定年間近に退職された大阪の杉さんから、「差別」について考えさせる投稿がありましたので、紹介します。
負けるな、日本の労働者!
「人を物扱い」する差別の構造
最近、話題の大坂なおみについて、9月24日の「毎日新聞」夕刊に記事が載っていた。「黒人運動」「なぜ日本で批判」と題するもので、「黒人の命は大事だ」というBLMに対し「支持を表明した」「大坂選手にも(批判の)矛先」が向いているという。そして「差別構造に理解が無い」、そこに日本の問題があるとしている。
記事を読むと、しかし、BLMに対するアメリカ国民の支持率も複雑な様子を示している。6月上旬には53%まで支持率が上昇したが、その後、9月11日には49%に低下したという。対する反対は、同じ時期に28%から38%に伸びている。BLMに対する反対が目立つのは、65歳以上の男性、共和党支持者、そして白人だと言い、他方、18から34歳の若者、大学院卒業生、民主党支持者、そして黒人のあいだでは、支持者が多いという。こうしたことを読んで考えるなら、いわゆる差別は日本だけの問題ではないことが伺われる。
大坂なおみのツイッターが掲載されている。見ると、彼女の問題意識が伺える。英文であるが、「私はトレイボン(2013年に自警団員に射殺された黒人高校生)の死をはっきりと覚えている。子供の頃であったが、怯えを感じた。彼の死が最初ではないことは知っていたが、私にとっては、何が行われているか、ということに目を開かされた。未だに同じことが、次から次へと行われていることは悲しい。問題は変えなければならない」というのが、彼女のメッセージである。これを読むと共感を覚える。
新聞では「差別構造への理解」が課題であるかに言われている。しかし、実際には支配と奴隷の関係が未だに続いているのではなかろうか。と言っても、黒人奴隷は制度的には解消されているし、法の下での平等や、貴族の廃止が戦後の日本の憲法では謳われている。しかし生産現場においては、依然として、賃労働と資本という関係が継続しているし、そしてさらに、支配する資本と、奴隷的地位に甘んじざるを得ない賃金労働者との関係こそ、現代社会を歴史的に特徴づける人間の関係と言えるからである。経済的な困難が深刻化するのに従って、「資本論」に対する需要が増している。人々の憤懣やるかたない憤りは、政治のあちこちで日々噴出していないだろうか。
昨年、退職した身として、実際、生産現場での経験を思い出すなら、最も深刻だった問題は、支配者面をした管理者から、奴隷のごとき扱いを受けたことである。仕事は郵便局での配達で、実際に約35年間それに従事していた。その賃金契約において、搾取されているとか、やたらに仕事量が多いとか、当局は人を物扱いし、むしろ物を人扱いするような管理が横行していた。ただし、個人的には「資本論」を読んで理解しようとしていたこともあって、こうした労使関係に対する覚悟は出来ていた。
定年まであと少しという時になって、或る事件が発生した。何処の誰かは忘れたが、郵便物が紛失し、それを紛失した人の責任追及が始まっただけではなかった。紛失や盗難を防ぐという謳い文句の下に、やたらに厳しい監視が始まった。それに目を付けられたのか、やるべきことをやっていないとして、バイクではなく、自転車で行くよう強制された。昔は、全員が自転車配達であったが、配達物数が増えたので、バイクに切り替わった経緯があったので、再び自転車配達をすることには何の問題もなかった。しかし、それを「強制された」ことは酷い「見せしめ」であり「罪人である」かに思うことを強いられた。他の会社では、「窓際族」と言って、定年間際の労働者に嫌がらせをして、早期退職を強いる話があるが、それを体験したと言って好い。
諺に「災い転じて福となす」と言う。こうした支配と奴隷とも言うべき関係について、ヘーゲルの「精神現象学」を読んで、人間の「承認をめぐる生死を賭けた争い」があることに気づいた。そして、管理サイドが何を求めているかが分かった。彼らは自らを支配者として認めてほしいのであり、いい加減な扱いはしないでほしいのである。そういう願いが分かったという次第で、その意味では、実際の労働に携わりながら、資本の問題を考え、理解する機会を得た。
実際の労働現場においてこそ、人と物との違いを付けることが求められていると観念する。未だそんな分別が社会的には付けられていないのであるが、そこには、生産手段に対する私的な所有制度が、支配していることが暴露されている。そしてこの私的所有制度こそ、生産現場における支配と隷属と言うべき労資関係を維持させている。
頑張るのは、大坂なおみだけに任せては置けない。日本の自覚的な労働者こそ、世界に先駆け資本との闘いに奮起すべき時である。
(テニス歴20年の大阪・杉)