労働の解放をめざす労働者党ブログ

2017年4月結成された『労働の解放をめざす労働者党』のブログです。

資本論

24時間体制の工場現場での体験から

神奈川で『資本論』学習会を行っている「横浜労働者くらぶ」のチラシから、参加者の感想を紹介します。

 

『資本論』第1巻学習会第8章「労働日」を終えて

 

『資本論』第1巻学習会では、第8 章の「労働日」を終えた。そこで議論になったひとつに、現在の日本もこの章で紹介されているような過酷な労働者の状況があるのではないか、その一証左が過労死のようなこと、そんなことがあってはならないことがあるということである。労基法では18 時間という労働時間の制限が法的に規定されているにもかかわらず、資本側はへいきでこの法規を無視しているのが現実だということである。

 

24時間体制の工場現場での体験から》

 

私は、労働現場の状況を体験するために、20189月から翌年の3月まで、コンビニにおろすパスタ類やサンドイッチ・サラダ類などを製造する工場で派遣社員として週2回働いた。

 

この工場は、正社員よりもはるかに多い非常勤社員によって運営されていた。7社の派遣

会社が入っており、派遣社員の総数は700 人以上いる24時間体制の工場である。この工場には20歳代の多くの外国人労働者(ベトナムなど東南アジアの)が派遣社員として働いている。その多くは仲介会社をつうじての来日であり、日本語学校に通いながらの通勤であり、この外国人労働者によってこの工場がもっている感があった。

 

決まった衛生服に着替えるロッカールームはなんと小さくロッカーも2段になっている一つが小さなもので、そのロッカーによって食堂と仕切られていた簡易なものであった。頭からすっぽり白い衛生服に着替え、安全靴を履き、家庭用のゴミ取りローラーで髪の毛などをきれいにとり、出勤機に入力し、さらに社員によって体温とローラーでチェックをされ、髪の毛がついていると、その人の派遣会社に報告されるのである。私も23度髪の毛が1本ついていたということで派遣会社に報告されたことと思われる。衛生管理の徹底には感心したものである。

 

工場への通勤は、自家用車や徒歩以外は定期的に最寄りの駅の送迎されるマイクロバスによってなされる。私は17 時にその送迎マイクロバスに乗って通勤した。最初の2か月は補助要員で18 時から勤務にはいり、翌朝(4時から7時)まで働いた。

 

20時までは乾麺をボイルする機械(長さ6m)のところでそこを専門に働いている非常勤の人と2人で担当した。私は、大きなボールにオイルと味付けする汁をカップであけて、ボイルされたパスタが大きな篭に落ちてきたものをボールにあけて、厚手の手袋をつけ二人で、油と味付けをなじませていき、いくつかの大きなトレーに盛って、そのまだ暖かいパスタを冷凍機(長さ8m)のベルトに流し込み、その冷凍したパスタを冷蔵室に保管するのである。

 

20時には私のかわりに他の非常勤社員がきて、私は欠員の出ている部署にまわされた。ある時は、①野菜(玉ねぎなど)を非常に切れる包丁でさばいたり、②カップに入れるスティック状のキュウリやニンジン、大根などを手早くカップ(スティックサラダ)に入れる流れ作業や、③コッペパンに切れ目を機械で入れる作業や、④サンドイッチをつくるために、長い食パンのミミを機械が切り落としたのが、大きな四角いカゴにいっぱいになったものを他のところにまとめて積み上げる作業などに従事した。

 

①では一人で黙々と作業し、②では10人の東南アジアなど外国人労働者と一緒に行なって、楽しかったのを覚えている。日本語の上手な一人(ベトナム人)がそこのリーダーをまかされ、指示し、次から次へとベルトに乗ったカップに手際よく自分の入れるべき野菜スティックを入れていく。

 

不慣れな私はどうしても遅れがちになるのだが、それをブータンから来たという女性は臨機応変に私がやるべきことをかわりにやってくれるのだ。なんと速いことか、うれしかった。

 

それが終わると今度は、正社員はその日本語の上手なベトナム人に他のベルトに移るように命じ、今度はサンドイッチに挟む薄切りされたハムを三角形に折りたたむ作業になった。これも慣れてないとなかなかうまくいかないが、皆、てっとり速く行なっていく。

 

③は速さが勝負、手際よくコッペパンに機械できりみをいれ、ベルトに流しいれる、それをオバサマたちが何かをぬったり挟んだりするのだが、コッペパンの流しいれが遅いと怒鳴られるのである。「遅いよ、なにやってるの」などと何度となく言われた。

 

④は重労働、普段は若い外国人労働者が担当しているのだが、たまたま休みで、私がやる羽目になった。三台の機械が次から次へと長い食パンのミミを切り落として、次から次へと四角いカゴにたまる。それを空のと替えて、いっぱいになったカゴを他の所へ積み上げていくのである。

 

22時から始まったその作業は朝の5時まで続いた。そこでそこの責任者が休憩にはいってよいと言ってくれたので、トイレにいき、食堂で休んで、作業場に戻ると、片付けが終わっており、もう帰っていいよとなった。

 

こういった補助作業が2か月ほど続いたのちに、パスタのボイルのところ専門になり、勤務時間も20時から、その時の仕事が終わるまでとなった。休憩は切りのいいところで(深夜1時前後)、食堂には飲み物やカップ麺の自販機が設置されている。他の部署と休憩時間が重なると、食堂は賑やかである。オバサマたちは、なぜこうも元気なのかと思わせるくらいべちゃくちゃしゃべりまくっている。

 

それも持参してあるお菓子など食べながら。また食堂に隣接してある喫煙所には多くの人が入り、吸い殻はいつもあふれている。ベトナムの若者たちは元気に仲間としゃべりながらカップ麺などを食べているが、そのうちに気が付くと、皆、テーブルにうつぶせになって寝てしまっている。私もソファーがあいている時はそこで休むこともできたが、たいがいは他の人に占領されていた。

 

私の仕事は、日によって終わる時間がまちまちである。早い時は、4時に終わってしまう。そんな時はまだ定期の送迎マイクロバスが運行されていないので、駅まで40 分ぐらいかけて始発の電車で帰ってくるか、食堂でバスが運行される時間まで休んでいるかである。家に帰ってきても、朝食をとったら疲れで直ぐに寝てしまい、起きるのは夕方で、あわてて再び出勤の途につくことも、当たり前のようにあった。

 

私が勤務する数か月前までは、たいがいの人が残業60 時間以上していたという。私が勤務してからも、残業40 時間以上の労働者が多くいるという。乾麺をボイルする担当の人も、月の中ごろには、すでに残業40 時間になってしまって、途中で帰ることがあった。そんな時は、正社員が代わりに来るのだが、仕事がまるでできないのだ。次の日は、私のような仕事をしている人が、機械の操作をおそわってきてやるようになる。この人のほうが正社員より、よっぽど仕事がはかどった。

 

若い20 歳代の外国人労働者たちの多くも、法定以上に残業(いやそんな意識も持てない)しているのは確かなようだ。それに多額の仲介手数料を払ってここで働いている外国人労働者も多くいるという。こういう情報は、送迎マイクロバスの運転手から聞かされた。

 

職場には掲示板があり、ある時、利潤率がいまなん%で、もっと引き上げるように社員

の鼓舞する内容や、派遣会社ごとに、その日の欠席状況などが発表されていたこともある。コンビニにおろすこのような工場は全国無数にあるのではないだろうか。

 

私はこの週2回の仕事を半年間、休まずに勤務した。派遣会社からは辞めないで続けて

ほしいとい言われたが、辞めた。そし2019年の参議院議員通常選挙に臨む決意を固めた。(A

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「横浜労働者くらぶ」学習会 —12月の予定

◆「資本論」第1巻学習会

1214日(水)18 30 分~20 30

・かながわ県民センター 702 号室

・絶対的剰余価値の生産(残り)と相対的剰余価値の生産(その1)

 

◆「プロメテウス」61号学習会

・12月21日(水)18 30 分~20 30

・県民センター702 号室

・特集「激化する帝国主義的対立」の中の渡辺論文

「資本輸出を急増させる日本資本主義」

 

※ 第4週の学習会「経済学批判」学習会と「資本論」第3巻学習会は、県民センターが休館のため、1月に延期となります。

 

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連絡先 Mail: yokorouclub@gmail.com

 

沈む時代 ――教育荒廃の現場から

『資本論』学習会に参加している仲間からの投稿を紹介します。

 

沈む時代

教育荒廃の現場から

 

「O先生、出口をふさいで!」 同僚はひきつった表情で怒鳴りながら、私にそう言った。パニックを起こしたような戸惑った表情で逃げようとする女子生徒。その生徒は遅刻が多いという理由で大量の反省文を書かされ、連日大きな罵声を何時間も(時には夜の7時以降まで)浴びせられながら指導を受けていた。

 

明らかにその生徒はなぜ怒鳴られているのかを理解できておらず、激昂する教師を前にパニックを起こして逃げようとし、同僚は退路を塞ぐように私に要求している。私は収容所の看守となっている自分達を発見した。数分の遅刻により何時間も居残り指導を受けていたその生徒は長時間の指導の果てに2階の職員室から飛び降りようとさえした。

 

大阪維新の会が政治の実権を握る大阪府では、人事評価を給与に反映させる制度が施行されている。

 

相対評価により上位5%の「優秀」職員は給与1.183倍にアップし、下位5%の「良好でない」職員は給与が0.835倍にダウンする。そのための参考として教員自身の評価シート「自己申告シート」に数値目標を記入することが求められる。

 

教育の具体的数値目標は、例えば多くの生徒が大学の一般入試を経験する進学校ならば進学実績の上昇を目標とするだろう。しかし、貧困や生活不安と隣り合わせの暮らしで、経済的な理由により進学は望めず、なんとか学校に行くことで精いっぱいという生徒が多い大阪府南部の多くの公立高校では、「遅刻欠席の数が一桁になるよう努力する」や、「ルールを守るよう心がけるというアンケートの項目の肯定的回答割合を90%以上にする」といったようなことが教員の具体的数値目標となる。

 

そこで各教員は学校で「遅刻は3回で反省文と振り返り」といった統一的ルールで指導にあたるが、生徒はパニック障がいや高機能自閉症、発達障がいなど支援が必要な場合が多く、明らかにそうした統一的ルールにはそぐわない。そうなると「何時間も怒声をあびせて反省文を書かせるということが生徒にとって必要な支援である。」と誤解する教員が多くなり前述のような光景が繰り広げられる。

 

そのほかにも、指定された通学路を通らなかった、体育祭の恒例行事に日本体育大学伝統の体操をしなければならないことに疑問を述べた…などなど些細な理由でも長時間にわたる指導を行わなければならず、私を含み教員は毎日生活指導に膨大な時間を割き、職員室はいつも生徒を叱責する怒号が鳴り響いていた。

 

こまごまとしたマニュアル的なルールに基づき、反省文を手に脅迫的な態度で指導する。こうした脅迫的な指導は生徒の心を閉ざし、見せかけの従順さを強制する。そして教員の心までも蝕んでいく。こうした指導に真面目に取り組んでいた同僚はある日、職場に出勤しようとすると突然足が動かなくなった。私がその府立高校に在籍していた短い間に、一人の若い同僚は退職し、一人は心を病んだ。

 

マルクス『資本論』第1部第5篇第14章に「学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけでなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。」という言葉があった。社会の再生産機構としての教育は社会や政治の影響を受けやすい。安倍政権の諮問機関として教育再生会議が作られて以降、その傾向が特に強くなった。

 

教育再生会議にはブラック企業として名高いワタミの渡邉美樹社長が名を連ねていたことは記憶に新しい。上記のような、定められたルールの妥当性に疑問を持たず教員の成果のために子どもの消耗を強いる教育ほど、資本家にとって都合の良いものはないだろう。

 

令和4年度のGDPは過去最高というニュースがある一方で、日本人の実質賃金は下がり続け、格差の広がりはとどまるところを知らない。文科省は今、「教育の市場化」を進めつつある。資本の教育支配がかつてないほど進んでいる昨今、教師が自分の仕事に求められていることに無批判であることは、権力の内面的強化に無自覚に加担していることに他ならない。

 

『資本論』を読み進めてゆくと、重商主義者や古典経済学者が労働と価値及び貨幣の関係を正しくとらえていないという批判が繰り返し述べられている。労働こそ実体であり、交換される価値や貨幣は形態である、労賃という形態が剰余労働の搾取を覆い隠している、そしてその剰余労働の搾取によって資本主義的生産様式は成り立っている、とマルクスは指摘する。

 

働けば働くほど貧しくなるという労働と資本との倒錯したあり方を鋭く指摘する『資本論』の論理性は、まるで天動説から地動説への転換のようだ。日経新聞までもが資本主義の危機を唱えているこの時代に、旧態依然とした資本のための教育が低所得世帯も多い公教育の現場で行われている現状で、子供に「頑張ればなんとかなる」と叱咤激励することは、沈みゆく船の乗組員に持ち場を離れず頑張ることを強制するようなものだ。

 

乗り込んだ船が沈みゆきつつある舟であることを知るためには、船と外界の関係を正しく把握しなければならない。資本主義的生産様式という外界に我々の職場や学校その他が沈みつつある。

 

今、社会がその崩壊に向かって突き進みつつあることを象徴するように、破滅型犯罪が毎週のように起こっている。SNSが普及して技術的に人がつながることが容易になった一方で、どうしようもなく個人は孤立している。

 

ロシアが帝国主義そのものの侵略戦争を勃発させ、日本もまた軍備増強に力を入れつつある20223月、この大規模な破壊の時代のそのあとを見通す視座を獲得するために、今後もマルクスの著作を研究していきたい。(神奈川  O

 

「横浜労働者くらぶ」発行『通信 労働者くらぶ 15号』から引用

 

「横浜労働者くらぶ」学習会の予定

◆「資本論」1巻前半学習会    4月13日(水)1830分~2030分 県民センター702号室

◆「反デューリング論」学習会  4月20日(水)1830分~2030分 県民センター702号室

◆「資本論」1巻後半学習会    4月27日(水)1830分~2030分 県民センター702号室

◆「資本論」3巻学習会          4月27日(水)1810分~2030分 県民センター708号室

 

横浜労働者くらぶ  http://yokorou.blog.fc2.com/

 連絡先 090ー7729ー9433

佐々木隆治著「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)を論ず

《書評》佐々木隆治著「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)を論ず

 

マルクスを改良主義者に仕立てる学者の一人

――職種別・産業別労働組合の賃金闘争は資本の「物象の力」を削ぐ力と

 

『海つばめ』1395号の「ジョブ型雇用に転換急ぐ企業――『ジョブ型労働社会』論では闘えない」にて、佐々木隆治氏が職種別・産業別労働組合の闘いがあたかも「私的労働としての性格を緩和させる」ことができるかに論じたことを批判した。

 

佐々木氏はマルクス主義経済学者であり『資本論』解説本も出しているが、労働者のために真に労働の解放を目指して闘うのではなく、結局は、マルクスを改良主義者に仕立て上げる学者たちの一人になっているようだ。

 

◎マルクスの改良主義的主張とは?

 

今回、ここで敢えて佐々木氏の理屈を取り上げるのは、彼が職種的・産業別労働組合を正しく導くのではなく、賃金闘争を祭り上げ、結局は労働組合運動を改良的闘いに切り縮めていると判断できるからである――ここで取り上げる佐々木氏の「わたしたちはなぜ働くのか」(旬報社刊)は、大分前になるが、ある地域の『資本論』学習会にて佐々木氏と懇意にしている方から是非読んでくれと紹介され、読後感として「佐々木氏は構造改革論者なのか、労働者として受け入れがたい」と疑問を表明したことがあった。この私の感想が彼に伝えられたとも聞いていた、そういう関わりのあった本である。

 

佐々木氏は次のように言う。

「現存の資本主義社会のもとで、できるかぎり物象の力を弱め、労働の自由を実現しようとする実践に取り組むことである。なぜなら、そのような実践によってこそ、アソーシエイトした諸個人の力量を高め、資本主義的生産様式のラディカルな変革のための条件を形成することができるからである」として、マルクスも言っていることだとしながらその実践方法を3つ挙げている。

 

その第一は「労働時間の規制による自由時間の拡大」である。その理由は自由時間の拡大は「資本への直接的従属から解き放たれ、必ずしも物象の論理に包摂されない、あるいはそれに対抗するための社会的活動に従事する可能性が生まれるからというものだ(178~179頁)。

 

第二は、「物象の力を生み出す根源となっている私的労働という労働の社会的形態を変容させることである。つまり、それをアソーシエイトした諸個人による共同的労働への置き換えていくことである。マルクスは共同的労働においてこそ、物象化を抑制し、自由が可能になることを見抜いていた」、「もちろん、共同労働は資本主義的生産関係の内部では部分的にしか実現できない。例えば生産者協同組合はある意味では生産者はアソシエーション(諸個人のアソーシエイトにもとづく結社)だということができ、マルクスも高く評価するが、それが一つの企業であり、他の資本との競争にさらされている限り、それは依然として私的労働にとどまっている。しかしながら、労働者たちが生産的協同組合や労働組合の活動を通じて結合していくことは、アソシエーションの基礎を作り出す。とりわけ、労働組合は企業を越えて職種別・産業別に組織され、労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させるとともに、職種的ないし産業的規制を要求し、私的労働としての性格を緩和させることのできる力をもっている」(179~181頁)。

 

第三は、「労働者の生産手段にたいする従属的な関わり方を変容させていくことである。…賃労働においては、このような生産者と生産手段の自由な結合の可能性は剥奪されているが、部分的に取り戻すことは可能である。それは、現代では労働組合による経営権への関与というかたちで実際に実現されている」(182~184頁)。

 

◎「生産者協同組合」は貨幣や資本の力を弱めているか

 

マルクスを改良主義者に仕立て上げるのはとりわけ第二と第三である。

まず、第二で佐々木氏が主張するのは、資本の「物象の力」を弱める方法についてである。彼のいう「物象の力」とは、はっきりした定義をしていないので分かりにくいが、「貨幣や資本など」のことのようだ。佐々木氏は「共同労働においてこそ物象化を抑制」すると言い、資本主義においても「共同労働」が部分的に成立する場合がある、それは「生産者協同組合」であり、これは「生産者によるアソシエーション」であると言う。「生産者協同組合」では「共同労働」が部分的に成立している、それゆえに「生産者協同組合」は「貨幣や資本」の力を、資本主義そのものを弱めていると佐々木氏は主張する。

 

それでは「生産者協同組合」とはどんなものかを見て行こう。生産者協同組合は決してめずらしいものではなく、現在では色々な職種別の協同組合が設立されている。農業協同組合や漁業協同組合や各種工業協同組合などがあり、全国で多数が組織されている(児童保育や小売りや信用などの協同組合も含めるなら全国津々浦々にある)。

 

これらの生産者協同組合では、生産手段の共同管理や貸出や共同市場の開催・販売などが行われている。いずれも目的を一緒にする中小企業の経営者・個人経営者が組合に出資して組合員資格を得、組合の諸手段の共同利用や相互扶助を受けることができるようになっている。

 

こうした生産者協同組合もまた一種の企業体であり、「私的労働を廃棄しない」と佐々木氏も認識するのであるが、それにもかかわらず、敢えて資本の「物象化」と闘う「生産者によるアソシエーション」だと美化する必要性があるのか。協同組合に参加する生産者は生産手段を持ち、中には多数の労働者を雇う生産者も無数に生まれている。生産者協同組合に参加する生産者は、最初は個人的でも次第に労働者を雇い搾取する生産者、立派な資本の体現者になっていくのだ。

 

中小零細企業主の彼らが生産者協同組合に参加するのは、大企業からの厳しいコストダウンや品質管理や絶対的な納期対応を迫られる中で、また市場での価格競争にさらされ、常に危機意識を持っているからである。彼らは、こうした荒波を少しでも防ぐために組織している。

 

生産者協同組合に参加する小生産者の意識は佐々木氏が期待するほど〝革新的・革命的〟ではない。資本の「物象化」と闘うという意識がこの中で育っているとはお世辞にも言い難い。漁業や農業や工業の中小零細企業の経営者は、全てではないが、基本的に自分達の小生産や遅れた産業の保護を要求するという保守的な立場にたつ。これは、彼らの個人的な問題ではなく、小規模生産者の置かれた地位から必然的に生まれてくる自己防衛的な観念なのである。それゆえに、生産者協同組合は政治的な圧力団体としても表に登場してくるのである。彼らは政権政党や民族主義政党(共産党など)や地域政党に〝圧力〟をかけ、それと引き替えに支持・支援する。

 

企業が破産し労働者自身が工場を占拠し自主管理で生産を継続するような例もある。この場合は、正式には生産者協同組合とは言えないが、労働者の自主管理生産というくくりで見ることができよう。

 

例えば、かつて名を成した「ペトリカメラ」(カメラメーカー)では、労働者が資本の倒産・破産に抗して闘い、生活のために自主生産を始めた。だがカネ・部品の調達や品質管理・生産管理においてうまく軌道に乗らず、労働者の賃金は「倒産時の6割」にまで下がってしまった。だが、その後に別会社として再建された「ペトリ工業」は、新たに雇用したパート労働者に依存する経営となった。このように、ペトリの労働者自身の自主生産の場合でも、結局は組合幹部が社長=経営者になり、資本間の競争に打ち勝つために労働者に長時間労働や低賃金を強いる結果にならざるをえなかった。こういう例が多いということだ。

 

以上、生産者協同組合を具体的に見てきた。

佐々木氏は生産者協同組合を「アソシエーション」(社会主義的?)と規定する。なぜなら、生産者協同組合は「共同生産」が一定程度成立しているから資本主義と闘っている、つまり資本主義の「物象の力」を弱めていると言う。佐々木氏がそう思うのは自由だが、現実を分析すれば分かるように、佐々木氏の観念は途方もないものである。それゆえに、読者にとりわけ労働者に対して誤った観念を与えるという意味で極めて反動的である。

 

◎マルクスは生産者協同組合を「高く評価」したのか

 

佐々木氏に言わせると、マルクスは生産者協同組合を「高く評価」していたとのことだが本当か。むしろマルクスは生産者協同組合運動に対して全面的に賛成したのではなく、一定の条件の中で支持したのではなかったのか。マルクスは1864年9月28日に行われた「国際労働者協会創立宣言」の中で次の様に述べていた。

 

協同組合運動が「原則においてどんなにすぐれていようとも、また実践においてどんなに有益であろうとも、協同組合運動は、もしそれが個々の労働者のときたまの努力の狭い範囲内にとどめられるなら、独占の幾何級数的成長を阻止することも、大衆の不幸の重荷を目にみえて軽くすることさえも、けっしてできないであろう」(国民文庫=15、大月書店刊、22頁)。

 

要するにマルクスは社会変革の道具となる限りで、協同組合的生産を支持していたのは明らかであろう。先に紹介したペトリの自主管理生産の例でも明らかなように、この闘いは一時的な労働者の利益につながったが、社会的な広がりと大きな協賛とその後に続く動きはなかった。つまり、ペトリの闘いもまた、マルクスの「国際労働者協会創立宣言」で述べた評価と重なるのである。

 

マルクスからいくら引用してもいいが、間違った引用をするのは良くないし、労働者を惑わすもとになる。マルクスの発言を一部切り取り、しかも現実の諸条件を分析しないならば、生産者協同組合が資本主義の「物象の力」を弱めるといくら唱えても、それは空念仏のたぐいなのだ。

 

◎労働組合活動は「私的労働としての性格を緩和」するのか?

  ――私的労働の廃止による共同体社会とは何か

 

また、佐々木氏は生産者協同組合もさることながら、労働組合の活動についても独特の位置づけをする。彼は次の様に言う。

 

「とりわけ労働組合は企業を越えて職種別・産業別に組織され、労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させるとともに、職種的ないし産業的規制を要求し、私的労働としての性格を緩和させることのできる力を持っている」。

 

そこで、以下では労働組合とは何かを考え、さらにそこに止まらずに労働者の進むべき方向を問う。その上で佐々木氏の労働組合論を論じたいと思う。

 

労働者は資本に雇われている間だけ働き、賃金を得て生きていくことができる存在である。このことはどんな労働者も知っていることである。労働者は、資本に労働力を売る「賃金奴隷」であるゆえに、労働組合に結集し、労働者自らの生活と権利を守ろうとすることも周知の事実である。

 

従って、労働者が労働組合に団結し賃金闘争を闘うのも、自らの生活維持費を得るためであり、物価が上がれば労働者はその後追いを迫られるのである。賃金闘争は資本と賃労働の関係が続く限り永遠について回るものであり、その意味で階級闘争の一断面である。

 

しかし労働者は賃金闘争(労働組合運動)に止まることはできない。

「賃金奴隷」のくびきから解放する思想と闘いの必要を自覚した労働者は、労働組合運動の意義を認めつつも、労働者自らが労働の解放を求める政治的・思想的闘いに、すなわち「労働者党」に参加するようになるし、そうして階級闘争を発展させて現実を変革するのである。

 

労働の解放とは、資本と賃金労働の社会関係の廃絶であり、資本主義の基礎である商品関係の廃止でもある。資本主義では、労働力(労働能力)もまた商品となる。この労働力商品の価値とは、労働力を再生産するための労働者の衣食住の費用と規定される。労働力の価値規定に従えば、教育費や専門的修業費がこの中に含まれるのであるから、専門的技術者(医者も)や研究者などの「複雑労働」者の労働力商品の価値は当然に大きく、これが賃金差別の基礎となり、ブルジョアでさえこれを利用する。

 

しかし、労働者がめざす高度な共同体社会(生産手段は社会的共有)では、今まで各人各家庭が背負っていた子供の保育・教育、技術的育成、医療や親の介護などは社会化される。従って、資本主義における賃金は、労働力の価値に基づき、各人各家庭の生活の違いがそのまま労働力の価値規定として反映されていたが、共同体ではこうした違いは無くなっていく。

 

従って、共同体社会では、全ての労働可能な共同体成員は生産(生産的労働)に参加する「労働時間」に基づいて消費財を受取ることができるようになる。つまり各人が生産へ参加し消費財の分配を受け取る関係は透明となり、「単純労働」とか「複雑労働」の概念は不要となり、職種や男女差や人種の違いなどによる一切の差別はない。

 

さらに、この共同体は資本主義と違って、人々が福祉を広く享受できる社会である。高度な生産力を利用して(より数多く生産すると言う意味ではない)、さらに格段と短い労働時間で必要な生活手段を得ることができるようになり、それだけ「自由な」時間も拡大する。

 

それにつれて、今まで社会的生産に参加した「労働時間」に規制されて消費財の分配を受けていた関係は緩和されていき、各人は「能力に応じて喜びをもって働き必要に応じて分配される」ようになる。また、労働不能の人々には「共同体原理」において、共同体の一員として、社会的生産からの控除によって生活が保障される。

 

各人の社会的生産への参加は自主的で創造的であるが、他方で社会的である。社会的であるのは、各生産の場で自主的にかってに生産するなら、たちまち過剰生産または過少生産をもたらすからである。全社会的な生産と分配を合理的に計画しなければならないのである。また各生産の持ち場においても、各人は共同的・民主的な運営を行うのはもちろんである。

 

それゆえ、資本主義では雇用される限りで生きていけるにすぎず、雇用されても非正規労働であれば明日の仕事があるのか絶えず不安であり、安息日は無かったが、共同体ではこうした不安は皆無となり、全ての人々による共同労働と互助に支えられて、資本主義では発揮できなかった人々の限りない能力が発揮されるようになる。

 

労働時間の大幅な短縮は各成員の自由な時間を保証するが、そのためにも、一定の高度な生産力は必要とされるのである。斎藤幸平氏が言うような「スローダウン」の生産と消費を強いるならば、決して高度な共同体社会(共産主義社会)を実現することはできない。もちろん、この共同体社会は利潤追求のためではない、従って、環境に最も配慮した社会になるのであり、それを前提とした社会的総再生産を実行していくのである。

 

回り道をしたが、それでは佐々木氏の労働組合論に戻ることにする。

佐々木氏は職種的・産業別に組織された労働組合が「労働力販売の独占を実現するがゆえに、労働力の商品としての性格を緩和させ」、「私的労働としての性格を緩和させることのできる力を持っている」と言う。まるで労働組合の賃金闘争は、資本の力を弱め資本主義の廃絶に接近させるかである。高賃金によって個人消費を拡大し国民経済を回復するという共産党系学者は多いが、佐々木氏のように、労働組合の賃金闘争を革命闘争のように持ち上げる組合主義者はいてもマルクス主義経済学者はそういない。

 

佐々木氏の労働組合論は、結局次のような結論になるしかない。

労働者は職種別・産業別労働組合を組織し、そのもとで高い賃金を得る闘争に専念していれば、資本主義を弱める運動になるというものであり、結局は労働者を労働組合運動に専念させ、埋没させて、改良主義を強いるのだ。それでいいのか、佐々木氏よ。

 

◎経営参加をも美化し、構造改革派の本性を暴露する

 

 第三で、佐々木氏が推奨することは、労働者の経営参加についてである。

労働者は生産手段から切り離されているから、「経営権に関与」し、つまり経営参加をかちとることができれば、労働者が剥奪されている「生産手段との結合」を取り戻すことが出来ると言う。

 

ここにも佐々木氏の構造改革派としの本領が発揮されている。

労働組合の幹部が経営に参加し、企業経営に影響を与えるとしても、それは強力な労働者たちの闘いがあってこそ諸要求が実現できるのではないのか。しかも現実に労働者の闘いが発展する場合には、経営参加などという牧歌的な構想はどこかにすっ飛んでしまうのが普通である。こんなことは労働組合運動の歴史を紐解けば、直ぐに分かることである。

 

そもそも労働者側と経営者側の要求や思惑が最初から一致するのは、労働者側の賃金アップや労働条件改善要求ではありえず、経営者側の要求するラインのスピードアップや作業効率改善や品質改善運動でもありえない。

 

利潤を追求し他社との競争に勝つために、労使が一丸となるのは、経営者側の要求を労働者が受け入れた場合が多い。その限りにおいて、労使は一体となり、経営参加が上手く機能するのである。戦後の右派労働運動が労使協調路線の上で労働組合幹部が経営協議に参加し、その結果を労働者に押し付けてきた。それゆえに経営参加に積極的な組合幹部は「第二労務部」と労働者に比喩されて来たのではなかったのか。

 

佐々木氏は生コンの労働組合が環境規制を実現させた例をあげているが、その場合でも労働者側が強い要求を突き付けたからであって、経営参加という仲良しクラブの会合の成果ではなかったはずだ。ここでも、佐々木氏は経営参加に「生産者と生産手段の結合」を見出すのであるが、結局は、労使協調路線を賛美する結果になってしまっている。こうした結果を招くからこそ、安易にマルクスの言葉をちりばめるのは止めた方がいいのである。

 

最後に、佐々木氏のような構造改革論(白井聡氏や斎藤幸平氏らの主張もそうであり、別の機会に取り上げたい)を労働者は乗り越え、労働の解放をめざす理論的組織的な闘いに立ち上がるよう訴える。   (W)


「武器としての『資本論』」(白井聡) 批判的考察(補足)

長野で『資本論』学習会をしている仲間から、労働者党ブログに掲載した「武器としての『資本論』」(白井聡)の書評を補足する参考資料が送られましたので、紹介します。

 

「武器としての資本論』」(白井聡) 批判的考察(補足)

 

労働者党ブログの書評では、①資本主義経済の定義=「商品によって商品を生産する」の一面性、②宇野派の影響、③資本論から唯物史観を排除(「収奪者が収奪される」等々)、④階級闘争を賃金闘争等に矮小化、等々が批判されている。以上の点と無関係ではないが、上記では明示的に取り上げられていない点をいくつか補足的に取り上げてみたい。

 

1.商品の価値規定において、その実体を「抽象的人間労働」といいながらその中身について説明していない。(p.111p.121、等)

 

「労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表されている労働の有用性は消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、これらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。……労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されてとおりの労働生産物の価値が得られる。……それらの価値のおおきさはどのようにして計られるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた一時間とか一日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。……平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間」(第1 巻第1 章商品)

 

白井は宇野に倣って、商品価値の実体を商品論のところではなく労働力の商品化と労働の搾取(剰余価値の取得)のところで論証しようとしているように思える。そのため、商品価値の説明が不分明となり、しかも労働の搾取の説明も極めて曖昧かつ不正確、誤りを含んだものになっている。(「労働力の使用価値>労働力の価値」等々。p.121

 

2.「労働力の価値」の主観的理解(p.122125p.129p.219、等々、随所で)

 

マルクスが「労働力の価値」=「労働力の再生産、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値」等と言っていることから、「必要」は弾力的であるなどといって賃金闘争や「贅沢」の勧め、資本に「包摂」されない感性を磨け、などといっているのであるが、マルクスがここで言っている「必要」の意味と「賃金闘争」等々は別次元のものであろう。

 

「食物や衣服や採暖や住居などのような自然的欲望そのものは、一国の気象その他の自然的な特色によって違っている。他方、いわゆる必要要望の範囲もその充足の仕方もそれ自身一つの歴史的な産物であり、したがって、だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、ことにまた、主として、自由な労働者の階級がどのような条件のもとで、したがってどのような習慣や生活要求を以て形成されたか、によって定まるものである。だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合とは違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。とはいえ、一定の国については、また一定の時代には、必要生活手段の平均範囲は与えられているのである。」(第4 章貨幣の資本への転化)

 

賃金や労働時間等をめぐる労働組合の闘いは必要であり必然でもあるが、それは労働者の団結による現状の変更を要求する闘いであり、労働力の価値が「必要生活手段の平均範囲」として取り敢えずは「与えられている」こととは別のことであろう。

 

新自由主義がある意味で「資本家の側からの階級闘争」であり、それによって「労働者の賃金水準(生活水準)」等々が切り下げられてきた=資本はそれによって利潤の確保をはかろうとしてきた、というのは事実であろう。しかし、それと闘うためには単に要求水準を高く持って賃金闘争を闘う、あるいは(良く言って)さらに新自由主義と闘うというだけでは無力である。新自由主義はケインズ主義的な福祉国家路線(修正資本主義)が行き詰ったところから出てきた。資本の体制や賃金制度を前提して、何かより良い資本主義やより良い賃金等を求めるだけでは問題は解決しない。

 

p.129 でマルクスの「必要労働時間」の説明がよく理解できない、等と白井は言っているが、「必要労働時間とは労働力商品の価値の補填に必要な労働時間」のこと(この場合の「必要」も、労働力商品の価値とイコールとなる労働時間という意味で、主観的要素は全くない)。他方、賃金とは労働力商品の価格であり、他の商品と同じくその商品体(使用価値)の価格として現象する。つまり、労働力商品の使用価値とは労働であり、賃金は「労働の価格=労働に対する支払い」という外観を持つ。だから、賃金そのものをいくら見ても必要労働とか剰余労働といった区別は見えてこないし、「労働そのものに対する支払い」(労働すべてが支払われている)としてしか見えてこない。

 

3.「れいわ新選組」安冨歩の説(現代=近代国民国家システムの解体期、しかし旧ソ連=社会主義の解体によって「どうしたらいいいかわからない」のが現状)に「非常に納得できる指摘」(白井、p.237-38

 

安冨は、「資本主義システムと近代国民国家の枠組」は既に破綻しているのだと言いながら、資本主義に代わるべき社会主義を彼は信じることができないのである。それは、他の多くの学者や政党などと同じく、彼が社会主義=旧ソ連等のスターリン的”社会主義”と考えているからだ。

 

しかし、いかに多くの生産手段が国有化され経済が国家統制されていようとも生産物には”価格”が付けられ、労働者が賃金(労働力商品の対価)をもらって生活していた旧ソ連等の社会がいかなる意味でも社会主義の国でないのはあまりにも明白で単純な真実である。こんなことがどうして安冨はじめ多くの人に理解できないのか不思議なくらいだ。「だから社会主義はもはや理想たりえない」と彼らは考えるのであり、「大人」から「子供」へ、「経済から暮らしへ」などという陳腐なスローガンにしがみつくしかないのである。(長野・『資本論』に学ぶ会ブログ、2019.11「躓きの石は旧ソ連等(旧“社会主義国”)の評価」参照)

 

4.現代はポスト・フォーディズム(ネオリベラリズム)の時代(p.152-60

 

・ポスト・フォーディズム=「認知資本主義」(アントニオ・ネグリ)

・白井は、ポスト・フォーディズム=ネオリベラリズム(新自由主義)としている。

 

白井は、フォーディズム=「資本家が自社商品の販売のために労働者に気前良く振る舞うこと」のように理解しているが、フォーディズムそのものは規格化された商品を機械化された流れ作業等で効率よく生産することしか意味していないだろう。労働者の賃金等が比較的順調に上昇したのは、資本家の施しのためというよりは単に景気の好循環が続いたからにすぎない。さらに、ケインズ主義的有効需要政策等も一時期有効に機能したにすぎない。

 

現代の経済は、技術的に見れば、むしろ第4 次産業革命に差し掛かっていること。IoT AI、ビッグデーター、等々の導入・普及が目指されなければならないが、それが労働者の失業や非正規化、格差の拡大、等々をもたらし、資本の剰余価値獲得と矛盾していること、資本の過剰(過剰生産、企業の内部留保の増大や投機的資金の増大、等)をもたらし、成長の停滞・行き詰まりをもたらしている。新自由主義(市場原理主義)は戦後の経済成長が限界に達した70 年代末ないし80 年代から始まったが(サチャーリズム、レーガノニズム、日本では中曽根行革、小泉政治、等々)、その大きな政策の一つは労働組合の弱体化→長時間労働、非正規化、格差の拡大、等である。 (2020.9 長野SY)

“共産主義社会”をめぐって議論沸騰

長野県安曇野で行われている『資本論』読書会の報告を紹介します。

 

“共産主義社会”をめぐって議論沸騰

――4カ月ぶりの『資本論』読書会(安曇野)

 

625()午後、『資本論』読書会を4カ月ぶりに開催した。参加者は常連ばかり数人で、第122章「剰余価値の資本への転化」1-3節を検討。全員マスクをつけ、感染防止対策として一つのテーブルに1人が座るスタイルでの初めての読書会だったが、活発な議論が交わされた。

 

報告の要点

 

22章の1-3節は、非常に内容豊富で、示唆するところが多い。最初に「資本の蓄積」概念が規定され、「商品生産およびに基づく取得の法則または私的所有の法則が・・・不可避的な弁証法によって、その直接の対立物[=資本主義的取得方式]に転化する」ことが、言い換えれば、「商品生産はそれ自身の内的諸法則に従って[労働力をも商品化することを通じて・・引用者]必然的に資本主義的生産に成長していく」ことが明らかにされている。

 

レポーター(私)は、ここで社会主義は商品生産=市場経済と矛盾しない、社会主義は商品生産の良い面を活かしていくといった共産党の主張がマルクスの見解に真っ向から反すること、それは資本主義は悪いが商品生産は良いと言い張ったプルードンやリカード派社会主義者の主張と変わらないことを指摘した。

 

第2節では、「収入のうち資本に転化される部分は生産的労働者によって消費される」というスミスのドグマが批判される。

 

「節欲説」批判の3節では重要な指摘がある――「価値増殖の狂信者として、彼[=資本家]は容赦なく人類を強制して、生産のために生産させ、それゆえ社会的生産諸能力を発展させ、そしてまた各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会的形態の唯一の現実的土台となりうる物質的生産諸条件を創造させる」。

 

最後に、マルクスは、資本主義的矛盾の発展につれて経済学は古典派経済学から俗流経済学に転じていったことを明らかにし、俗流派の代表格としてマルサスをやり玉に挙げている――マルサスは「ある分業を擁護した」、つまり「実際に生産にたずさわる資本家には蓄積の仕事を割り当て、剰余価値の分配にあずかるその他の人々――土地貴族、国や教会からの受禄者など――には浪費の仕事を割り当てる」、「『支出への情熱と蓄積への情熱を分離させておく』ことがもっとも重要である、と言っている」。レポーターは、不生産的階級による浪費が資本主義の維持に重要だというマルサスこそは、ケインズ主義の“原点”であることを指摘した。

 

議論の焦点

 

以上の報告の後、討論に入ったが、議論が集中したのは、3節の「各個人の完全で自由な発展を基本原理とする、より高度な社会形態」という共産主義社会の規定についてであった。

 

主な意見を列挙しよう――①共産主義社会では、仕事の種類は資本主義より減るのか、増えるのか、②搾取はなくなり、経済の舵取りは国民が担う、失業はなくなるし、仕事の仕方も内容も違ってくるだろう、③そもそも賃金関係(資本賃労働関係)がなくなる、④農家の仕事では子どもも年寄りも役割があり、無駄な人はいない、一つの共同体になっている。それに近いのではないか、⑤資本主義では無駄な仕事が多い(カジノ等)、そういうものはなくなるだろう、⑥会社勤めの頃、まだ使える商品でも、売れ残りはつぶしていた、無駄な仕事だった、⑦犯罪はすぐにはなくならないかもしれないが、人間も発展していくとみるべきだ、⑧何よりも戦争がなくなることが良い、⑨計画経済では製品の種類や生産量を中央が決めるが、スーパーコンピューターでも無理ではないか、官僚主義が強まる可能性はないか、等々。

 

共産主義社会の一規定をめぐって議論が沸騰したのは何故だろうか。私は次のように考えている。

 

かつてのコレラやペストなどのパンデミックを引き起こした感染症に比べれば、新型コロナウィルスは、せいぜい“幕下クラス”だというのに、「高度文明社会」=資本主義社会は、たちまち混乱に陥り、隠されてきた深い闇をさらけ出した。多くの非正規労働者が失業し、会社の寮を追い出されて住処を失い、東京都内だけで4000人と言われるネットカフェ“難民”は路頭に迷い、風俗産業で働くシングルマザーは子どもとともにその日の食事にも事欠くことになった等々。

 

「美しい国・日本」の苦い真実を思い知って、この社会を根底から見直そうという気運が高まっているように感じる。現に多くの知識人がコロナ禍以後の進むべき道に語っている(もっとも、その思考は大体が観念的空想的で、中途半端だと言わざるを得ないのだが)。読書会の皆さんも資本主義の行き詰まり、その脆弱性を痛感し、これまで『資本論』の所々で言及されてきた共産主義社会を、今までより身近に感じたのではないだろうか。それが議論沸騰の背景にあったような気がするのだ。

 

議論の集約

 

議論を逐一紹介すると長くなるので、議論の中で確認されたことをまとめてみよう――

 

①共産主義社会とは「共同的生産手段で労働し自分たちの多くの個人的労働力を自覚的に一つの社会手的労働力として支出する自由な人々の連合体」(『資本論』第1篇第14)であり、資本賃労働関係が――したがってまた搾取や差別、抑圧が――入り込む余地はない、

 

②病人や高齢者、幼児など働けない人々を除く社会のすべての成員が労働を担うので、また資本主義ならではの“無駄な”仕事がなくなるので、労働時間は大幅に短縮される(例えば、6時間、あるいは4時間労働制になる)、トマス・モア(1478-1535)は早くも16世紀の初めに、働けるすべての人々が働き、無駄な仕事をなくせば、6時間労働でも十分足りると論じた、

 

③生産物は労働時間に応じて分配され、生産力が発展するにしたがって「労働に応じた分配」から「必要に応じた分配」に移行する、

 

④労働は苦痛ではなく、楽しみ、喜びとなり、また特定の労働に生涯縛り付けられるのではなく、様々な労働を交互に担い、労働を通じて人間の能力を発展させ、「全面的に発達した人間」になっていく、

 

⑤余暇は芸術文化や科学・研究、体育など様々な活動にいそしむことができる(若きマルクス・エンゲルスの著作『ドイツイデオロギー』によれば、「私は今日はこれを、明日はあれをし、朝は狩りをし、午後は漁をし、夕方には家畜を追い、そして食後には批判をする――猟師、漁夫、牧人あるいは批判家になることなく、私の好きなようにそうすることができるようになる」)、

 

⑥国家は「階級対立の非和解姓の産物」(エンゲルス)であり、階級対立がなくなれば、国家は「死滅する」、

 

⑦「物の管理と生産過程の支配」を担う機関は残るが、管理業務は特定の人の職業として行われ、特権や利権が絡むようなことはない。なぜなら、誰もが高度の教育を受け能力を身につけるにしたがって、特定の人ではなく、多くの人が交互に管理の任務を担うことになり、官僚主義の発生する余地はない、

 

⑧スーパーコンピューターやAI、インターネットの発達により、経済の管理も容易になる等々。

 

国家資本主義論の意義

 

議論を整理しながら、私は最後に、ここにあげた簡潔な共産主義社会についての規定からだけでも、かつてのソ連や現代の中国が共産主義などでは決してなかったことが明らかになることを指摘した。国有企業が労働者を雇用し、低賃金で酷使してきたのであり、商品生産・流通は継続し、国有企業の幹部や政府官僚(共産党官僚)は癒着し、富を独占し特権をむさぼっていた、その体制は特殊な資本主義、国家資本主義と規定すべきだと論じた。ソ連や中国を誰もが社会主義国と信じていた60年代半ばに、少数の研究者・活動家たちは、ソ連・中国の体制を徹底的に研究し、国家資本主義概念を確立したが、私も当時この研究の一翼を担った。ソ連・中国=国家資本主義論は、世界の認識を根本から変えるものであり、ノーベル賞ものの“発見”だと思うのだが、未だに誰も推薦してくれないとジョークを言ったが、誰も笑ってくれなかった(別に望んでいるわけではないので、どうでもよいのだが)

以上(文責・鈴木)

 

★ 自民党と反動の改憲策動、軍国主義路線を断固粉砕しよう!
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