なぜ批判が必要か

《学習会の議論の中で》

―神奈川の『資本論』学習会会報より(一部削除・修正)


 学習会の議論の中で、斎藤幸平の著書(「人新世の資本論」)はわかり易く、『資本論』を広めるのに貢献したとか、マルクス主義は批判が多すぎる、団結すべきだ、といった意見が出されました。

 斎藤氏や白井聡氏(「武器としての『資本論』」の著者)が『資本論』の普及にある意味で貢献したというのは確かでしょう。しかしここに陥穽があります。読み易いがゆえに一層警戒しなければならないのです。

 マルクスの『資本論』やその他の著作は、資本主義社会の歴史的進歩性を認めると同時に、その没落の必然性とそのための労働者階級の闘いの必要性を明らかにしたものです。

 『資本論』は難解な書だけにどうしても解説書に頼ってしまうのです。この解説書がマルクスの意図を正しく伝えていればいいのですが、このブルジョア社会では、解説者自身が、大学の先生やジャーナリストなどの小ブルジョアインテリであるので、多くの解説書が階級的な視点を故意に隠蔽したり、欠落させたりしているのです。

 マルクスが一貫して訴えていることは、資本主義社会を支え維持しているのは労働者であり、その労働であること、労働者の解放(それは全ての階級の解放につながる)は労働者階級自らの力で成し遂げなければならないこと、そのために労働者は団結し、資本の支配(賃金奴隷制)の廃絶に向けて労働者の階級闘争を発展させることです。

労働者の階級闘争を発展させよう

 こういうマルクスの根本思想から見て、今、市中に出回っている『資本論』やマルクスについての解説書はどうでしょうか? 残念ながら、殆どの解説書が失格ということです。読者に、資本の支配の廃止や労働者の階級闘争を、真剣に訴えている解説者は全くないと言っていいでしょう。

 レーニンがマルクスの思想を解説した論文『カール・マルクス』を見てみますと、初めに「マルクスの学説」として、唯物論や唯物史観などの解説があり、最後に来るのは、階級闘争です。次いで「マルクスの経済学説」と「社会主義」が説明された後、最後に再び「プロレタリアートの階級闘争の戦術」を説いて終わっています。

 レーニンが、マルクスと共に終始一貫して強調していることは、プロレタリアートだけが、真に革命的な階級であり、ブルジョアジーだけでなく小ブルジョアジー(大学のインテリ先生もこれです)も革命的でなく保守的であること、そして労働者は、資本の支配の廃絶に向けて階級闘争を発展させていかねばならないということです。

 翻って、斎藤幸平氏やその他の解説者が述べていることを読んでください。なるほど彼らは、資本主義が時代遅れになったことやその矛盾や弊害らしきことを述べています。しかし一体、この資本主義をどうしようと彼らは言っているのでしょうか?

 彼らは労働者の階級闘争も、資本の支配(賃金奴隷制)の廃止のことも、一言も述べていません。その代わりに、例えば斎藤幸平氏は、労働者が共同出資して生産手段を共同管理する協同組合を提唱しています。しかし資本主義的な環境をそのままにした協同組合運動は、結局は企業との競争に敗れるか、あるいは資本主義的な経営に変質していくしかないのです。

 あるいは、「武器としての『資本論』」の著者の白井聡氏が述べているように、労働者は贅沢を目指して経済闘争を闘えばいいのでしょうか? これについてもマルクスは、賃上げ闘争に満足してはいけない、労働者は賃金奴隷制の廃絶に向って闘わねばならない、と檄を飛ばしているのです。

マルクスを平凡な改良主義者にするな

 このマルクスやレーニンが絶えず労働者に説き続けた肝腎かなめのことが、ブルジョア出版物の解説書からは抜け落ちているのです。これらの解説書から浮かんでくるマルクスのイメージは、単なる資本主義の改良主義者に過ぎません。彼らは革命家マルクスを、単なる市民主義者にしてしまうのです。ここにこそ私たちが、斎藤氏や白井氏などの著書やブルジョア出版物を批判する理由があります。

 彼らの描くマルクス像に囚われていては、労働者の団結は解体され、労働者の階級的闘いは、単なる市民運動に解消されてしまいます。これこそブルジョア階級が、狙っていることなのです。

 労働者の階級的闘い、資本の支配を廃絶する闘い、労働の解放をめざす闘いを捻じ曲げ、単なる改良的な闘い、物取り主義の闘いへと導くこと、これこそブルジョア階級の、そしてその意を受けた小ブルインテリたち(彼らは意識しなくても客観的には)の狙いです。

 資本家階級は、あらゆる手段を使ってブルジョアイデオロギーを労働者に注ぎ込もうとしています。ブルジョア出版物のマルクス解説書もその一環です。彼らの著作が労働者の革命的な闘いに害毒を流すことを警告し、批判する必要があるのです。

 資本主義社会においては、二つのイデオロギー、つまりブルジョアイデオロギーと労働者の階級的イデオロギーしかありません(勿論、その中間にはブルジョアイデオロギーの変種である様々な小ブル思想がありますが)。

 ブルジョアイデオロギーを批判せずに放置しておくことは、労働者階級をブルジョアイデオロギーに、思いのままに染めさせることになるのです(「支配階級の思想は、支配的な思想である。」マルクス)。ここに私たちがインテリ教授たちのマルクス本を批判する意義があるのです。(K)