ゾラに心酔していた永井荷風は、自分はドレフュス事件のゾラにはなれない、と言って江戸趣味に引っ込んでしまいます。

 

明治の思想界や文壇で、彼ら以外に大逆事件に言及したものは、ほとんどいません。それほど大逆事件の影響は大きかったのです。

 

 大逆事件のあと、社会主義運動や労働運動の「冬の時代」が始まりますが、幸運にも、「赤旗事件」によって獄中にあった堺利彦、大杉栄、荒畑寒村、山川均らは、大逆事件を免れることができました。かろうじて社会主義の灯を守ったのは、堺利彦の始めた「売文社」でした。

 

しかし、明治の終わりから大正にかけて、東京市電のストライキから少しずつ労働運動が復活し始めます。それに刺激を受けて社会主義運動もようやく動き出しました。大杉と荒畑は、弾圧をカモフラージュするために文芸雑誌と銘うって、「近代思想」を発刊します。

 

またこの時代は、憲政擁護運動(第1次)などのブルジョア自由主義運動(大正デモクラシー)が始まりますが、大正3年の第1次世界大戦の勃発とそれを契機とする日本資本主義の飛躍的な発展は、労働運動の急速な発展を引き起こしました。

 

そうした中で大杉と荒畑は「近代思想」を廃刊し、新たに月間『平民新聞』を発刊します。また堺利彦も、新たに「新社会」を創刊(1915)し、マルクス主義やボルシェヴィズムの紹介に力を入れていきます。

 

 こうした中で起こったのが大正6年(1917年)のロシア十月革命です。この時の興奮を、山川は、「ロシア革命の報道が来た時の感激は大変だった。道を歩いている労働者が相擁して泣いた。私自身もじっさい泣きました」と語っています。

 

一方、国内では富山から始まった米騒動は全国各地に波及していくとともに、第一次世界大戦の好景気の反動恐慌で失業者が激増し、労働運動は一挙に高まっていきます。月間『平民新聞』は、アナーキズムにのめり込んでいく大杉栄とマルクス主義を深めていく荒畑寒村との対立が次第に表面化していきます。

 

労働運動の中では、はじめ幸徳らの直接行動論の影響や大杉などの活発な働きかけによってアナーキズムの影響が強かったのですが、ロシア十月革命の影響や関東大震災で指導者の大杉栄が虐殺されたことによって、次第にボルシェヴィキ派が優勢になってきます(アナ・ボル論争)。

 

こうしたなか、コミンテルンの働きかけによって1922年(大正117月)に日本共産党が誕生するのですが、しかし党と言っても理論的にも組織的にも準備のない、数十人の非合法グループ(堺利彦を委員長、荒畑寒村、山川均も含む)にすぎず、翌年の主要メンバーの検挙で壊滅してしまいます。

 

 一方、当時左翼陣営の理論的指導者とみられていた山川均が、共産党結成と同じ月に「無産階級の方向転換」という論文を発表します。

 

ここで山川は、「無産階級の前衛である少数者は、資本主義の精神的支配から独立するためにまず思想的に徹底して純化した。そこで無産階級の第二歩は、これらの前衛たる少数者が、徹底し純化した思想を携えて、はるか後方に残されている大衆の中に、再びひき返してくることでなければならぬ。……『大衆の中へ』は、日本の無産階級運動の新しい標語でなければならない。」さらに社会主義運動は、「大衆の当面の利害を代表する運動、当面の生活を改善する運動…を重視しなければならない。」と主張しました。

 

確かに、平民社後の労働運動は、直接行動論の影響で、急進的なサンディカリズム的傾向(これは大杉らのアナーキズムに引き継がれる)を強く残しており、克服されねばならなかったのですが、しかし山川の主張には、労働者の階級闘争を指導するマルクス主義の立場に立った前衛党を結成するという認識はありません。

 

「無産者階級の前衛たる少数者」といってもプロレタリアの前衛党ではなく、単に革命的な活動家グループでしかありません(その意味では、幸徳の「志士仁人」と大して変らない)。また「当面の生活を重視する運動」は、労働運動を、単なる生活改善、改良主義の運動に向かわせるものです。

 

山川の理論は、しっかりした綱領や規約を持った前衛党の意義や役割を否定し、日常の生活改善を目指す、労働者の自然発生的な闘いに追従したものでした。この方向転換論の延長線上に「共同戦線党」論も出てきますが、しかし山川の共同戦線党は、労働者や農民、都市の小ブルジョア等の反ブルジョア的な諸勢力を集める合法政党でしかなく、労働者階級の前衛党ではありません。

 

山川は、このような合法無産政党を、マルクス主義用語で粉飾し、革命的な意義があるかのように語ったにすぎません。無産政党各党は、離合集散を繰り返し、最後に社会大衆党として実現しましたが、この党は、日本帝国主義のお先棒を担ぎ、労働者大衆を戦争協力に駆り立てていったのです。

 

 コミンテルン(共産主義インターナショナル)の要請に従って、1926(大正15)年12月に共産党は再建されますが(堺、山川などは不参加)、このときの再建理論になったのが、福本イズムです。福本和夫の「分離・結合」論は、政治運動や労働組合運動、文化運動の中に、分裂主義やセクト主義を持ち込み、コミンテルンからは、極左偏向主義等と批判されますが、その後も共産党内で影響を持ち続けることになります。(K

 

「横浜労働者くらぶ」学習会案内10月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

10 23 日(水)18 時30分~20 30 / 県民センター703 号室

・第6篇「労働賃金」第 17 章~第 20

◆「資本論」第2巻学習会

10 9 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

・第3篇「社会的総資本の再生産と流通」第 18 章~第 19

◆マルクス主義学習会 ―― 幸徳秋水「社会主義神髄」続き

10 16 日(水)1830分~2030 / 県民センター703 号室

・今回は、「平民社」以後の社会主義運動について討論します。

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